『新しい契約による救い』 第二コリント3章1-11節 2012年7月29日(日)


  「神様に感謝します」2012 7/15
第2コリント2章12―17節 
パウロの手紙は難解な所が多くあります。言い回しや内容そのものが難しいこともあります。
けさの箇所も、各節のつながりが今ひとつ分かりにくい所であります。
例えば、14節の冒頭でパウロは「しかし、神に感謝します。」と書いているのですが、いったい何に感謝しているのかが分かりにくいのです。前節の12、13節の文脈からは感謝する理由が見えてきません。もし13節がなくて12節だけなら、トロアス(今日のトルコ南部)において、神様は伝道の門を開いて下さったゆえに感謝しますというなら理解できます。
しかし13節では、テトスに会えずに心に平安がなかったために、せっかく神様がトロアスの伝道の門戸を開いてくださったのですが、テトスに会うためにマケドニヤ(今日のギリシャ)に向かったのです。
実は2章14節から7章4節は挿入部分であると言われているのです。7章4節を開いて確認しましょう。
2章12節でパウロはマケドニヤに向かいました。そして7章5節マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまな苦しみに会って、外には戦い、内には恐れがありましたとつながります。
しかし6節からは、一転してパウロはテトスに会って大きな慰めと励ましを受けたと証ししているのです。それは問題の渦中にあるコリント教会の人々がパウロの手紙によって悔い改めが起こったことでした(9節)。
実に長い挿入部分でありますが、そのことを理解すればパウロが感謝した訳が解けてくるのです。
つまり挿入部分が非常に長いのは、コリント教会の人々が悔い改めてくれたことが非常にうれしいという気持ちを押さえ切れずに、色々な思いが彼の心を去来し、それを一気に書き留めたのではないでしょうか(2章14−7章4節)。
このようにパウロの手紙には多くの特徴がありますが、中でも感謝という言葉が多く使われているというのもその特徴のひとつであります。
新約聖書において感謝ということばの59回中44回(75%)がパウロの手紙において使われているのです。
さてけさの12節−17節においても、コリント教会の人々の悔い改めに対する感謝だけでなく、そのほかについてもパウロの感謝の気持ちが表れているのではないかと思われるのです。
それはまず第1に、神様がともに働いて下さる(特に伝道において)ことに感謝したのです(12節)。
それは、トロアス(トロイの近く)において伝道の門戸を神様が開いてくださったということです。
神様抜きの伝道はあり得ないのです。神様に祈りつつ伝道が進められて行くのです。それでも伝道の結果が思わしくないことが多々あります。
この社会では結果が良ければすべて良しの世界でもあります。たとえばサッカーの国際試合での選手のインタビユーで「結果がすべてですから。」(本田圭介)ということばを耳にします。確かに勝たなければ何もならない、意味がないと言うのがスポーツの世界なのかも知れません。しかし伝道の世界は結果がすべてではないと思うのです。
というのは、教会は必ずしも人口の多い都市部だけにあるのではないのです。人口の少ない所にも、あるいは風習や因習の強い地域にも教会はあるのです。
私たちの教会も同様ではないかと思いますが、一年を通して礼拝においてどれだけの新来会者があるでしょうか。地方では恐らく一人もないという教会もあるはずです。
(参考 73年〜83年 受洗者が22名、84年〜2012年 受洗者64名 受洗者の合計86名です。その内9名(77名は誘いで)の方が教会の方とは何のつながりもなしに来られました。およそ40年で9名ですから5年間に1人だけなのです。しかも教会の定着率は30%なのです。)
たとえ伝道困難な日本であっても、都会ならば、毎週新しい人が来られるという教会も中にはあるのです。もちろん教会に人が来られるというだけでは、人は救われないのですが、それであっても伝道のチャンスは広がります。
ですから伝道において他の所と比べる必要はないと思うのです。大切なことは、伝道は神様とともにすることなのです。祈り、みことばを語らせていただき、そしてその人が救われるかどうかの結果は神様におゆだねすればいいのです。
確かに、人々がみことばを聞いて、神様を信じるというのは決して容易なことではありません。信仰に至るまでは難しい(高いハードル)ことがたくさんあります。
あるいは、伝道をしても結果が思わしくないことも多くあります。だからと言って、神様はそのことで私たちを責められることはないのです。また責任を問われることもないのです。
私たちの使命は、神様とともに伝道の働きをすることです。すべての結果は神様にゆだねましょう。もちろん一人でも多くの人が救われるために忍耐を持って祈らなければならないというのは言うまでもないことです。
パウロのように私たちも、この町で伝道の門戸を開いてくださり、私たちの教会を備えてくださった神様に感謝しましょう!
