『人間関係について』  
12.11/18 
第2コリント6章11—13節 
 


 
 かつて勤めていた時に、職場にどうも話しにくい人が一人だけいました。ある日の仕事帰りに電車が一緒だった時に、ちょっと気まずいと思いましたが、案の定終始無言が続き、ついに私は口火を切りました。そして、「先輩私に何かいやなことがあるんですか」と尋ねてみました。それでも何も言われずに同じ駅を降りるまで会話がありませんでした。それ以降その人とは全く会話が出来ないまま退社しました。
 一昨年のことです。A駅でその人を見かけましたが、どうも足が向きませんでした。目の前で出会ったなら、声はかけたとは思いますが、このようになかには馬が合わないという人もいるのかなと思っています。確かに気が合う人、合わない人というのはあるものです。
 では、教会においての人間関係はどうでしょうか。先ほど気が合わないと言った方が、もし信仰を求めて教会に来られたなら、私も彼もきっと心が打ち解けて色々と話しが弾むのではないかと思うのです。
 同じ信仰を持っているということは、良好な人間関係が持ちやすくなるように思います。では、教会においては人間関係の難しさはないのでしょうか。
 けさのパウロがコリント教会に書き送った手紙を見ると、信者間においての人間関係について取り扱っているということを見て取ることができるのです。
 まず第1に、教会においても人間関係の難しさがあるのです。
 というのは、コリント教会の一部のクリスチャンたちが、パウロに対して不信感を抱いていたために、両者の人間関係が険悪な状態だったのです。
 そこでパウロは、真実なキリストのしもべであることを、自らの体験をあかしすることによって、不信感を抱いている人たちがパウロの真実を知って、人間関係が修復されることを願っているのが11節〜13節の背景であります。
 人間関係の修復のために、まずパウロは、誤解を解く努力をしたのです。相手が誤解していても、いつかは分かってもらえると思って待つというのも誤解を解く方法かもしれません。しかしその誤解を少しでも早いうちに明らかにすることは、壊れた関係の修復のためには必要なことであります。
 事実パウロはまずそのことを前節において書き記しています。
 誤解をそのままにしておくことのマイナス点は、いつしかその誤解が分かった時に、誤解していた人がもっと早く言って欲しかったと言われるかもしれません。
 パウロが11節で『私たちはあなたがたに包み隠すことなく(英訳:オープンに)話しました。』と言っているように
 教会において、お互いが不必要な誤解から守られるためには、お互いがオープンに語り合えるような親密な関係づくりが求められているのです。
 とはいえ、誰にでもオープンであるというのは難しいことです。しかし何でもオープンに話せる信仰の友がいるというのは大事なことではないでしょうか。
 私たちの団体の牧師たちは、結構お互いに仲がいいなと思っています。それでも、何でもオープンに話せるという牧師は限られるのです。それでいいのです。オープンに話せる信仰の友が一人でもいるということが大切なのです。だれかに誤解されたとき、その誤解を解くために何でも話せる友を持っていることが役に立ってくるのです。というのは、誤解は第三者を介した方が誤解が解かれやすいからです。
 さらにパウロは『私たちの心は広く開かれています。』と語っています。
 第2に、人間関係において大切なことは、相手よりもまず自分から相手に対して心を開くということです。 
 自分に対する誤解は、相手の認識不足であり、情報不足であり、短絡的なものの見方しか出来ないからだと相手を批判している限り、お互いの壊れた関係の修復はますます遠くなるばかりです。
 先ほど先輩の話しをしましたが、私もその人と何とか話しが出来ればいいなと思いつつも、また良い関係になればいいなと思いつつも、心のどこかで、あの人とはどうも馬が合わないといった先入観や、思い込みがあって、自分から心を閉ざしていたように思います。
 そうなると不思議なもので、相手も同じように思っているものです。もちろん気が合わないと思っている人に無理に近づく必要はないのですが、どうしても関わらなければならない立場であるなら、適当な距離(バウンダリー)を保てば良いのです。それは決して悪いことでもなく、また失礼なことでもなく、お互いのために良いことなのです。
 たとえ気が合わないといった特定の人に対してうまく人間関係を築けないとしても、自らへりくだってその人を尊重し、受け入れるように勧めているのが聖書の教えであります。
『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』(ピリピ2章3節)
 確かに、罪を持っている私たちが、100%良い人間関係を築こうとすること自体に無理があるのです。
 しかし、そのような私たちを愛し、私たちの罪を赦し、壊れた神様との関係を修復して下さったのがイエス・キリストなのです。
 私たちの人間関係がいかにあるべきかは、へりくだられて人となられたイエス・キリストから学ばなければなりません。それは信仰者の生涯にわたる高貴な目標でもあるのです。それがピリピ2章4—8節のみことばなのです。
『自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。』 
 第3に人間関係が修復されるためには、相互の信頼関係が求められるのです。
 パウロは、『私は自分の子供に対するように言います。』と語っているのです(13節)。 
 つまりパウロは両者が親子関係のように、不信感を抱いている信徒に呼びかけてお互いの関係を修復しようとしたのです。
 それは、自ら真実なキリストのしもべであり、キリストの使徒にふさわしいものであるという証しをしているのです。
 パウロは誤解を解きつつ、両者の信頼関を修復しようとしていると思われるのです。良い人間関係の土台は相互の信頼関係にあるのです。自分の心を偽りながら、人間関係を保ち続けて行くことは難しいのです。
 たとえ些細な食い違いであっても、その関係は壊れて行くものです。お互いに信頼しきった人間関係ができているというのは実にすばらしいことだと思います。
 このようなお互いの信頼関係は、自分の欠点や弱さや不完全さをすべて承知の上での人間関係の中で築かれて行くものです。
 自分をさらけ出し、そしてそれらを受け入れ合うことが出来るなら真の友を得ることができるのです。
 『私は自分の子供に対するように言います。』
 まさに教会は神の家族と言われる由縁はここにあるのです。教会における人間関係が家族のようになることは理想と思われがちですが、しかし、それは教会において良い交わりが与えられるための大切な目標でもあるのです。
 と言っても夫婦間でも、親子間でも、兄弟間でも難しいのが人間関係なのです。それが悩みの種となって、心を病む人も少なくありません。それが原因で家庭崩壊という悲惨な事件もあります。
 しかしこのような難しい人間関係に立ちはだかるのが罪なのです。その忌々しい罪から解放するために、そして罪によって壊れていた神様との関係を回復するために、つまり神との和解のために来られたお方こそがイエス・キリストなのです。
 教会は難しい人間関係を、悩みながら、涙しながらもお互いに祈り合い、そしてキリストの赦しのゆえに、互いに赦し合わなければならないのです。
『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、お互いに赦し合いなさい。』(エペソ4章32節)
 何よりもこよなく私たちを愛してくださっている神様ご自身がそのことを望んでおられるのです。私たちが互いに愛し合うために、また互いに赦し合うためにクリスマスがおとずれたのです!