1月8日〔日)「神の助けを求めた王」−この世と信仰− 第二歴代誌18章1節、20章1−4節

「神の助けを求めた王(1)」
―この世と信仰―  2012年 1/8  
 第二歴代誌18章1節、20章1−4節
 まず初めに、第2歴代誌の背景について、少しだけ触れておきます。歴代誌とは、『日々の出来事』という意味があります。著者はエズラと言われています。神殿準備に取りかかったダビデ王、神殿建設に当たったソロモン王、そしてソロモンの息子レハブアムから、諸王たちの信仰と不信にともなう繁栄と滅亡の記録が記されています。 書かれた目的は、バビロン捕囚から帰還(BC538年―445年頃)したイスラエルの民が、しばらくは希望に燃えて励んでいたのですが、様々な問題や、苦しみや、戦いに遭遇する中で、ある者たちは落胆し、礼拝に無頓着になり、神様へのささげものも不忠実となり、民の間にはお互いの不信感が生じて行くなかで、そのような彼らにイスラエルの民に与えられた偉大な伝統と使命を思い起こさせ、彼らを奮い立たせるためであります。そして、神に従った王には、神の祝福があり、神に離反した王には、災いが持たされたことを記し、彼らに警告を与えようとしたのが著者の主要な執筆動機であります。さて、けさ登場するヨシャパテ王(BC872—848年治世)ダビデより6代目の王であります。彼はバアルの偶像を破壊し(17章6節)、積極的に律法を民に教えた(17章9節)。そして強大な軍隊を保持し、非常に強くなりました(17章10〜12節)。   
ところが、18章1節を見ますと、富と誉れには豊かに恵まれたのですが、北イスラエルの王アハブ(神を恐れず、預言者を迫害し、バアル崇拝に堕落)と親戚関係を結んだのです。そのことが後々彼のアキレス腱となったのです。
その結果が20章1節であります。つまりアハブ王の戦略(モアブ人、アモン人との領土争い)に巻き込まれることになったのです。「彼の心は主の道にいよいよ励み(17章6節)、律法を民に教えて(17章9節)」いたにも関わらず、どうしたことでしょうか。
恐らくヨシャパテの繁栄と強大な軍隊の保有が彼のおごりとなり、あるいは油断となり、そのことによって神のみに信頼するという信仰姿勢にすきを突かれたのかも知れません。
「不信者と、つり合わぬくびきを一緒につけてはいけません。正義と不法にどんなつながりがあるでしょう.光と闇とに、どんな交わりがあるでしょう。」(第2コリント6章14節)
このことはヨシャパテ王だけではありません。イスラエル2代目の王ソロモンもしかりでした。強大な国を築いたソロモン王は、手当り次第に異教の妻をめとったために、偶像崇拝に巻き込まれて行ったのです。 
ダビデ王もスタートは良かったのに、国が安泰であった時に人妻を自分のものとしたいために、その夫を激戦地に送って殺すという悪事を働いたのです。
これらのことは、私たちも教訓とすべきところがあるのではないでしょうか。   
① それは初めに与えられた信仰を守り通すということです。
使徒パウロは「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(第2テモテ4章7節)と語っています。信仰を持って、その後教会を離れていくという人は決して少なくありません。しかしその中でどれだけの人が教会に回帰されるでしょうか。
昨年の講壇交換の時に、私は大阪にあるA教会に行きました。その時の礼拝司会者がT兄という70歳の方でした。短い時間でしたが少しお話出来ました。
その時に彼は、「私は教会を30年間離れていました。5年前に戻りました。妻はまだ戻っていません。」と話されたのです。
20年、30年、場合によっては40年教会から離れていたのですが、再び教会に戻って来ましたという話しを聞きます。しかしその数はそれほど多くはないように思われるのです。いやごくわずかではないかと思ったりします。
私たちの教会においてもたくさんの方が洗礼にあずかられました。しかしその後教会を離れられた方も少なくないのです。 
色々な事情があったためにということですが、私はいかなる事情があっても、イエス・キリストの素晴らしい救いにあずかって、この世の事情によって、あるいは自分の事情によって教会から、いや神様から離れられるというのは本当に残念でなりません。
私たちの教会において、10年ほど前?にある兄弟が16年ぶりに礼拝に来られるようになりました。その背景には彼の重い病気にありました。大きな試練によって再び教会に戻られたのです。58歳の若さで天に召される数日前に、教会の兄弟とともに病院に行き、お祈りをした時に兄弟は苦しい中でもはっきりとアーメンと応答されて、私は本当に良かったと思って病院を後にしました。
