「パウロの弁明から信頼関係を学ぶ」

             第2コリント1章15—22節 12.6/17


 人間関係において、最も大切にしなければならないこととは何でしょうか。それは、やはり信頼関係ではないかと思うのです。良い人間関係は一方だけでは成立しません。一方がいかに人間関係に気を遣って努力をしたとしても、他方の原因によってその人間関係が駄目になるのです。つまり相互における信頼関係が大切なのです。
 例えば誰にも話してはいけないという約束をお互いにしたとします。もし片方がその話をだれかに漏らしたなら、それでお互いの信頼関係が壊れるのというのは言うまでもないことです。
 私は時々思うのですが、どうして私に、そこまで話されるのかと思うことがあります(私が牧師とは知らない人であっても)。でもよく考えて見たら、それだけ私のことを信頼してくださっているということなのかなと思ったりします(自画自賛?)。
 牧師ということもあって、だれにも話していないことはたくさんあります。もちろん妻にも言っていないこともあります。守秘義務というのは牧師にとっては当然果たすべきことであります。それはお互いの信頼関係を大切にしないといけないからです。
 さてパウロもまた、教会の人々との信頼関係は相当神経を使っていたようであります。パウロはコリントの教会訪問の日程が変更したことによって、コリント教会内において、パウロに対する不信感が広がってしまったのです。それで、彼は軽はずみで、自分勝手で、二枚舌であるとかといった批判を耳にしたのです。
 そこで、彼は自己弁明(自己弁護ではないことに注意)したのが、前回学んだ所からけさ学ぶところも含めて、1章12—2章11節であります。
 けさは15—22節からパウロの個人的な弁明の手紙から三つの大切なことを見て行きましょう。
 Ⅰ.お互いの信頼関係は神様が真実であるという土台の上に成り立つのです。(18節)。
 パウロは、私を信じてくださいと自己弁護しているのではなく、神様の真実にかけて弁明しているのです。
 しばしばアメリカでの法廷において、聖書に手をおいて誓いをするシーンがありますが、それは神様の前において真実を語るという誓約でもあるのです。この場合、誓約する人が本当に神様を信じているなら誓約する意味があると思いますが、しかし神様を信じていないなら、その誓約はあまり信用できないものとなります。
 ですから、真実を語るということは、非常に大切なことなのですが、それが真実であるかどうかを見極めることは非常に難しいことなのです。
 しかも人が常に、いかなる状況においても、変わりなく真実であるということがどれだけ難しいことであるかを一番知っているのが自分自身ではないでしょうか。
 しかし、かつてクリスチャンを迫害していたパウロが、イエス・キリストと出会い、それ以後神様のために命をかけて働く者となった彼が、「神の真実にかけて言いますが」ということばは非常に重いものがあり、また信頼できることばではないでしょうか。
 そういう意味においては、私たちの交わりにおいての語らいが楽しいものであると同時に、そこにはいつも真実があるようにと願うものであります。
 そのためには、正直であること、ありのままであること、自分の非も認めることのできる謙遜さと柔軟な心を持つこと、あまり無理をしないで、飾りすぎない(自然体)ことが望ましいのではないかと思われるのです。   
 お互いの人間関係において大切にしなければならないことは、お互いが心を開いて語り合えるということではないでしょうか。
 もちろん、そのようなことは理想ではないかと思われるかもしれません。しかし、それこそが私たちが求める信頼関係による交わりなのです。 
 それはお互いの信頼関係が、神様が真実な方であるゆえに私たちも真実であるようにという土台の上に成り立つものなのです。『ですから、あなたがたは、偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのもだからです。』エペソ4章25節
 Ⅱ.お互いの信頼関係は、イエス・キリストへの信仰によって強く結ばれるのです(19—21節)。
 パウロは、クリスチャンを迫害し、殺すことに熱心でしたが,あるとき、イエス・キリストに出会い、クリスチャンになったという特殊な回心の経緯があっために、最初はクリスチャン仲間から信用されていなかったのです。
