『わたしはいのちのパンです(Ⅱ)』 ヨハネ6章41−51節 2013年8月18日(日)

『わたしはいのちのパンです(Ⅱ)』 
 ヨハネ6章41—51節 2013年8月18日(日)

 ドラえもんに登場するのびた君は、何か困った事が起こると、すぐにドラえもんにおねだりして秘密のポケットからいろんな道具を出してもらって助けてもらおうとするのです。そのポケットから出された道具には不思議な力があるのです。しかし、ドラえもんはその道具の使い方に制限かけて注意するのですが、のびた君はおかまいなく好きなように使ってしまい、自分にとって良い道具なのに、かえって事態が悪くなるのです。そこでドラえもんの登場であります。
 これは子供だけでなく大人であっても、人間の深層心理をついた面白いアニメゆえに長寿番組となっているのです。
 さて、ドラえもんののびた君と同じように思ったのがユダヤの群衆たちではないでしょうか。イエス様のパンと魚の奇跡によって、もしイエス様について行くなら何でも手に入れることができると考えたのです。
 イエス様を当てにするなら無尽蔵にパンと魚を手(あらゆる食料)に入れることができるという異常なほどの関心を持ったというのは、避けがたい人間の心理であり欲望ではないでしょうか。
 そのような群衆たちの心を見抜いておられたイエス様は、群衆たちにもっと素晴らしいものがあることを提示されたのです。
それは、イエス様ご自身でした。
 わたしこそいつまでもなくならないいのちのパンであり(35節)、わたしは天から下って来た者であり(38節)、わたしを信じる者は永遠のいのちを手に入れることができると人々に語られたのです(40節)。
 ところが、これらのイエス様のことばが、群衆たちにとってつまずきのことばとなり、気分を害するという結果を招いてしまったのです(41—42節)。
 少し前はイエス様を褒めちぎり、イエス様のとりこになっていた群衆たちは、わたしが神であるというメッセージに腹を立ててしまったのです。
 いくら不思議な奇跡を行なったからといって、自分が神であるというのは神への冒瀆であると異口同音に群衆たちはつぶやき始めたのです。
 彼らにとって神様とは、全知全能であり、永遠の存在者であり、偏在(無限)のお方であり、目で見ることのできない神聖なるお方なのです。ですから、今目の前にいる人間イエスが、神であるはずがないと思うのはごく自然なことだったかも知れません。
 さて、当時の群衆たちがそのように応答したのですが、今日の私たちならどうでしょうか。
 たとえば誰かに、この聖書からイエス様のなされた多くの奇跡を紹介して「この方は、天から来られたまことの神の子でることを信じますか?」と問いかけたとするなら、どのような反応を示されるでしょうか。
 幼い子供たちは素直に信じると思われます。しかし、小学生上級生ぐらいになると信じることが難しくなるかも知れません。まして、大人はそう簡単には信じられないことでしょう。
 私もそのひとりでした。最も私の場合は無神論でしたから、クリスチャンに対しては、この目で見たら信じるわという横柄な態度を取っていました。
 イエス様と共に生きた時代の人々にとっては、目の前にいるイエス様を神の子と信じることは非常に難しいことでした。その反対に神様が目に見えないゆえに信じられないと簡単に結論づけるのが今日の時代の人々の傾向ではないでしょうか。
 どちらにしても人は神様を容易には受け入れがたいということであります。では、どうすれば人は神様を信じることができるのでしょうか。
 そのためには、人は神様を真剣に求めなければなりません。そして、心から神様の存在を信じないなら、その人は永久に神様と出会うことはないのです。つまり救いのチャンスを失ってしまうのです。
 では神様を求めるとはどういうことでしょうか。それは、聖書には神様についてどのように書かれているのかを調べる、あるいは聞くことであります。いかに調べ、いかに聞けばいいのでしょうか。
 たとえば刑事事件の番組を見ていますと、その事件を解決するためには裏を取る必要があるという言葉を耳にします。裏とは確定的な証拠を見つけることです。「わたしはいのちのパンです。」というけさの聖書箇所だけで、イエスは神であるという信仰告白に至るというのは非常に難しいことだと思います。
