2012年元旦礼拝のメッセージ 

「この一年を幸いに過ごすために」
詩篇1篇1ー3節 2012年1月1日
 

 昨年は幸福度ランキングが取り沙汰されました。ブータン王国は8位、日本は90位でした。とはいえ、一概に幸福感と言っても、その捉え方には個人差があります。
なかでも大阪市の幸福度ランキングが日本で最下位ということでしたが、街行く人たちにインタビユーすると、「幸せですよ」と言う大阪市民も結構おられたのです。
世界の中では幸福度ランキングが低い日本人の多くの人が、幸せですよと言う答えを返す人が案外とおられるのではないかと思います。
それは物質的には恵まれた国に住んでいるということに起因しているように思われます。
というのは、昨年の11月15日の朝日新聞に宗教に関する統計の数字が記載されていました。宗教に対して興味を持つ人が増えて来ているということであります。
その要因には、人々を震撼させたサリン事件を起こしたオウム真理教の恐怖から16年経過して、宗教への警戒感が薄れて来ているためではないかという見方であります。
もうひとつには、将来に対する不安です。昨年の東北における巨大地震と大津波、そして福島原発事故による放射能汚染。さらに全国各地に多発する地震や水害。
そして世界に目を向けますと、異常気象によると思われる大規模な天災(タイ国の水害も)が起こっています。
さらに世界経済に目を向けると、EU経済危機など、日本のみならず、世界中に不安材料が山積しているという現状があるのです。
このような先行き不安な状況の中で、毎日安穏と生きられる人はある意味では幸せな人なのかも分かりません。もしそうなら、それは現実逃避であり、この世の中や社会に対してあまり関心を示さない、いわゆるノンポリ人生と言わざるを得ないのです。
多くの日本人のみならず世界中の人が、今日の世界に対して危機感を持っているのではないでしょうか。
そのような中で、この聖書は、真の幸せとは何か、そしてその幸せを手に入れるためにはどうすればいいのかを教えているのです。

けさは特に詩篇1篇の1—3節から学びましょう。
この1節から3節でのキーワードは「幸いなことよ」という言葉であります。これは本来、「まっすぐ歩む」という意味があります。それは、神様の目から見てその人が正しく歩んでいるということであります。
たとえその人が神様を知らないとしても、神様の目から見て間違った生き方をしているなら、その人の魂は幸福感で満たされるということはないのです。なぜなら、私たちの心の源は神様につながっているからです。
以前刑務所にいる受刑者にインタビューしている番組を目にしました。殺人によって懲役何十年という刑を受けた人が、刑務所での生活において、日々後悔の念と、加害者に対して償い切れない心痛を語っておられました。
アダムとエバが罪を犯した時に、自分たちが裸であることを恥じらうようになり、アダムは神様の目を避けて隠れてしまいました。
そこで神様は「あなたはどこにいるのか」とたずねられた時に、アダムは「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて。隠れました。」と答えたのです。罪によって神様との関係が壊れてしまい、彼らの心は平穏を失ってしまったのです。
また、アダムとエバの子供であるカインが、ある時に神にささげる心が良くないことを指摘され、しかも弟のアベルのささげ物を神様が喜ばれた時に、アベルは憤って弟のアベルを殺してしまいました。
弟のアベルはどこにいるのかと神様に追求されて、彼は知りません、私は弟の番人でしょうかと言い逃れをしたのですが、神様の目から逃れることはできません。カインは神様から、その罪の刈り取りをしなければならないことを告げられて、「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」と罪を認めたのです。
このように人間は神様の前に真実でなければ、真の幸福を手に出来ないということではないでしょうか。
そのように考えるなら、真の幸福感というのは量的なものにあるのではなく、その人の生き方にあるということであります。
実は人間というものは、小さなことで幸せになることも出来れば、些細なことによって幸せを失うこともあるのです。  
 昨年の11月の食事会において、展示会を持ちました。その時に、たまたま近所のAさんと玄関先で話しをしている時に、Aさんが趣味の陶芸の話しされて、玄関にあるその作品を見せていただきました。どれも力作でした。
そこで私は、Aさんの作品を作品展に出させて頂いてもいいでしょうかと尋ねますと、快諾してくださいました。
そして食事会が終わって、借りた作品(沖縄のシーサー)を袋に入れようとして、少し作品を触っていると歯のひとつがぽろっと落ちてしまったのです。一番心配していたことが起こりました。ボンドで何とか歯はくっついたのですが、心には平安がありません。申し訳ない思いと、もっと気をつけていればと後悔をしてみたり、心が少々落ち着きませんでした。 
次の日の夕刻に、少しばばかりの手みやげを持ってAさん宅に行きました。有り難うございました。と言うとすかさずAさんは、また次の時も他の品物を持っていってくださいと言われた時に、私は即座にすいません、実はここの歯が取れてしまってボンドで何とか付けたことを告白しました。
するとAさんは、そんないいですよ、よくあることです。陶器用のボンドでよく修理しますよとおっしゃってくださったのです。事実を言ってもそのように言ってくださる方だと思いつつも、心中は穏やかではありませんでした。しかしAさんのそのことばを聞いて、私はほっとして、どこか憂鬱な気持ちが晴れたのです。
まず神様の前に真実であるかどうかを問われるのが、他の生き物とは異なる心を持っているのが私たち人間ではないでしょうか。
このように、先ほどの話しのように、大きな犯罪を犯して心に大きな痛手を受けるというだけでなく、今平穏な心で生活をしていても、些細なことや小さなことで心が騒いだり、平安を失ったり、恐れたり、心配したりするものです。
それが神様の前に喜ばれないことや、悲しまれることや、正しくないならなおさらのことです。神様の前にはどんなに些細なことや小さなことであっても、見逃されたり見過ごされたりされることはないのです。
ダビデ王は詩篇25篇12、13節で『主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、幸せの中に住み、その子孫は血を受け継ごう。』と語っているのです。  しかしそのダビデが、王位を利用して人妻を自分の妻として大きな罪を犯した時、彼は非常に苦しみ、もだえました。

その告白の詩が詩篇51篇です。神様にもうひとたび心の平安を取り戻すために赦しを懇願しているのです。
王様ですから豊かな生活を享受し、命令ひとつで人々を動かすことが出来たとしても、ひとつの罪によって彼の心は落ち着きを失い、大きな嘆きに変わってしまいました。 

詩篇Ⅰ篇を見ましょう。人が真の幸せを得るために大切なことを教えています。特に2節で教えられることは、神のみことばを生き方の指針とすることです。
主の教えとは「投げる」という意味から来ています。投げられた物が落下するまで目で追う線(ライン)のことを意味します。それから転じて方向、教訓、基準という意味となります。
つまりこの聖書は生き方の方向、教訓、基準なのです。このみことばに目を配って生きる人が真の幸せを神様から頂くのです。
そのためには、このみことばを喜び、昼もよるもその教えを口ずさむ(思い廻らす)ように勧めているのです。
そのような人は、多くの実を結ぶと約束しているのです(3節)。今年もこのみことばにより頼んで行きましょう。
みことばに従って行きましょう。そして何よりもみことばを実行していけますように!
主題聖句:第2テモテ3章15、16節