『神との和解』 第二コリント5章16−21節 2012年10月21日(日)


       「神との和解」   12.10月21(日)
            第二コリント5章16ー19節 

 朝鮮半島の38度線である韓国と北朝鮮の休戦ラインというのは、いまだ韓国と北朝鮮は戦争状態にあって、ただ今は休戦中で、一触即発で再び戦争が起こってしまうというものであります。
 2つに分断された両国はお互いの国を認めていないために、どちらか一方が歩み寄らない限り、両国の平和は遠いように思われます。恐らくこの両国が平和関係になるためには、どこかの国かあるいは重要人物(キーマン)が両国の間に立って和平(和解)交渉を進める必要があるのかもしれません。
 このように世界にはまだまだ和解が必要な国々がたくさんあります。中でもイスラエルアラブ諸国との和解は最も急がれている大きな課題ではないかと思います。
 では和解する難しさはどこにあるのでしょうか。それは歴史認識民族意識の違いによる自己主張、あるいは利害関係や感情的なもつれと言ったものが複雑に絡み合っているからではないでしょうか。
 さてけさは「神との和解」というタイトルであります。実は聖書によれば、神と人間との関係は良くないというよりも、非常に悪い状態であることを教えているのです。
 最初は神と人とは良い関係であったのですが、ある出来事によって、神と人との関係が壊れたのです。それは、皆さんもよくご存知でありますアダムとエバの神様に対する反逆行為でありました。 
 ローマ書5章18節に「ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められた。」と書かれています。
 これはアダムが神様の命令に従わずに、いのちの木から取って食べてはいけない実を食べてしまったという違反行為について言及しているというのは言うまでもないことです。
 アダムの違反行為によって全人類が罪に定められたのです。そして全人類は罪に定められた結果、神様との関係が壊れてしまったのです。
 その罪の結果、すべての人は肉体の死と魂の永遠の死(地獄)という神のさばきを刈り取らなければならないようになりました。
では、この恐ろしい神様の審判から逃れるためには、すべての人類が神様にごめんなさいと謝るなら、神様との関係は修復できるのでしょうか。
 答えはノーです。例えば私たち人間社会においても、もしある人が人を殺した時に、被害者の家族にごめんなさいと謝るだけで済むでしょうか。当然法律によるさばきを受けなければならないのです。
 それと同様に、人が神様に謝って赦しは受けることができたとしても、罪によるさばきは免れることはできないのです。
 それゆえに愛なる神様はひとりとして地獄に行くことを望まず、私たちを罪から救うために、イエス・キリストを和解のいけにえとしてこの世界に送られたのです。それは言うまでもなく、十字架の死による贖罪といういけにえによる罪からの救いであります。そのことを説明するみことばが18—21節であります。
 けさは、神との和解による救いとはどのようなものであるかを学びましょう。
 1.霊的(質的)な新しさにあずかるのです(16、17節)
 こんな外国での話しがあります。いつもお酒を飲んで、奥さんを困らせていたご主人が、いつまでもこれではいけない何とか変わろうと思って、教会に足を運びました。そして牧師から聖書のことばを聞いて、ご主人は悔い改めて、神様を信じたのです。牧師も付き添ってご主人は帰宅しました。牧師は奥様にことの経過を話したのです。ところが奥さんがご主人を見るなり、この人のどこが変わったんですかと食って掛かりました。確かに見かけは昨日今日のことで変わりませんが、もしご主人の信仰が本物なら、きっと日ごとに変わられて行かれたことでしょう。
 確かに神様を信じて、その人が変えられて行くには時間が必要です。もちろん変えられるとは神様に喜ばれる歩みであり生き方であります。
 パウロはかつてイエス・キリストを単なる人として見ていたために、キリストを信じるクリスチャンを迫害する立場でした。しかしイエス・キリストを神の御子と知ったために、彼の人生観が一変したのです。人に対する見方が全く変わってしまったと告白しているのです(16節)。
 皆さんも同様ではないでしょうか。むやみに人をさばかない。出来る限り聖書の教えに照らして人を見るように心がける。そして何よりも、もっと心の目(霊の目)が開かれて神様を信じて救われて欲しいと思う。無下に人を見下げたりしないで寛容な心で人を見られるように祈る。もし人をさばいたなら、神様に悔い改めるという具合にです。
