世の終わりの兆候(1)

 『世の終わりの兆候(Ⅰ)』−見えないものにこそ目を留めよ−
マタイ24章1−14節 11.12/4
 昨年のNHKの番組で、40代の女性が胃がんに冒され、しかもスキルスガンで、余命3ヶ月と宣告されたのですが、彼女は抗がん剤治療を受けながらも、食事制限をすることなく、これまでと変わらず、好きなものを食べ、そして、お母さんとしばしば旅行に行き、旅先においても、おいしいものを食べるといった生活を続けておられるおというなかで、余命3ヶ月はすでに過ぎ、抗がん剤治療の効果もあって一年以上も過ぎているという内容でした。
余命を告げられて愕然とする患者さんもいれば、中には気丈夫に生きる人もおられるのです。先ほどの方は、余命とは残りの寿命ではなく、与えられた命の日ですと言っておられたのが印象的でした。
さて、けさの聖書箇所は、世の終わりについてのイエス様のお話であります。医者は余命を告げるのですが、神様はこの世の終わりがいつ来るのか、つまりこの世界の余命がどれぐらいあるのかを明らかにされなかったのです。そのために、人々はこの聖書からいろいろと推測したり、解釈したりしてこの世の終わりがいつなのかを設定するという過ちを犯して来たのです。
セブンスデーアドベンチスト(土曜日を安息日として、礼拝する群れ)の指導者であったウイリアム・ミラーは、ダニエル書8章14節を自分なりに解釈して、キリストの再臨を1843年3月21から1844年の3月21日と予告しましたが、その後1844年の10月22日に修正したのです。
この教えに影響を受けた、エホバの証人創始者であるチャールズ・ラッセルは、1874年の秋に、1914年に異邦人の終わりの時(不可視的)が来ると予告したのです。その後幾度か修正して、1975年にハルマゲドンが起こると予告したのです。
実はプロテスタントの教会もそのような過ちを犯していたのです。ホーリネス派の中田重治氏は、1933年にキリスト再臨があると予告しました。
20年ほど前では、韓国のタベラ宣教会は、1992年10月22日、信者が携挙されると説いた指導者に従って、職場、学業、財産などを放棄して、教会に集まりその日を祈り待ち望んだのですが言うまでもありません。何も起こりませんでした。
賢明なクリスチャンは4節のみことばに耳を傾けるのです。『人に惑わされないように気をつけなさい。』
どんなに聖書を研究して解釈したとしても、聖書に書かれていない主張には注意しなければなrません。聖書は次のように語っているからです。『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。ただ父だけが知っておられます。』(35、36節)
ですから24章から25章の世の終わりについてのイエス様のみことばを正しく理解し、また注意深く学ばなければならないのです。
24章2節は、エルサレムの滅亡の預言、24章4―44節は、終末の前兆と主の再臨、24章45節から25章46節は、再臨の備えと最後の審判、そしてそれに関わる3つのたとえ話という具合に展開して行きます。
けさは1−14節から学びます。まず2節ですが、ここではエルサレムの滅亡の預言であります。
1節に、弟子たちがエルサレムの神殿を見て、イエス様にその建物を指し示したのです。マルコ13章1節を見ますとその情景をもっと詳しく書かれています。『先生。これは、まあ何と見事な石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。』と弟子たちがあまりにもすばらしい神殿を見て絶句している様であります。しかもそれをイエス様に指し示したのです。
神殿は彼らイスラエル民族の誇りであり、威信に関わるものでした。当時は貧しい人々がほとんどだったようですが、荘厳な神殿は、そのような人々さえにも民族の誇りと将来の希望をもたらすためには十分な建物であったはずです。
来年は東京スカイツリー(634m)が完成しましす。これもまた東京のみならず日本人のステイタス(存在価値・地位)となっていくのではないでしょうか。
かつて大阪万博が開かれた時に、私はちょうど会社に就職して2年目の時でした。日本は高度成長経済をまっしぐらでした。私もきれいな万博開場の夜景を見ながら、これからの日本はどんなに成長して、すばらしい国になると思ったものです。 しかしその後、日本はどのような歴史をたどって今日の経済情勢に至っているかは語る必要はありません。皆さんも身をもって経験され、また見て来られたのです。
私たちクリスチャンは、この聖書から大切なことを教えられているのです。『私たちは、見えるものにではなく、目ないものにこそ目をとめます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(第2コリント4章18節) 
