『罪を赦せるお方』 ヨハネ8章1−11節 2013年10月20日(日)

    『罪を赦せるお方』
   −寛大さと寛容について−
  ヨハネ8章1—11節  13.10/20
 この世の中には様々な職業があります。なかでも警察官という仕事はある面特殊な仕事の一つではないかと思います。
 というのは、犯罪者を捕まえ、あるいは、いつもどこかに犯罪者がいないかを目を凝らしていないとけない。また交通違反の取り締まりのときには、ことによっては警察官は恨まれることもあるのではないかと思うのです。
 私が、I社で働いていたときのことです。車で配達中に2、30メートル向こうで、手を振っている警察官が見えたのです。だれに手を振っているのかなと思いながら、過ぎ去ろうとすると、その警察官が私を呼び止めて、「君、ここは進入禁止ゾーンということを知らなかったのかなあ」と言ったのです。「ええ!そんなん知りませんよ」と言っても後の祭り。「この道に入る前に、進入禁止の標識を見かけなかったんかなあ。」「そんなん見てませんわ」と言っても、警察官は容赦なく違反切符を切りました。
 故意ではなく、気づかなかっただけなのに、しかも明日で違反点数がなくなる直前、何とかなりませんかと粘るも駄目でした。その時は違反者を見つけたら業績になるというのはいやな仕事やなと思いましました。
 これまでに、わずか2分ほどの駐車違反、右折禁止区域を右折、後方の車に譲ろうとして車線変更するもその車が何とパトカー、18キロのスピード違反と言った具合に、自分では軽微と思っても、違反は違反なのです。
 ただ一度だけ警察官の温情を経験したことがありました。それは道を間違えて、交差点ですでに赤になっていたのですが、方向転換をした時に、たまたまパトカーに出くわし、サイレンを鳴らされたのですが、注意勧告だけで済みました。
 私の違反話しばかりになりましたが、確かに交通ルールは守るべきです。しかし、ルールを完璧に守るというのは正直言って難しいと思うのです。
 以前に5年間無事故無違反でゴールド免許を警察から貰ったことがあります。しかし、5年間無違反でしたとは言えないのが本音です。見つかれば違反、違反しても見つからなければ違反者として罰せられないのです。
 さて、けさの姦淫の現場で捕まえられたひとりの女も、見つからなければ人前で辱めを受けることはなかったのですが、現場を捉えられたことによって、もはや言い逃れや、弁解の余地はなかったのです。
 しかも、現場を取り押さえられた者の心境というのは、精神的には非常に追いつめられた状況でありました。
 まして当時のユダヤでは、姦淫の現場を押さえられたなら、石打ち刑という恐ろしく、かつ残酷な死刑が待っていたのです。
 ただし、姦淫という律法違反者が、現場で捕まえられるというのは当時においては余程のことではなかったのかという聖書解釈もあります。
 少し勘ぐるなら、イエス様を陥れるための仕組まれた罠ではなかったのかという見方もあるのです。
 確かに、彼女が姦淫の罪を犯したことは律法を破る行為ですが、律法学者やパリサイ人たちの陰謀のために、この女が利用されたことも事実であります。
 ここで律法について考えなければならいことがあります。それは、神様が律法を何のために定められたのかということです。それは、ただ人をさばくためだけのものではないということです。
 律法は人をさばくだけでなく、違反者に反省を促し、回心に迫り、回復を願うという大切な精神が律法にはあったのです。
 そのような律法の大切な精神を全く忘れてしまって、ただ違反者をさばくためだけの道具にしていたのが、当時の多くの律法学者であり、またパリサイ人たちでありました。
 確かに違反者をさばくというのは当然のことであります。そして違反者に寛大であるというのは許されないことなのです。
 しかし神様がユダヤ人に付与された律法には、寛容さがあることが人々には見逃されていたのです。あるいは気付いていなかったのです。もちろん、律法においては罪は見逃すことは出来ないのです(寛大さは不要)。
 しかし罪を犯したことに後悔するだけでなく、悔い改めて、二度とそのようなことをしないように助言したり、指導したりして、その人の更生を心から願うという寛容さがなければ、律法は単なる人をさばくための道具に過ぎないのです。
 実はそのことの模範(寛容な心)を示されたのが、今回の姦淫事件であります。