 やはり、イエスが神であるという信仰に至るためには、この聖書から確定的な証拠を見つける必要があるのです。
 つまり裏を取らないといけないのです。その裏とは、神は存在されるのか?イエスは神なのか?本当に救いはあるのか?何よりもこの聖書は信じられるのかといったものです。
 幸いにして、この聖書には実に多くの証拠があるのです。『なぜ信じられるのか —10の理由−』という一冊の小冊子を紹介したいと思います。
 第1は聖書の正直さです。聖書に登場する人物について実に正直に、真実に紹介されているという事実です。つまり人間の罪深い姿をあからさまに書かれているということです。そして聖書は、人の本質は神に反していて、天国の道は自ら見出せず、死後に残された選択は地獄への道のみであると断言するのです。この聖書は、人間の本質や信仰に関して、楽観的で安易な答えを求める人々のために書かれたものではないと書かれています。
 第2は聖書の不変性です。1947年に死海の北西にある洞窟から2千年前の古文書類が入った、壊れた壷が羊飼いの少年によって発見されたのです。その中に、イザヤ書(紀元前700年前、預言者イザヤによって書かれた預言書)の全文があったのです。それは今日私たちが使っている旧約聖書イザヤ書と基本的に同じものであることが判明されたのです。
 第3は聖書の主張です。聖書の著者たちは、数多くの説明と証拠で裏打ちしながら、『聖書は神の霊感によって書かれた』と宣言します。もし聖書の著者たちが、この聖書の起源に関し、時代を超えて嘘をつき続けて来たとしたら、聖書は実に害のある書物と言わざるを得ないのです。そのような書物が永遠のべストセラーとなることが可能でしょうか。
 第4は聖書の奇跡です。何よりもイエス様の復活の奇跡です。もしキリストがよみがえられなかったなら、その信仰は実に虚しいものであり、その土台は非常にもろいものとなります。しかし、キリストの復活を信じていたローマ時代におけるクリスチャンたちは、迫害によっていのちを失うということがあっても、決してその信仰を捨てることはありませんでした。嘘を信じて命まで捨てることはしないでしょう。あるいはよく確かめもしないまま復活を信じることのほうが難しいことではないでしょうか。
第5は聖書の統一性です。この聖書は1600年の歳月に渡って書かれたものです。しかし66巻ある一つ一つにお互いが何ら矛盾する所がなく、むしろ統一性と一貫性があるということが分かってくるのです。
 第6は聖書の歴史的、地理的記録の正確性です。聖書に登場する地名や場所が疑われた時や、あるいはそのような所はないと言われた所も、考古学的証拠が発掘されて行きました。
 第7はキリストによる聖書の確証です。イエスご自身がこの聖書を評価され、常に用いられ、またその教えの通りに実践されたのです。そしてこの聖書がご自身のことを書かれたものであると主張されています(ヨハネ5章39—40節)。
 第8は聖書の預言の確かさです。それは皆さんも周知のことであります。
 第9は聖書の維持継続です。聖書は、ヒンズー教最古の経典が出される500年前に完成しました。モーセは、モハメッドがコーランを書く2千年も前に、創世記を執筆しました。
 第10は聖書の力です。それは聖書を信じた人の生き方を変革する力を持っているのです。弱腰だったモーセは神の言葉に励まされて、イスラエルのリーダーとなりました。試練の中に置かれた多くの人々を慰め、励まし、力づけました。アウグスチヌス、ルター、ジョン・ニュートントルストイ、数え切れない人々がこの聖書によって生き方を変えられました。野蛮人と言われた人々も、この聖書に感化されて、国家や部族が丸ごと悔い改めたという例が数多くあるのです。
以上がなぜ聖書が信じられるのかの10の理由です。
 もう一度イエス様のおことばに耳を傾けましょう。
『わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。』
 (ヨハネ6章51節)