 信仰を守り通す大切さとさらに、② この世の誘惑や、この世に関わり過ぎて信仰から離れないように警戒しなければなりません。 パウロは「この世と調子を合わせてはなりません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。」(ローマ書12章2節)と語るのです。
ダビデ王とその息子であったソロモン王は、世の誘惑に惑わされて、ダビデ王は悪事を働き、ソロモン王は偶像と関わってしまい、信仰は離れることはありませんでしたが、それらのことは、神様を非常に悲しませるものでありました。
それだけでなく、ダビデ王は後悔の念に日々苦しみ、ソロモン王の信仰の堕落は、彼の息子たちやその子孫にまで悪影響を及ぼす結果となりました。
先ほど第2テモテ4章7節のパウロのみ言葉を引用致しましたが、その後の10節で「デマスはこの世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」と書いているのですが、少し以前に書かれたコロサイの手紙の4章14節では「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」と書かれています。
デマスはキリストの弟子でしたが、パウロの一回目の投獄においては、同労者として扱われているのですが、パウロの二回目の投獄の時に、デマスはパウロを捨ててしまったのです。
この世を愛してというパウロのことばについての詳細はよく分からないのですが、いみじくも、主の弟子ヨハネは彼の手紙の中で「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅びます。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」と書いています。
また主イエス様は十字架にかかられる前日、ゲッセマネにおいての祈りの中で「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。」(ヨハネ17章14節)と言われました。
世そのものが悪いと言う概念ではなく、神様を受け入れないこの世においては、人の罪は数々の世の誘惑にさらされて、惑わされ、罪の力に支配され、自制を失い、悪の道に誘われてしまうというのが、聖書における「世」ということばの概念と思われるのです。そのような捉え方によって、パウロが言った「この世」という意味を理解すべきであります。
さらに私たちの信仰を破局に至らしめるもののひとつには、お金の誘惑があります。聖書はお金を所有(その多少に関わらず)することを悪いとは決して言っていないのです。聖書は正しい金銭管理について教えており、あるいは私たちが金銭に盲目にならないように注意を促しているのです。
パウロは愛するしもべテモテに「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」(第1テモテ6章10—12節)と書き送っているのです。
この世を愛して、パウロを捨ててテサロニケに行ってしまったデマスのようにならないように。私たちも「この世」にいても「この世に」飲み込まれないように、神のみことばに目を留めて歩みましょう。
③ 最後は人生が順風満帆であるほど要注意です。
冒頭でヨシャパテについて、「彼の心は主の道にいよいよ励み(17章6節)、律法を民に教えて(17章9節)」いたにも関わらず、ヨシャパテは国の繁栄と強大な軍隊の保有がおごりとなり、あるいは油断となり、そのことによって神のみに信頼するという信仰姿勢にすきを突かれたと語りました。 
彼の順風満帆に歩みが彼の信仰を弱めたのです。私たちはいかなる時も、神様を恐れなければならないのではないでしょうか。人生が順調に行っている時には、神様の恵みに対して感謝を忘れることのないようにしましょう。
また人生の試みの時には、忍耐することを忘れないようにしましょう。人生の試練の時に、神様につぶやきたい思いが満ちる時には、聖霊様に満たされるように祈りましょう。
神様はむやみに私たちを苦しめられることはないのです。必ず何か理由があって、信仰の試みに会わせられるお方なのです。もちろんそのようなことは、私たち信仰者にとっては周知のことでありますが、生身の私たち苦しい時には根をあげそうになるものです。
たとえそのようになったとしても、信仰は守り通しましょう。天における報いは大きいからです。 この世はますます混迷をきわめて行くことでしょう。またこの世は、将来何が起こるのか分からないという不安で満ちているのです。
ですから私たちは、互いに励まし合い、慰め合い、そしてイエス様が教えて下さったように互いに愛し合って行きましょう。この新しい年も、神とともに歩みましょう。