 しかし彼がイエス・キリストを宣べ伝えて行く中で、少しずつクリスチャン仲間から信頼を得るようになったのです。パウロイエス・キリストにおける確かな信仰のあかしによって、クリスチャン仲間から信頼されるようになったのです。
 私がクリスチャンであることの良さを感じたのは、どの国に行っても、イエス・キリストを信じているクリスチャンなら、言葉が通じないとしても心を開くことができ、信頼することができ、幸いな交わりが与えられるということです。
 私が共産主義国家である中国に行った時も、お世話をしていただいた中国人がクリスチャンというだけで安心感がありました。
 またイスラエル(香港)に行った時も、初めてお会いする日本人クリスチャンに対しても実にフレンドリーに接することができたのです。もちろんイスラエル人のクリスチャンも同様であります。
 これらのことは世界共通の思いであり見方でもあると言っても過言ではないと思います。それほどイエス・キリストを信じている信仰というのは、私たちの教会だけでなく、日本のどこに行っても、あるいは世界のどこに行っても、お互いが心を開くことができ、信頼関係が持てるのです。
 さて、そのようなお互いの信頼関係において大切なことは、イエス・キリストへの信仰が確か(確立)であるということなのです。それが崩れてくると、相互の人間関係も薄れて、もろいものになり、ぎこちなくなりかねないのです。
 もちろん同じ神様を信じる者同士であっても、そりが合わないということもあります。あるいは性格が合わないということもあるかも知れません。 しかしそのような中においても、健全な交わりができるようにと神様に祈り合うのが、同じ神様を信じるクリスチャンの心がけではないでしょうか。
 パウロは勧めています。『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』(エペソ4章32節)
 Ⅲ.お互いの信頼関係は、同じ御霊(聖霊)が心に与えられていることによって、固く保つことができるのです。
 パウロはコリント第Ⅰ2章11節で『いったい、人の心ことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。』と語っているのです。
 私たちの間において色々な意見や考え方があり、また相違点があるというのは決して悪いことではないのです。大切なことは、そのような違いがある中でお互いをどう受け入れ合って行くのかということであります。
 たとえば教会の話し合いで、意見がバラバラであるとするなら、その教会は前進しません。それぞれが自分勝手な考え方では、健全で、健康な教会は建て上げることは不可能です。もはやそこにあるのは、自己主張と自分勝手な行動であります。
 教会において、様々な意見や考え方(意見がバラバラというのではなく)があったとしても、まず第1にすることは何でしょうか。
 それは神様のみこころを第1とし、それが優先されることなのです。意見の一致を求めること以上に、御霊(聖霊)の一致を求めなければならないのです。 
 かつて私たちの教会において、会堂の拡充計画や牧師館購入の問題で重大な決断をしないと行けないという時がありました。最終的には、私の判断にゆだねられることになりました。
 計画を進めて行こうとする人と、反対の人たちがいる中で、私は計画を中断するという決断をしました。その理由は、祈っていても、私の心のうちには平安(聖霊様による)がなかったからです。
 そのような中で、計画を中断したためにその後どうだったのかという結果はすぐには分かりませんでしたが、返済金額が年々増えていくという計画は、時が流れていく中で、今日の世界や日本の経済情勢、また教会を取り巻く厳しい状況を見る限り、やはり中断して良かったのではないかと思わされるのです。私はこれらのことで神様の御心を大切(第1)にすることを教えられました。
 さて私たちのお互いの信頼関係は、異なる意見や異なる考え方で崩れてはいけないのです。同じ意見、同じ考え方で信頼関係を保とうとするならその関係は難しくなり、またもろいものとなるでしょう。
 しかし、御霊(聖霊)ご自身が教えて下さる神様の御心をお互いが大切にすることによって、お互いの信頼関係は堅く保たれていくのです。
 そしてお互いが神様の御心に従うことによって、信頼関係がより確かなものとなるのではないでしょうか。
イエス・キリストへの信仰を土台とした信頼関係、あるいは人間関係から学ぶことは多くあり、また得ることも多くあるのです。