『苦難から学ぶこと』 第二コリント1章1−5節  2012年5月6日〈日)

     

    『苦難から学ぶもの(Ⅰ)』 
           
           第2コリント1章1−5節12.5/6
 
 この手紙は紀元56年頃に書かれたとされています。そして、コリント教会はパウロの宣教の働きによって生まれました。
ところが、若いテモテが教会の責任者でありましたが、パウロがいない間に教会の中に様々な問題が生じてしまいました。特にユダヤ教主義者たちは、パウロを非難したり、また聖書の教えを曲解したりして、教会を混乱させ、心ある信徒たちに失意をもたらせてしまいました。
また他にも多くの問題を抱えていたコリント教会の信徒たちを励まし、慰め、力づけるために、パウロはこの手紙を書き送りました。
その内容からは、パウロがどれだけ教会を深く愛していたのか、また苦難の中にあるクリスチャンたちにどれほど大きな励ましを与えるものであったのかを伺い知ることができるのです。
けさはとくに4、5節から、苦難から学ぶこととは何かということについて見て行きましょう。
では4、5節を見ましょう。ここで教えられることは、
まず第一に、クリスチャンにとって苦しみの体験は、神様の慰めを体験する機会となるだけでなく、その慰めの体験は、苦しみの中にあるクリスチャンを励ますことができるのです(4節)。
第二のことは、信仰者の苦しみは神様との関わりの中で捉えるべきであるということです(5節)。
できることなら苦しみや試練に会うことなく、平穏無事に人生を送ることができるならと望むのが私たちの本音です。
しかし、何の苦しみも、悲しみも、困難もないという人生というものは、この世にはないと言えるのではないでしょうか。
それはクリスチャンである、クリスチャンでないに関わりなくです。
しかしパウロがここで言っている苦しみとは、キリスト者であるがゆえに経験する苦しみであると思われます。
というのは、パウロは個人的な、あるいは特定の人の苦しみについて取り扱っていないからです。
神様のみことばに従って真実に生きる中で伴う苦しみや試練なのです。つまり忠実に信仰生活や教会生活を守り、神様とともに歩む中で遭遇する苦しみであります。
それゆえに、神様。どうして私は苦しまなければならないのですかとつぶやき、また嘆いてしまうことがよくあるのです。
自分が悪いことをして苦しみに会うというのは当然のことと言えるでしょう。その場合は、神様の慰めを必要としているのではなく、悔い改めを必要としているのです。
しかし、自分は何も悪いことはしていないにもかかわらず、どうしてこんなにも苦しむのかが分からない時に、心に葛藤が起こり、自暴自棄になり、神様につぶやいたりするものです。そのような時に必要なのが神様の慰めなのです。
そのような人のためにパウロは、『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。』と言っているのです。      ただし自分の信仰の歩みには何の落ち度もないと思い違いしていないか気をつける必要があるのです。
たとえば、傲慢の罪は気づきにくいものです。知らないうちに人に対して間違ったさばきをしているかも知れないのです。
教会の奉仕に熱心と思っていても、その動機が不純なこともあるのです。
そのような弱さがある者であることを自覚しないと、いつの間にか真理からそれた信仰の歩みとなります。
その結果、苦しみを刈り取っているということもあるからです。
ですから私たちが苦難に置かれたときには、その苦しみの意義が分かるまで、神様の前に心を静めて祈らなければなりません。
今経験している苦しみの意義を知るためには祈りが必要なのです。そしてその苦しみの意義を知った時に、神様の慰めを受けるのです。
ヨブは、自分の身に起こった試練が神様から来ているものとは分からなかったために長い間苦しみました。親しい友人から、君が何か罪を犯したからそのような試練に会っているのだと責め続けられて非常につらい思いをしたのです。
しかし、やがてこの苦しみが神からのものであること知って、これまで自分が取って来た態度を悔い改めたときに、彼は試練から解放されたのです。そして彼の残りの人生はこれまでの何倍にも祝福されたのです。 
ヨブは何か罪を犯したというわけではなかったのです。彼の試練の背景には神様とサタンとの駆け引きと思えるような事情が隠されていたのです。
神様を信じるゆえに受ける苦しみには、神様の大いなる慰めも受けるというのが聖書の約束であることを確認しましょう。
さらにパウロはその慰めの経験によって、苦しみの中にあるクリスチャンたちを慰め、助けるように勧めているのです。
聖書は隣人の苦しみを共有、あるいは共感する人となるだけでなく、苦しみの中にある人を慰める隣人となることを勧めているのです。
自分の苦しみを負うだけでも大変なことです。人の苦しみのことまで背負えないものです。
しかしクリスチャンが受ける苦しみは、いつも神様との関わりの中で捉えて行かないと、ただ苦しみだけで終わってしまうのです。 
パウロは『今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。』(ローマ書8章18節)と語っているのです。
信仰を持っているがゆえにクリスチャンが味わっている苦しみの延長線上には慰め主がおられるのです。
もし何も思い当たることがないにもかかわらず苦難の中にあるなら、その苦難が決して苦しみだけで終わるものでないことを信じましょう。将来受ける栄光に比べれば、それは取るに足りないものであるとパウロは励ましているのです。
そして、愛なる神様は無意味な苦しみを私たちに負わされるはずがないことを信じましょう。      
苦難の理由について今すぐには答えが出ないかも知れません。それはしばらく忍耐が必要とされているのです。
そして、苦しみを背負っているときには神様が私を背負ってくださっていることを思い起こしましょう。
『あなたが年を取っても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なおわたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』(イザヤ書46章4節)
祈り:第一コリント10章13節