第2にパウロは神の導き(伝道において)に感謝しているのです(14節)。
それは先ほど冒頭で触れたことですが、コリントの教会内でさまざまな問題が起こり、パウロが心配していた所に、テトスを通して朗報(コリント教会の人々の中から悔い改める人が起こって来たこと)を得てパウロは感謝したのです。
パウロがここで言う神様の導きとは何でしょうか。それは結果ではなくむしろプロセスにあるのではないでしょうか。
つまりパウロは、コリントの教会のことでは色々と悩み、心配しどうなるのかと気がかりであったけれども、神様がコリント教会の人々のうちに働いてくださり、悪い状況から良い方向に導いてくださったことに感謝したのです。 
先の見えない状況から希望が持てるようになった。あるいは、大きな不安に包まれていたけれども安心できるようになった。大きな問題で悩んでいたけれども解決してくださった。最悪の状態から少しずつ改善されて来たというときには、背後で導いてくださった神様に感謝するのは当然なことではないでしょうか。
この14節の「キリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」の意味をどう理解すればいいでしょうか。
ここでのキリストによる勝利とは何でしょうか。たとえば、大きな病気をして、祈っているにもかかわらず、いっこうに良くならない、神様の導きはどうなっているのかと不安になり、不信になり、敗北したのかと思いがちです。
しかし神様の導きには深いものがあることを知らなければならないのです。必ずしもいやされることが神様の御心ではないということがしばしばあるのです。その病を通して、つまり自分の身に起こっている試練を通して、神様の栄光(勝利)を現されるということがあります。
パウロ自身も、また弟子たちも神様とともに働き、神様がともにおられるなかで伝道の働きを進めましたが、やがて彼らは殉教死したのです。
これは敗北かと言えばそうではないのです。やがて天において勝利の行列に彼らも加わるのです。彼らの賞賛は天に届き、そして天において報われるのです。
ですから、神様の導きには深い配慮があるということを知らなければなりません。その神の深い配慮の中にキリストを知る知識の香りを見出すことができるのではないでしょうか。
私たちも出来事の途中経過において、あせって人間的な結論を出すことのないようにしましょう。神様の導きは最終的には感謝となり、最善となることを信じていきましょう!
最後は、パウロは神様に仕える(伝道のために)ことができるということに感謝しているのです(15−17節)。
「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」「誰が此の任に耐へんや。」(文語訳)
人々の魂の救いという重大かつ責任の重い働きは非常に大変ではありますが、そのような光栄な働きに仕えることにおいてパウロは神様に感謝しているのです。
人々の生き死に関わる仕事は大変な責任が伴います。しかしその反面、仕事に対するやりがいや、充実感を持たれる方が多いのではないでしょうか。まして人々が永遠のいのちを受けるかあるいは永遠の死に至るかどうかの働きがどれほど尊いものであるか言うまでもないことであります。
みことばを語る使命はクリスチャンに与えられた特権でもあります。それは実に光栄な務めであり、尊い奉仕なのです。パウロは、そのようなことに仕えていることに心から感謝しているのです。
私たちもけさの学びを通して、いつでも神様がともに働いてくださること。すべてのことにおいて神様が導いてくださること。そして神様にお仕えできることの感謝を忘れないようにしましょう!