『ピラトの判決」−人間の本質について− 12年4月15日(日)


         『ピラトの判決』 12年4月15日(日)         

      ―人間の本質についてー マタイ27章11−26節
 
 一昨年、幼児殺害の足利事件菅家利和さんの無罪が確定し、国は7000万円と裁判費用1700万円の保証をしましたが、しかし菅家さんが失った18年間という時間は二度と戻りません。
菅家さんに無罪を言い渡した裁判長は、「二度とこのようなことを起こしてはならないと考えています。今後の菅家さんの人生に幸多きことを心より念じます。」と声をかけたのです。そして三人の裁判官が起立して、頭を深々と下げて菅家家さんに謝りました。
何の罪もない人を犯罪者にして、その人の大切な人生を台無しにしてしまうといった冤罪は後を絶ちません。
人はどんなに緻密に物事を行い、絶対に間違いがないと思っていても、どこかに間違いはあるものです。完全無欠な人間なんていないのです。 
さて、祭司長や長老たちに捕らえられてローマの総督ピラトの前に連れ出されたイエス様の裁判はどうだったのでしょうか。
本来、イエス様はユダヤ人ということで、ユダヤ人である祭司長や長老たちによって、いわゆるユダヤ教による宗教裁判にかけるべきでありました。   
そもそもイエス様が捕らえられた理由とは、イエス様がご自身を神の子であると宣言したことによる神への冒瀆罪であるということでした。
ですから、総督ピラトにしてみれば、イエス様の問題は彼らユダヤ人の宗教に関することで、あまり関わりたくなかったという本音がありました。
ではなぜ彼らは自分たちの律法によって、イエス様を裁かなかったのでしょうか。それは、神への冒瀆罪は律法によれば石打ち刑(死刑)でしたが、もしそのようなことをすればユダヤの民衆たちの賛同を得ることは難しいと考えたはずです。
言うまでもなく、多くの群衆がイエス様を支持し、イエス様に追従していたからです。イエス様を死刑にするにはあまりにも無謀な行為だったからです。
そこで祭司長や長老たちは、総督ピラトを巻き込んで、イエス様をローマの法律によって裁くことが賢明であり、しかも十字架刑という極限の苦しみと屈辱が伴う処刑であるのというのは、イエス様に対する彼らの激しいねたみを鎮めるためには、好都合であったのです。
しかし、彼らはピラトがイエス様に十字架刑を宣告するということは難しいことも十分承知していたのです。
そこで、彼らはピラトの弱い立場、つまり、それはイエス様に敵対する指導者たちは、おそらく事の詳細をよく知らない群衆たちを惑わし、ユダヤ祭りの国にとってもっともにぎわう過ぎ越しの祭りにおいて暴動騒ぎを引き起こすことによって、ピラトは動揺することを利用して、とうとうイエス様を十字架刑の判決を下させたのです(20節)。
本来ユダヤの律法によってイエス様を裁くことが非常に不利であることを見抜いて、ピラトとローマの法律を利用して、イエス様を十字架刑に葬り去ることを、祭司長や長老たちは、実に巧妙に計画を練ったことが分かるのです。
明白に自分たちのしていることが間違っていることを知りつつ、陰謀を企てたのです。そのような不義や不正や悪行の根は、イエス様に対する彼らのねたみにあったのです(18節)。
ねたみの力は恐ろしいものであります。
『憤りは残忍で、怒りは溢れ出る。しかし妬みの前には、だれが立ちはだかることができよう。』(箴言27章4節)共同訳では、『憤りは残忍、怒りは洪水、妬みの前にだれが耐え得ようか。』と訳しています。そして憎しみは、『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。』(第一ヨハネ3章15節)つまり苦いねたみの行き着くところは憎しみです。そして憎しみの行き着くところは人殺しなのです。
献げ物のことで神様に退けられたカインは、神様に褒められたアベルを妬んで殺してしまいました。人類最初の殺人事件が起こったのです。
ヤコブの子供たちは父ヤコブが最愛のした弟ヨセフを妬み、エジプトの商人にヨセフを売り飛ばしたのです。
