『わたしがいのちのパンです(Ⅰ)』 −大いなる奇跡を見て− ヨハネ6章14−40節 2013年8月11日(日)

「わたしがいのちのパンです(Ⅰ)」
—大いなる奇跡を見て— 13.8.11
ヨハネ6章14—35(40 節)
 サブタイトルは「大いなる奇跡を見て」ですが、奇跡とは6章1—13節に記されているパンと魚の奇跡であります。
 これまで何度もパンと魚の奇跡については学びましたので割愛させていただいたのですが、主イエス様は、少年が持っていた二匹の魚と五つのパンをどんどん増やされて、男だけで5000人ほどの夕食を用意されたという大いなる奇跡をなされたのですが、けさはその奇跡を体験した群衆たちや弟子たちの反応について学びます。
 さて、何か素晴らしい体験をした人が、その後の人生に必ずしも良い結果をもたらすとは限りません。例えば高額の宝くじに当たった人が、悲しい人生の末路を迎えてしまったということをしばしば耳にするのです。にわかに手にした大金によって人生が狂ってしまうという話しはよくあることです。
 このように、これまで経験したことない不思議なことや奇跡的な体験によって、その日以来その人のものの見方や考え方が一変してしまうということがあるのです。
 つまり私たち人間は、超自然的な、あるいは奇跡的な体験によって正しく反応するよりも、むしろ間違った反応をしてしまいやすいという傾向があるのではないでしょうか。
 事実、主イエス様がなされた数々の奇跡によって、人々が間違って応答、あるいは反応していることがしばしばあったのです。
 特に今回のような大きな奇跡によって、人々は高揚し、非常に舞い上がってしまった結果、的外れな行動に駆り立てられてしまったのです。その様子が14、15節に記されているのです。
 ユダヤの民衆たちは、長い間切望していた預言者は、このイエスであると熱狂したのです。そこで彼らはイエスユダヤの王(支配者)にしようとして、イエス様を無理やりに連れて行こうとしたために、主は山に退かれたのです。他の箇所では山で祈られたと記しています。
 主が奇跡をなされた背景には、その奇跡によってイエス様が英雄になることを求められたのではないというのはいうまでもないことです。もちろん夕食に困った人々のために奇跡をなされたというのは正しい理解であると思います。
 しかし、主がこの奇跡をなされた理由にはもっと大切な真理が隠されているのです。
 それこそが、27節、35節での主のおことばにあるのです。
 パンと魚の奇跡の後、人々はイエスを探し求めたのです(25節)。しかし、それは間違った行動でした。そのような行動を戒められたのが26節であります。そして、イエス様の奇跡に正しく応答するとはどういうことであるかを教えられたのが27節であります。 
 主がなされた大きな奇跡を見た群衆たちが、働かなくても、いつもその奇跡によってお腹が満たされると考えるのは無理もないことだと思います。
 恐らく私たちもその場に居合わせるなら、当時の人々と同じように考え、同じように行動しているかも知れません。
 一体だれが主のパンと魚の奇跡から目に見えない永遠のいのちについて悟ることができるでしょうか。
 もう一度27節を見ましょう。ここに主が奇跡をなされたその一番の目的を知ることができるのです。それは、人々がこの大いなる奇跡を見て、イエスこそが神の子であり、神様がそのことを明らかにされたということを信じるためなのです。
参考 27節の認証:ゆだねられた(口語訳)
seald(英訳 封印された・調印された)
 
 それを聞いた人々は、なお奇跡という素晴らしい出来事から思いが離れず、自分たちもそのようなわざを行なうためにはどうすればいいのですかとイエス様に尋ねているのです(28節)。
 それでもなお主は、彼らに、神を信じ、その神が遣わされた主ご自身を信じるようにと促されたのです。
 そこで人々は主を信じるためにしるしを求めたのです。昔から「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。」(第1コリント1章22節)と言われていたのです。それはあまり良い意味で使われているのではないのです。
 かつてモーセの時代に、荒野において全く食物がない時に、神は天からマナを与えられたのです。彼らは非常に喜び、神様に感謝したことでしょう。しかし、そのマナは一時的なものでした。
