『ロゴスの神』 ヨハネ1章1-5節 2013.2.17(日)

 『ロゴスの神』 
        ヨハネ1章1—5節 13.2.17
MBの中高生キャンプのスタッフの多くは、各教会の大学生や若い社会人であります。スタッフの奉仕とは、キャンプにおいてキャンパーたちのお世話をするのですが、時には生徒たちから聖書についての質問があります。
ですからスタッフにおいては、それほど深い聖書知識は要求されませんが、少なくとも聖書の基本的な知識は持っているほうがいいのですが、どの程度の知識が求められるのかというチェックは難しいものであります。
敢えて皆さんに聞く必要はないと思いますが、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが四つの福音書であります。マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と言われ、これら3つの福音書は、内容の共通点が多く見られるということでヨハネとは区別されて呼ばれています。
さて今回からヨハネ福音書を学んで行きますが、ヨハネ福音書が一番遅くに書かれた福音書であります。紀元100年前後ではないかと言われています。著者(諸説あり)である主の弟子ヨハネはかなり高齢であったようであります。
次にこのヨハネ福音書は誰に向けて書かれたものかということですが、内容は宣教的なものであります。それは「イエスが神の子キリスト」であるというメッセージであります。
当時の宣教の対象者は多くのギリシャ人であり、異邦人であったと思われます。よってヨハネ福音書の冒頭が他の福音書とは異なる点が特徴的であります。
けさは1章の1—5節を学びます。タイトルでロゴスという言葉を使いました。実は1節の「ことば」のギリシャ語訳がロゴスであります。
 ではロゴスとは何なのかということですが、下の注釈を見ますと、ロゴスとはキリストのことを指していると書かれています。やはりヨハネギリシャ人を意識してこの言葉を使ったようであります。
 さて、ギリシャ人にとってロゴスとは、言葉と理性という概念であったようです。特に理性ということにおいては、彼らは宇宙の秩序の壮大さの背後において神の存在を認めていたのです。
 そこで彼らは多くの偶像神(ギリシャ神話)を造ったのです。そのような背景を持っているギリシャ人に向けて、ヨハネはロゴス論からイエスはキリストであることを論駁(証し)したのです。
 これがヨハネ福音書の大きな特徴であります。
 ですから、1—18節当たりは、私たち日本人にとっては少々取っ付きにくい箇所でもあるのです。
ではロゴスとしての神様とはどういうお方なのでしょうか?
まず第1に1、2節から、神の永遠性にあります。
 恐らくヨハネは創世記1章1節のみことばを意識して、『初めに、ことばがあった。』と書いたように思われます。本来は、この初めとは時間の始まりを意味しているものであります。 
 永遠には初めや終わりといった概念はないからです。
しかし下の注釈を見ますと『初めに』はキリストの永遠的存在を意味すると書かれているのです。
 ですから、この時間空間という世界において、永遠の存在者であられる神様について的確に説明することには無理があるのです。
 しかしロゴスであるイエス・キリストが人のお姿をとってこの世界においで下さったゆえに、イエス・キリストを通して神様とはどのようなお方であるかを知ることが出来るのです。
しかもイエス・キリストを通して、神様とはどういうお方かを知るだけでなく、高橋三郎氏が言っているように『イエス・キリストの存在の認知から、人(物質)の存在理由、目的、意義を知ることが出来る。』のです。
 ですから、私たち人間の存在意義と存在目的は、イエス・キリストというお方と切り離しては考えられないということであります。
 つまり人は神様と関わりのなかで生きているのであり、神様のご計画の中で人は生かされているという存在者であります。
 ですから神様を知らないで、あるいは神様から離れて生きるなら、生きる目的や、生き甲斐というものを見出すことは出来ないのです。
 そこで永遠という世界を漠然と捉えているのではなく、はっきりと認識するためには、永遠を支配されている神様とはどのようなお方であるかを知らなければならないのです。
 それを知る方法はただ一つです。それは私たちの方から神様を探し求めることではなく、神様の方から私たち人間に啓示されることによって、私たちはまことの神様を知ることが出来るのです。
 そこで神様は私たち人間に、聖書を通してご自身を現されたのです(いわゆる啓示宗教)。
『あなたは知らないのか、聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。』(イザヤ書40章28節)
 また、人なられた主イエスは言われました。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
ヨハネ14章6節)
 このように神のことばである聖書に耳を傾けることが、永遠の世界を支配しておられる神を認識できる唯一の方法なのです。
 次に3節から、神はすべての創造者であるということです。
 私たちの存在は偶然ではないのです。だれひとり何の目的も持たないままに、この世に生まれて来たという人はいないのです。
 私は中学生の頃、人は何のために生まれ、何のために生きているのかが大きな疑問でした。
 そして自分に自信がなく、劣等感に悩まされ、自分の性格についていつも悩んでいたのです。
 そのような悩みが未解決のまま社会人になりました。そんな自分を受け入れられないまま、がむしゃらに頑張って生きたものの、その結果はむなしいものとなりました。
 そこには生きることに疲れ果てたという自分がいたのです。そのような心の空しさから解放されたいために、色々なことをやってみたのですが、さらに心の空しさが増すだけでした。
 その根本原因が無神論者であったことに起因しているとは思いもよらないことでした。
 しかし私がイエス・キリストを受け入れた時に、つまりロゴスの神様を信じた時に、私が悩んでいた様々なことが解決されたのです。
 それは、イエス・キリストを信じられた人にとっては同じ経験をされたのではないでしょうか。
 パスカルは、『人には何を持ってしても、埋まらない心の部屋がある。その心の部屋に神様がお入りならない限り人には真の安らぎがない。』と言いました。
 人は、魂の親であられ、すべての造り主なる神のもとに帰るとき、はじめてまことの平安と安心を手にすることが出来るのです。
 参 照:第1ペテロ1章8、9節 最後は4、5節です。それは、神はいのちの付与者であるということです。
『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生ものとなった。』と創世記2章4、5節に書かれています。
 この人とはアダムのことであります。皆さんもご承知のように、アダムは永遠に生きるものとして造られたのですが、罪を犯した結果死が入りました。それで人はこの世界において永遠に生きることが出来なくなったのです。 
」しかし神から付与されたいのちは永遠に存在し続けるのです。しかもそのいのちには人格が伴っているのです。
 重要なことは、その人格が伴ういのちの行方であります。つまり死後どこに行くのかということです。
 この聖書は明確に死後の行方について語っているのです。『人は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっているように。』(ヘブル書9章27節)
 このみことばにおいて重要なことは、死ぬということにあるのではなく、死後の問題にあります。
 このさばきとは肉体の死後、神様の前に犯した罪による魂の永遠の死であります。
 その魂の行方は火の池と呼ばれる永遠の滅びの場所であります。
 この魂の滅びという闇の力から解放するためにイエス・キリストがこの世界においでになられたのです。 
 そしてこのヨハネ福音書が書かれた目的はヨハネ20章31節にあるのです。『これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」』と明言しているのです。
 これら2つのみことばのキーワードはイエス・キリストを信じることです。
 それは、キリストは私たちの救いのために私たちの罪の身代わりとなられ、十字架に付けられ、死なれて三日目に死からよみがえられた救い主であると信じることです。
 永遠から存在され、すべての創造者であられ、いのちの付与者であるロゴスの神、主は言われたのです。
『まことに、まことにあなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハネ5章24節)