『思いがけないときに来られる再臨のキリスト』 マタイ24章42−51節

『思いがけない時に来られる再臨のキリスト』
 マタイ24章42−51節  2012年2/19
マタイ24章32節から41節は割愛したのですが、このところでは将来、森羅万象(全宇宙)の終わりは必ず来るけれども、ただしそれがいつであるかは,誰も知らないということが書かれています。
ただしこの世の終わりの気配に気づいたならば、主イエス様の再臨が近いことを知りなさいということがその箇所の要約であります。
旧約聖書において預言されていたキリスト誕生と死と復活も成就しました。そして次に起こるキリストについての最大の預言とは、キリストの再臨であります。
新約聖書には至る所において、キリストの再臨について語られています。ただし先ほども触れましたが、その日がいつであるかはだれも知らないと36節と42節で書かれています。
そして44節で『だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は。思いがけない時に来るのですから。』と主は言われたのです。このみことばがけさのメッセージのテーマであります。 
さて、まず始めにイエス・キリストの再臨について触れておきます。実はキリストの再臨については諸説あります。大きく3つの諸説(今回は細かい解釈の説明は省きます。)があるのです。
それはどのような時代に中で再臨が起こるのかということであります。各諸説の大患難時代に再臨が起こるというのは共通点でありますが、キリストの再臨の時期がそれぞれ違うのです。
第一は大患難時代に突入する直前にキリストの空中再臨があり、そしてクリスチャンは携挙(よみがえりの体に変えられて空中まで引き上げられる)され、そして患難時代の終わりにキリストとともに地上に再臨するという説(解釈)であります。根拠とする聖書箇所としては第一テサロニケ4章16−17節、黙示録3章10節、19章1−10節などであります。
次に大患難時代(3年半)の前の患難期(患難時代を7年間と解釈する。ダニエル書9章24−27節より)にクリスチャンが携挙されるという説であります。この説の根拠としてのみことばも第一テサロニケ4章16、17節であります。 
三つ目は、大患難時代の終わりにキリスト再臨とキリスト者の携挙が同時に起こるという説であります。根拠のみことばとして、黙示録3章10節であります。試練から守られるという解釈を、試練の只中と解釈します。
それはイスラエル人がエジプトにおいて奴隷であった時に、神様がエジプト人に下された10の災いの只中にあっても、イスラエル人を守られたのです。
同じように世の終わりにおける試練の最中にあっても主は守られるという解釈であります。
私自身の神学校時代には、第1の説の立場を学びました。しかし最近では第3の説の立場が有力となっています。 心情的には第1の説がいいのですが、というのも第3の説は恐ろしい大患難時代を経験しなければならないからです。 しかし神様はクリスチャンを守るという約束は変わることはないのです。そしてキリストの再臨はクリスチャンにとって最高の希望の時であることは間違いないのです。それがいつであるかは知らなくてもいいと主は言われたのです。
ただし思いがけない時にキリストの再臨があることに注意が必要なのです。つまり大切なことは、いつ再臨があっても良いように備えておくということです。 ではいかに備えればいいのでしょうか。けさの重要なポイントであります。
Ⅰ.まず再臨は切迫しているということを知らなければならないということです。
聖書の預言(特にダニエル書)によれば、終わりの時代において、世界はグローバル化し、その中より大連合国家(復興ローマ帝国?)が生まれ、それらによる世界支配が起こることを預言しています。その支配は経済、政治、宗教にまで及ぶと言われています。 しかもその連合国家から強力な指導者が現われ、独裁的な行動をとると解釈されています。
恐らく世界経済は行き詰まり、政治界においてもその舵取りはだれがリーダーになってもうまく行かず、今後も世界の各宗教の対立は色濃く出てくると思われるのです。
そのような中において、国内の様々な方面におけるコントロールが難しくなり、より強力なリーダーの登場を切望する世界状況になるかと思われるのです。 また自然環境も改善のために努力はするものの、さらに悪化して行くことは火を見るよりも明らかであります。もはや人類は世界的な、そして慢性的な異常気象から逃れることは難しくなるのです。
終わりの時代とは聖書によれば、イエス・キリストの誕生から始まっていると言われているのです。それから2000年以上も過ぎました。もちろんいつであるかは分かりませんが、世界はますます患難時代に近づいている模様感は否めないのです。
ある解釈によればすでに患難時代は来ていると解釈されているのです。ローマ時代のクリスチャン大迫害、第一次、第二次世界大戦、世界的な経済危機、異常気象、大地震、飢饉、民族紛争、宗教対立、テロの多発とあげればたくさんあるのです。
これまで世界が一様にして平和であったという時代は、ほとんどなかったのではないでしょうか。『このように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。』(マタイ24章35節)
これからも世界情勢には目を見張って行く必要があることでしょう。たしかに主の再臨がはるか彼方の出来事ではない世界情勢となっていくのではないでしょうか!
Ⅱ.次には、何よりもみことばにしっかりと立つことです。
『この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。』(マタイ24章35節)
何と力強いみことばでしょうか。これは、天地が滅びると預言されたみことばが必ず成就するだけでなく、みことばはさらに永遠についても預言しているゆえに、決してすたれることはないということです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることはない。』(ペテロ第一1章24、25節)
私たちが日々みことばに触れて、みことばに聞き入り、みことばに導かれていることこそ、再臨のために備えていると言えるのではないでしょうか。
物質中心的な生き方は、ちょうどノアの時代のと同様(37節、38節)であるから、主は注意を促されたのです。
私たちは物資的なものに心の目を奪われやすいものですが、決してみことばから離れることのないようにしましょう!
みことばは勧めています。『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』(ペテロ第一4章7節)
Ⅲ.最後は、油断しないで忠実に生きることです。
それは45節から47節のたとえ話から教えられることであります。
私が薬品会社に勤めていた時に、時々緊張(特に上司)する時期がありました。それは、厚生省(当時)から役人が工場の調査に来るときでした。事前に知らせがあって、工場内をきれいに掃除をし、不備がないように努めるのですが、もし予告なしで、つまり不意をつかれて立ち入り調査をされれば、大変なことになると思います。調理師のT兄も病院で仕事をしておられるるのですが、年一回非常に期を使う時があると言っておられました。それはやはり保健所からの立ち入り調査でありということです。その時は調理場を普段以上にきれいにし、服も新品に着替えるということです。このように事前に知らされているから助かるのですが、不意に来られたりすると大変だと思います。
ところが主の再臨の前兆はあっても、それがいつであるかはだれも知らないのです。ですから油断しないで、いつも備えていなさいと警告されているのです。どのように備えていれば良いのでしょうか。それは忠実さであります。クリスチャンにとって大切な生き方の一つとしては、忠実に生きるということであります。それ教会生活においても言えることです。 今与えられている奉仕を忠実にする。いかなる奉仕であっても主のために忠実さを怠らない。たとえ奉仕の大小があっても、大切なのは、主の再臨の時に主が見られるのは、奉仕の内容ではなく、奉仕に取り組む心がけなのです。それをいかに忠実に果たしているかということなのです。
マルチン・ルターは『主のご再臨が明日起こるとしても、私はいつものように、今日一日を送る。』と言いました。
みことばの約束です。『死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。』(黙示録2章10節)