サウル王は、戦争で大活躍し、群衆のヒロインとなった年若きダビデを妬み、憎しみ、殺意を抱くようになったのです。
妬みの火種は小さいうちに消さないと大変なことになる聖書の例証であります。
妬みは人間関係を破壊するものです。そればかりか、神様との関係も壊してしまいます。ある書物に「私たちは、神が、自分よりも他の人を祝福されたことで、腹を立てる。神が、私たちや私たちの願いを見過ごされたと感じるからである。そこで、環境、境遇に不満を感じて、つぶやき始めるので、こうした態度が、神と私たちとの関係に弊害をもたらされる。」と書かれているのです。
妬みはマルコ7章22節では罪であるとイエス様は言われたのです。ですから、妬みが生じた時には、早いうちに悔い改めて神様に赦される必要があるのです。そして、妬みから守られるすべを身に着けることが大切です。
パウロは勧めています。『喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。』(ローマ書12章15節) 
特に喜ぶ者といっしょに心から喜ぶ懐の深さを持つことが、妬みから守られる重要なカギとなるのです。
まずは自分の賜物、自分の境遇、自分の能力をしっかりと受け入れることによって、神様によってその人が祝福されているということを受け入れることが可能となるのではないでしょうか。 神様は決して私たちに人を妬む材料を置かれておられるのではないのです。 神様は公平な方であるというのは、私たちクリスチャンが認識すべき聖書の基本知識であります。
さて、ピラトは人が最悪になることを願うといった彼らのねたみを軽く考えていたようであります。
当日は3人の十字架刑が執行される日でした。しかもそのうちの一人が恩赦で死刑を免れるという日でした。
そこでピラトはイエス様をむち打ち刑にして、イエス様を恩赦にして極悪人バラバを死刑にすれば万事事が解決すると高をくくっていたのです。
ところが、すでにユダヤの指導者たちに惑わされ、ある面では無責任な群衆たちが騒ぎ立ち、釈放するのはバラバと大声で叫び出したのです。騒ぎがますます大きくなりがつかなくなって、ピラトはイエス様を釈放しょうとする努力から、自分の地位や立場を守ることに態度を翻したのです。
つまるところ、祭司長や長老たちのみならず、総督ピラトも最終的には自己中心的な態度に終始したという事実は否めないのです。
自己中心こそが人間の本質であり、すごくやっかいなものであることが分かりつつも、自分ではなかなか取り扱いにくいものであり、自らコントロールできないものであります。
自己中心は私たちの心の中に君臨しているのです。しかし、私たちは次のことを知っていることのために神様に感謝するのです。
それは、当時のユダヤの指導者たち、あるいはローマの総督ピラトのために、もちろん十字架につけろと叫び続けた群衆たちのために、イエス様は十字架で罪の身代わりのために死なれたという事実であります。
主イエス様は、『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。』と天のお父様に祈られたのです。真実な愛がなければこのような祈りができるはずがありません。
断末魔の苦しみを与えた人々のために、赦しを請い願うほどの愛を持っているという人がいるでしょうか。
その反面、妬みはゆがめられた、間違った自己愛です。そしてその自己愛から生まれて出てくるものは、他者を傷つけ、苦しめ、攻撃し、排除し、最後には抹殺してしまうという恐ろしいものなのです。
もちろん私たちの自己中心という性向はすぐになくなるわけではありません。ちょっとしたことにもすぐに反応してその本性が出るものです。
しかし、自己中心は自分では直せないからといってあきらめてはいけないのです。
神様は私たちが、利己的な生き方から解放されることを望んでおられるのです。しかし、それは自分の力ではできないのです。それは聖書の教えに心から従うことによって可能になるのです。人はみことばに従うときに、利己的な生き方から愛を実践する者へと変えてくださるのです。