 私たちはややもすると人の失敗や間違い、あるいは犯罪には厳しい態度を取りやすいものです。
 しかし、自分がそのようなことになると、先ほどの交通違反をした私のように、これぐらい許して欲しいと思ってしまうのです。
 もし許されないと、情けのない警察官やなあとつぶやいてしまうのです。
 自分の違反行為に対しては実に寛大な立場を取り、しかも人にはできる限りの寛容さを求めるのです。
 ところで、イエス様はここにおいて、姦淫の現場で捕まえられた女の罪を免除されたのではないということは言うまでもないことです。
 もしそうなら、彼らはイエス様に対して、あなたは律法の決まりを犯してしまうのですかと、もしそうならあなたも律法を破ったことによってさばかれますと詰め寄るのです。そうなればイエス様の権威や正義は失墜します。
 大いなるしるし(奇跡)をなされたことも、単なる売名行為として片付けられるのです。
 しかし反対に、女を石打刑に同意するなら、彼らはこの人は、人々には愛を説きながら、実際は何と愛も憐れみもない、非情な人間なのかと酷評するのです。そうなれば彼らの悪巧みに陥るのです。
 しかし主は、彼らの陰謀を見抜かれて、おもむろに地面に何かを書いておられたのです。
 彼らは、この女をどうするのかと問い続けた時に、『あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』と言われたのです。そのことばを聞いた年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行ったのです。
 そして、主はこの女を姦淫の罪によるさばきから解放されたのです。
 確かにこの女の行為は、律法では死刑に当たります。よく考えてみると、もし姦淫が死刑なら、今日の時代においてもどれだけの人が死刑に定められることでしょうか。ですから今日においては、この刑は厳しすぎると考えるのは当然かも知れません。
 しかし神様が、姦淫は死刑に値すると律法で定められたのには深い理由(お考え)があったはずです。
 それは姦淫がもたらす不道徳や堕落によって、人間社会に非常に悪い影響ををもたらすことから守るためであり、また抑止力としての役割があったのではないかと思われます。
 確かに繰り返される罪の行為の抑止力(歯止め)としての罰則(刑罰)は必要なのです。
 しかし、人をさばいて、死刑をもって処罰することで、この法律の役目が果たされ、その意義が守られるというたぐいの浅い考えではなく、あるいは単純なものではなく、そこにはもっと深い神様のみこころが隠されているのではないでしょうか。
 それは、いかなる律法よりも、あくまでも神様は人を大切に(優先)されるということであります。
 『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのでは在りません。』(マルコ2章27節)
 たとえ大きな罪を犯したとしても、立ち直るチャンスを与えられている、悔い改めて神様の救いを受けるという素晴らしい機会がある。まさにそれはイエス様の十字架による罪の赦しではないでしょうか。
 罪人や取税人たちとともに食事をされていた時に、主は『わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない。』(マタイ9章13節)とはどういう意味か、行って学んで来なさいと、イエス様の態度を批判していたパリサイ人たちに言われたのです。
 詩篇103篇8節には『主はあわれみ深く、情け深い。』と書かれているのです。
 まさに人を間違いなく、正しく、公平にさばくことのできる方はただひとり、神様だけです。
 さらに、主は『わたしは、正しい者を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(マタイ9章13節) キリストは罪人を招いて、罪人を救うために来てくださったのです。私たちの国において、この聖書のメッセージが自分のこととは思えない人がたくさんおられることも事実です。
 しかし、この姦淫の女と同様に、私たちも神様の愛と赦しを必要としているひとりの罪人であることを忘れないようにしましょう。
 それは7節の主イエス様のおことばにあるのです。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 
英訳では「彼らはそれを聞くと、自らの良心によって罪を自覚させられた」となるのです。