『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節 12月2日(日)港
『人知を超えた神の愛を知る』―内なる人が強められてーエペソ3章14−21節
パウロは獄中で信徒のために何を祈ったのか。
第1に内なる人を…強めてくださるようにと祈った(16節)。
内なる人とは、キリストを信じて新しく生まれ変わり、心に御霊を持つ人となり、霊の目が開かれた人である。では、なぜパウロは内なる人が強められるようにと祈ったのか。それは、神を信じてもなお古い自分〈外なる人〉が旧態依然のために、この世の影響を受けやすい。エペソの教会のクリスチャンたちは、試練の中で信仰がゆらぎ、不安や恐れが彼らの心を覆っていたと思われる。そこで、パウロは彼らの内なる人を強めてくださいと祈った。
では強められた内なる人とはどのような人か。「実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(第二コリント10章10節)とパウロの評価は良くなかった。しかし、彼は御霊によって内なる人が強くされていたゆえに「どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人の働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」(16節)と祈っている。
第2にキリストが心に定住されるように祈っている(17節)。
紀元400年頃活躍した神学者アウグスティヌスは「私たちは、神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは平安がない。」と自らの体験を語った。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています。あなたがたは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。」(第一ペテロ1章8、9節)しかも、御霊(共におられるキリスト)の内住という体験は、いかなる時であっても信仰に固く立つことができる原動力となる。
第3に人知をはるかに超えたキリストの愛を知って欲しいと祈った(17b-19節)。では、人知を超えたキリストの愛を、人はどのようにして知ることができるのか。それは、クリスチャンが神を信じた時に自動的に神の愛を知るのではなく、その愛を知ることのできる御霊(霊性)を受けたからである。ですから、私たちの霊性(どれだけ御霊に満たされている)が、いつでもキリストの愛をキャッチできる状態でなければならない。
さて、私たちは神を信じていても様々な試みがある。それは悩みや苦しみ、悲しみや痛みかも知れない。しかし、それらを自分の力で乗り越えようとするのではなく、御霊によって強められた内なる人により、試みを乗り越えるようにとパウロは祈っていた。
信仰生活が守られ、支えられる秘訣は、外なる人(肉性)ではなく、内なる人(霊性)を強める御霊によって歩むことであると教えられる。「御霊は弱い私たちを助けてくださいます。」(ローマ8章26節)