『キリストの愛に心を動かされて』 ―キリストのために生きる― 2012年10月7日(日)

    「キリストの愛に心動かされて」
    −キリストのために生きる−
  第二コリント5章11−15節 12.10.7
昨年の東日本大震災の報道の中で、瀬戸内寂聴さんが、イエス・キリストについて話されたのです。それは、「被災者の皆様の苦しみは計り知れないものですが、イエス・キリストは十字架で人々の代わりに苦しんでくださったのです。皆さんの代わりにも苦しんでくださったということでもあります。」という話でした。仏教信者である瀬戸内さんがイエス・キリストを例にされるのは、私としては以外でありました。
 有史以来、名言を残した哲学者や人格的に優れた人、開祖あるいは教祖と呼ばれる宗教者たちが多く輩出しました。しかし、イエス・キリストの生涯を見るとき、人間としてもこの方以上の偉大な人物が現れたでしょうか。しかもイエスは神の御子であるという聖書の証言はいかなる人物をも超越しているのではないでしょうか。
 かつてパウロはクリスチャンを迫害することに心を燃やしていたのですが、ある日、ダマスコの途上にて復活されたイエス・キリストから御声をかけられたのです。そのとき彼は即座に回心して、その後は熱心な伝道者、あるいは有望な使徒(復活の証人)となりました。しかしその彼について、教会のある分派の人々から、パウロは約束を果たさない無責任な人物であると非難され、また彼は使徒職の資格がないと非難されていたことに対して、キリストの愛に捉えられていたパウロにとって、黙っておくことができなかったというのは至極当然なことであります。
 パウロは、全てをご存知の(10節)神様の前において真の使徒であると、パウロを批判する人々の良心に訴えているのです(11節)。神様の前に真実であるというのは実に幸いなことであります。それは、自分の正しさが神様の前に明らかにされるだけでなく、自分の罪深さもまた神様の前に自ら明らかにして生きることであります。
 このように神を信じ、神を畏れ、神に従うという単純な生き方の中に実は真実(真理)があるのです。この単純さを難しくし、軽く取り扱い、人間的なレベルにするときに、信仰者の生き方が真理からそれるだけでなく、教会の中にも不真実、さばき、争い、誤りといったものが入り込んで来るのです。
 事実コリント教会において、イエス・キリストへの正しい信仰を阻害するユダヤ主義の影響が大きくなっていたのです。それでパウロは12節で、教会の中にうわべのことで誇っている偽使徒たちを非難しているのです。 
 うわべとは、ユダヤ人偏重主義や雄弁さ、あるいは見た目などです。見た目ということにおいては、パウロの容姿は決して良いものではなく、その話しぶりは雄弁ではなかったと言われていたのです。
 しかしパウロは真の使徒であることを誇りました。それは自分を良く見せて、自分自身を誇るためではないと弁明しているのです(12節)。「誇る者は主にあて誇れ。」(第一コリント1章31節)
 そしてこの誇りについては、第二コリント12章でも触れているのです。パウロはあるときに主からの幻を見たことを誇りに思っていることを証ししました。しかし彼は、むしろ自分の弱さを誇ると主張しているのです。
 9、10節において「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と語りました。
 さて、このみことばのキーワードは「キリストのために」です。彼はイエス・キリストのために一生懸命でした。そのような彼の生き様を見て心無いクリスチャンたちは、彼は気が狂っているとささやいていたほどです。
 しかしパウロは、その熱心さは、神様のためであると弁明しているのです(13節)。
 このように、クリスチャンが「キリストのために」という思いを持つことは大切であり、そして、キリストのために生きるというのはさらに大切なことであります。それはこの世の悪の力から守られるために有益であり、クリスチャンゆえに受ける試練を乗り越えるための大きな原動力となり、そして、信仰を生涯において守り通すために力強い動機付けとなるのです。
 さて、そのようなパウロの心を動かしていたのはキリスト愛によるのです(14節)。キリストの愛を受けた者が、そのキリストの愛を動機として行動することは大切なことであります。しかしこのことは決して容易なことではないのです。
 人を愛する、人を助け励ます、また教会にて礼拝をささげる、奉仕をする、献金をするといった動機がいつもキリストの愛に迫られてとはなかなか言いがたいかもしれません。しかも神様に義とされたとは言え、なお罪人であり、人間的な(肉)弱さを持っているのです。完全な者ではなく、不完全な者であります。
 しかしその様な者であっても、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるというパウロのことばは大きな励ましであり慰めであります。
 その愛は、キリストが十字架の上で示されたものです。そしてその愛は全ての人に注がれているのです(14節)。それだけでなく、その愛は罪を赦し、魂を救うのです。
 キリストの十字架による愛と救いは、一部分の人のためだけでしょうか。あるいは、選ばれた特別な人のためだけでしょうか。
 いえキリストが十字架で死なれたのは、『ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。』(ペテロ第二3章9節b)
 さらにキリストが十字架で死なれたのは、私たちが救われるためだけではなく、もう一つの重要な意義があるのです。
 それが15節であります。自分のためにではなく、キリストのために生きるということであります。私たちは、自分のためだけに生きることから、キリストのために生きるということを考えたことがあるでしょうか。
 あるいは、パウロが、第一コリント10章31節で「あなた方は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と語ったように、キリストの栄光を現わすとはどのようなことかを思って生きるということがあるでしょうか。
 さらにキリストの愛に動かされていたパウロは、「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にもつまずきを与えないようにしなさい。私も人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」(第一コリント10章32,33節)と語っているように、人々の救いのために心配りをして生きるということがあるでしょうか。そして、人々が救われるためにという思いが私たちの心を支配しているのか。
 これらのことは、キリストの愛に心を動かされて生きているのかどうかにかかっているのではないでしょうか。
 冒頭で話しましたが「被災者の皆様の苦しみは計り知れないものですが、イエス・キリストは十字架で人々の代わりに苦しんでくださったのです。皆さんの代わりにも苦しんでくださったということでもあります。」
 つまり、イエス・キリストの十字架を、仏教徒である瀬戸内寂聴さんだけでなく、だれであっても、自分のこととして心から受け留めるなら、主イエスの愛と赦しに気づかされ、神の愛の大きさに心を動かされることでしょう