『ダビデの祈り』−神により頼む人生− 詩篇4篇1−5節 2012年4月29日(日)

    『ダビデの祈り』−神により頼む人生−
  
     詩篇4篇1—5節  2012年 4/29

 詩篇の中にはダビデの作が数多くあり、その詩は今日においても、多くの信徒の心をとらえています。なぜなら、そこには慰めがあり、励ましがあり、神様への感謝と喜びと賛美に満ちあふれているからです。何よりもダビデが試練や苦悩というつらい経験をする中で書かれたということが、ダビデの詩が私たちの心を引きつける理由ではないでしょうか。
 そして、ダビデの詩の中には、多くの祈りがあるのです。
 けさは、詩篇4篇からダビデの祈りはどのようなものであったのかを見て行きましょう。
まず第1は、ダビデにとって生きて行くことと祈りとは切り離せないものでした(1節)。
そのように彼を祈りの人とならしめたものとは、それは、祈らないとどうにもできない状況に追いつめられることが多かったからです。ダビデにとって、悲しみや苦しみの多い人生を乗り越えて生きて行くためにはどうしても祈りが不可欠であったのです。
では、私たちクリスチャンも苦しみの多い人生を送るなら祈りの人となれるのでしょうか?実は必ずしもそうではないのです。
祈りについて3つのタイプがあります。1つは、人生における試練を正しく受けとめて祈る人。2つ目は、試練を正しく理解できないまま、不平、不満、疑いを抱きつつ祈る人。最後は試練に会うと、より祈る必要があるのにあまり祈れなくなる人です。ダビデは第1のタイプです。私たちはどうでしょうか。
1節を見ますと、『私の義なる神』と告白していますが、新共同訳聖書では、『私の正しさを認めてくださる神よ。』と訳しているのですが、これは、神は義であり正しい方であり、どんなに厳しい試練の中にあっても、決して意味のない試練を与えられるお方ではなく、試練には必ず意味と意図があるはずという信仰に立った告白なのです。つまりダビデは人生における試練を正しく受けとめていたということです。
さらに、『あなたは、私の苦しみの時に、ゆとり(広い所・くつろぎ)を与えてくださいました。』 
ここには、ダビデがいかなる苦しみの中あってもつぶやかずに祈ることができる秘訣があるのです。それは、どのような苦しみの中にも最善(ゆとり=広い所・くつろぎ)をなさなれる神であることを知っていたからではないでしょうか。
私たちもダビデのように生きることと祈ることとが一体化するなら、その人は神様から豊かな祝福を受けるのです。
 第2は、ダビデにとって祈ることはより神を深く知ることでした(2−4節)。
『よく祈る人は、よく学んだことです。』と宗教改革者であったマルチンルターが言いました。
ではよく祈る人は、何を学ぶのでしょうか。それは、知識としての神を知るということではなく、祈りを通して生きておられる神を知るということなのです。
私が神学生の時に、ある教会の祈祷会に出席しました。その時に牧師は、テキストを使って、聖書の学びをしておられたのですが、私に証しの機会が与えられた時に、神学校で習ったばかりのギリシャ語の知識を引用して、先生の学びに付け加えて話しをしたのです。実は先生は遅い年齢で献身されたために、語学は免除されたということを聞いていたのですが、聖書の学びは原語でするほうがという心のおごりが私にあったのです。神学校を卒業し、牧師の働きに就くと、神学校で学んだ知識だけでは解決できない問題や、自分の力ではどうにも出来ないということにしばしば出くわしたのです。その時に経験したことは、祈る大切さであり、自分のできることは祈ることしかないということを学ばされたのです。祈りこそ神様を知る最善、かつ最短の学習方法であるということを習得したのです。もちろん知識は不要というのではありません。
2節でダビデは、神様を知りながら、主の栄光を曇らせ、朽ちていくものや偶像を慕い求めている人々を嘆かれている神様の思いを語っているのです。
祈りによって神様を知るということは、神様の心を知るということでもあるのです。ですから、神様の思いを無視し、無関心である人は祈ることさえ無視し、無関心となるのです。
 そして、ダビデは3節で、『知れ、主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(だから、それゆえに)私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。』と告白しているのです。
他の訳では、『主の慈しみに生きる人は、主は見分けて(あるいは、主を敬う人をご自分のために聖別されたことを。)呼び求める声を聞いてくださると知れ。』と訳しています。
その意味は、主の慈しみに生きる者や、主を敬う者が聖徒と呼ぶにふさわしく、神様はそのような人を分けて別にするということなのです。このように、神様を知っているというのは、神様の前に正しく生きることでもあるのです。
そして、正しく生きるとは4節で教えられているのです。
『床の上で自分の心に語り。』とは、一日の終わりに、静まって、自分の心をサーチするということです。つまり心の中を良く調べるようにという意味であります。
このように、神様をよく知ることは自分についてよく知ることにつながるのです。そのために静まらなければならないのです。
それはただ沈黙するという意味ではなく、心静めて祈ることなのです。それによって、私たちのたましいが養われ、霊性が高められて行くことによって、より神を深く知ることができるようになるのです。
最後は、5節です。ダビデにとって祈りとは、神様を信頼することと同義語のようなものです。
まさに祈ることは、神を信頼しているという証しでもあるのです。
もし私たちが神様に信頼し切れないとするなら何が原因なのでしょうか。一番の原因は、知っているようで実は神様をよく知らないところにあるのではないでしょうか。
ダビデは多くの苦しみの最中によく祈りました。そのことによってダビデは体験的に神様について多くを知り、多くのことを学んだはずです。
 さて、ダビデの人生における様々な試練や困難は、彼の神様への信頼度をテストするために置かれただけではなく、ダビデを祈りの人への向かわせる(駆り立てる)ものではなかったのかなと思うのです。
今日の社会情勢、世界情勢、そして特に日本の教会の厳しい現状を見るとき、あるいは人々の心の状態を思うとき、いずれをとっても、神様を知る私たちクリスチャンを祈りへと向かわせるものがあまりにも多くあるのではないでしょうか。
時間が多く与えられている人は、神様からよく祈るようにとチャレンジが与えられていると考えてみてはいかがでしょうか。
そして、忙しくて祈る時間がなかなか取れないという方もおられることでしょう。でも一日のうちに全く祈らなかったということはないようにしたいものです。
また神様、あなたがいなくても私は大丈夫ですと言って祈らないのは、無神論者と同じレベルにいるのではないでしょうか。
祈ることは、クリスチャンにとって、神とともに生きていくこと、あるいは神を知ること、そして神を信頼することと同義語と言えるのではないでしょうか。
ある聖書注解者は、『祈りはクリスチャンにとって霊的呼吸である。』と言いました。
呼吸が人が生きて行くために不可なものであるように、祈りはクリスチャンが神様とともに生きて行くために不可欠なものなのです。
“主により頼む人とは、熱心に祈る人です”