この世やこの世界は栄枯衰退であります。この世に望みをおいて生きて行くなら、やがて、はかなく消え去って行きます。
いかなる大国も永遠に続くことはないことを世界の歴史は証明しています。エジプト大国、アッシリヤ、バビロン、ギリシャ、ローマは滅び去りました。大英帝国を誇ったイギリスもかつての力はないのです。今日ではアメリカ合衆国でしょうか。そのアメリカ大国もやがて、世界の檜舞台から退く時が来るのでしょうか。
聖書の預言によるなら、今日のEUが再編成されて権力を持つと解釈されているようです。しかしいかなる国が現れても、永続に存続するのではないのです。やはり一時的であります。
さて、弟子たちは目の前にある荘厳な建物に見入っていた時に、イエス様は、『このすべてのものに目を見張っているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』と言われたのです。
これはまもなく、このエルサレムがAD70年にローマ軍を率いるティトスによって、エルサレムが包囲され、エルサレムに集まった多くのユダヤ人が、壮大な神殿を凝視しながら死んで行ったのです。ヨセフスというユダヤの学者によれば、110万人のユダヤ人が殺され、9万7千人が捕虜になったと言われています。
しかしイエス様のおことばに従った人々は、山に逃れて命が助かったのです(16節)。『みことばに心を留めるものは幸いを見つける。主により頼む者は幸いである。』(箴言16章20節)とみことばは教えているのです。
世界一の電波塔を建築した私たちの国も同様です。やがてはその建築物が崩されずに、組まれたまま残ることは決してないのです。なぜなら『この天地は滅び去ります。しかしわたしのことばは決して滅びることはありません。』と主は言われたのです。聖書は世の終わりが必ず来ることを預言しているのです(24章35節)。
エス様の預言通りに、弟子たちが目を見張って見つめていた神殿はそれからおよそ40年後に無惨にも完全に破壊されたのです。
近代国家であることを誇りとし、数々のすばらしい高層の建築物や科学進歩を遂げる国々の技術力に目を見張るものがあります。しかしけさ、心に留めておくべきことを学んだのではないでしょうか。『目に見えるものは一時的であり、目に見えないものはいつまでも続くからです。』というみことばであります。
私が神学生の時に、用事があって親戚の叔父さんのところに行った時です。仕事は何かと聞かれて、私は、「神学校に行っています。将来は牧師になります。」と言うや否や、叔父さんは、「それはあかん、そんなんは食べていけないぞ。」と言われたのです。それを聞いて私は、この叔父さんは社長をしていたために、あれこれと言っても分かってもらえないと思って閉口したのです。その後の便りですが、60歳頃にがんになられて、数年後に亡くなられたのです。その直後に叔母さんもがんになられたのですが、幸い完治されて、今は社長として頑張っておられます。
亡くなられた叔父さんに言えませんでしたが、神様は、私をまた私の家族を牧師になって以降、いつも面倒を見てくださり、また教会の兄姉たちにも祈り支えられて来たのです。生活に困って一食を抜くということもありませんでした。贅沢をすることはありませんでしたが、必要は与えられて来たのです。
その基本は目に見えない神様を第一にすることであり、礼拝を大切にすることでした。そしてみことばに信頼することであります。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。花はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。』 (第一ペテロ1章24節)
世の終わりの前兆とは、それは、人々は目に見えない神様よりも、目に見えるものに心を奪われているといった状況が最も極める時ではないでしょうか。
そのような中においても、神の救いのメッセージは全世界に宣べ伝えられるのです。そして、そののちにこの世界の終わりが来ると聖書は預言しているのです。
この聖書は、神様を信じる者は、いつの日にかこの身体が朽ちても、永遠に朽ちないいのちと永遠の住まいを備えると約束しているのです。
『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』(第2コリント5章1節)
「余命とは残りの寿命ではなく、与えられた命の日です。」と先ほどのガン患者さんのことばであります。自分の死を受け入れ、残された命を大切にして生きるというのは素晴らしいことだと思います。
そして、私たちクリスチャンは、永遠の神の国を目指して、与えられた今の人生を大切にして生きることは素晴らしいことであります。
ですから、この世の終わりがいつであるかが重要課題ではなく、むしろその日を待ち望み、日々主に信頼し、みことばにより頼み、主とともに生きることのほうが優先課題ではないでしょうか。