 このような神様から数々の奇跡による体験によって、ユダヤ人たちはしばしば神のしるしを求めたのです。旧約時代においても、ユダヤ人たちは神の奇跡から神様を正しく理解することはほとんどなかったようです。
 ですから、奇跡を見たら神様が信じられるというのはあまり当てにならないものではないでしょうか。反対に何らかの奇跡を見たために、私は神様を信じましたということもあるのですが、果たしてその信じることができましたという神様がどのような神であるかは気がかりであります。
 なぜなら、私は奇跡を見て、あるいは奇跡的な体験して神様を信じましたという事例はごく稀ではないかと認識しています。そして、そのような人についてはみことばから学ぶというフォローが必要ではないかと思います。
 それはイエス様ご自身が大いなる奇跡をなされた後、そのことをまさに今、人々にされているところではないでしょうか。
 34節において、人々はなおイエス様のお話しの趣旨を理解できずにいたために語られたおことばが、35節なのです。人々はパンと魚の奇跡を見て非常に驚き、感動しました。しかし、彼らは大いなる奇跡をなされた目の前におられるイエス様が、天から下られた神の御子であることには気づくすべもなく、偉大な預言者であるという思いからは越えることはなかったのです。
 この奇跡によって人々に感動と熱狂をもたらしましたが、信仰は生まれなかったのです。奇跡もまた一時的なものであります。民衆たちは満腹したパンや魚に目を奪われ過ぎたのです。
 そのために人々は、いつも奇跡による食物が与えられるようにと主に求めたのです。しかし、イエス様の御手によって増やされたパンと魚はいずれなくなるものなのです。
 その時に主は、「わたしこそいのちのパンである。」と言われたのです。ここでかつて主が山上において語られたみことばを思い起こすのです。それは『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』というおことばです。
 もちろん人は何も食べなければ死んでしまいます。しかし人はただ食べるためにだけに生まれて来たのではないはずです。
 我が家にはベリーという犬がいます。時々おいしそうなペット用のおやつをあげるのですが、よく噛まないうちにすぐに食べてしまいます。また一日に二回あげているえさは毎日毎日同じなのです。私は時々、もっと味わって食いやと思わす口にすることがあります。しかも毎日同じえさばかり食べているけど、飽きないのかなと妻に言う時があります。
 人間と動物とは食一つにしても大きな違いがあるのです。人間は味わって食べる、栄養を考えて食べる、また楽しんで食べるのです。それは生きるためでもあり、楽しみのひと時でもあるからです。いわゆる食生活なのです。 
 もちろん飢餓で苦しんでいる人々にとっては、生きるための食事ではあるのですが、神様は飲んで食べて楽しめと言われたのです(伝道者の書)。
 それらは私たちのお腹を満たします。それは一時的なものではあったとしても心も満たされた思いになります。しかし、またすぐに飢えと渇きがやって来るのです。その繰り返しこそが人生であると考える人も少なくないでしょう。
 もしそうなら、なぜこの世界には数え切れないほどの宗教があるのかという事実に説明がつかなくなるのです。
 さて、人々が神を求めるのは、他の動物とは違って、すべての人間は神様を迎え入れる部屋を持っているからです。たとえそのことを知らないとしても、その部屋が空いていることによって、その人の心には真の満たしがないのです。そして、そのむなしさを満たすために何かを求め続けて生きているというのが人間なのです。
 たとえば、私たちが「満たされている心」というパズルを完成しょうとするなら、一つのピースが足りないというのが「人間は考える葦である」「パンセ」「告白」の著者パスカルの人間観なのです。
 ですから、かつての私もそうでしたが、多くの人は色々なピース(物やお金や趣味やレジャーなど)をはめようとするのですが、「満たされている心」というパズルを完成させることはできないのです。
 しかし、その足りないピースこそわたしであると主イエス様が言われたのです。35節を見ましょう!
『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』(ヨハネ6章35節)
『満たされている心』というパズルを完成させるための最後のピースを手に入れる方法とは、イエス・キリストを信じることです。