 もし人の見方がイエス様を信じる前と何ら変わらないとするなら、その人の信仰がほんまものかどうか試される必要があるのではないでしょうか。なぜならパウロは、神様を信じた人は霊的な新しさにあずかると17節で語っています。確かに酒に溺れていたご主人はにわかには変わらなかったと思われますが、しかし彼の確かな信仰には、彼の心に内住された聖霊様(エペソ1章13節)によって彼が変えられて行くのは時間の問題なのです。
 皆さんはイエス様を信じて霊的な新しさを経験されておられるでしょうか?いやまだですというお方がおられるなら、イエス・キリストをあなたの救い主と告白して心に受け入れましょう。
 2.霊的な(和解)務めにあずかるのです(18、19、20節)。
 このことにおいて、神様による和解の知らせが、代々伝えられなければならないという前提があるのです。もしこの神様の和解による救いがどこかで滞ってしまったなら、もはやイエス・キリストによる救いを知る術がなくなってしまうのです。
 神に救われた人は神様の救いを記憶にとどめるだけでなく、知らない人々に宣べ伝えなけならないという務めにもあずかっているのです。 
 かつて三陸地震(1896年明治29年)においての大津波を経験した親は、その子供たちにもその教訓を伝えなければならない使命があるはずです。恐ろしい津波から逃れた体験談は、その人の記憶だけに留まってはいけないはずです。そのような体験を子供に黙っている親がいるはずがありません。
 同様に、神様を知らないまま死んで行くなら、とんでもないところにいかなければならないという事実を、ただ黙って見過ごすならどうでしょうか?もちろん私たちクリスチャンはさまざまな機会を用いて、福音(神の救いの良き知らせ)を知らせていただいています。またある人は身近な人にも、繰り返し福音を伝えておられる方もあるかと思います。しかしなお頑な(心が固い・心が開かれない)人々の多いのが私たちの国であります。でもあきらめずに、まずは祈り続けましょう。そして機会を活かして語り続けましょう(参照:第2テモテ4章1、2節)。
 3.霊的な救いにあずかるのです(21節)。 
 確か24歳のときですが、交際している彼女の洗礼式にいやいやながら行きましたところ、その教会の牧師が、私に向かって、「救われていますか?」と突然何を言うのかと思いました。救われましたかって何の意味、教会ってわけの分からん所やなと思ったのです。確かにキリスト教を何も知らない者にとっては、救いという言葉も専門用語なのです。新しい人が教会に来たときは本当に配慮しないと、知らず知らずに難しい言葉を使っているのかも知れません。いきなり救いと言っても、その真の意味を知ることはできないのです。 
 救いという意味を本当に理解できたのは、私がイエス・キリストを信じた時でした。
 ある人は、何か大きな苦難に遭遇すると「神も仏もあるものかと!」訝ります。あるいはそのような厳しい現実から救ってくださいと神仏にお願いします。もし苦難から守られたなら、それが救われたという意味になるのです。ある危機的な状況から間一髪に助かることも救いなのです。しかしそれらは現世的な救いと言えるでしょう。もちろんそのような救いも必要であります。
 しかし聖書が言う救いとは、全人格的な救いであり、魂の救いであり、もっと具体的に言うなら罪からの救いであります。しかもそれは、一時的な救いではなく、永久的な救いであります。それを聖書は霊的な救いであると教えているのです。
 全人格的な救いとは、神様によって創造されたその人自身が、その造り主を知ることであり、そのお方に感謝することであり、その方を畏れ、またあがめるという人格的な交わりが回復したときが、全人格的な救いと言えるのです。 
 そのためには、目に見える肉体的なものではなく、目に見えない霊魂が生かされていなければならないのです。聖書は罪を犯した魂は死んだ状態であり、罪を持った心は霊的な盲目状態であると教えているのです。しかしその罪の問題を解決するなら、その魂は生かされ、その心の目は開かれるのです。
 そのような私たちの罪の解決のために、神はイエス・キリストを、私たちの罪を背負われて、つまり身代わりとなられて、十字架で罪の刑罰を受けてくださったゆえに、このお方を信じるときに、その人の罪は赦され、それだけでなくその人は、キリストの恩義によって、正しい者、つまり義人とされるのです(21節)。
 それが、先ほど冒頭で、牧師が私に向かって言われた「救い」の意味なのです。それは霊的な救いであります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」 (第二コリント5章17節)
 自分を見るなら、本当に救われているのかと怪しむかも知れません。しかしキリストのうちにあるなら、つまりキリストを信じるなら、にもかかわらずという恵みにだれでも預かることができるのです。