『奇跡による波紋』ー心の闇に光をー 2013年12月1日(日)  

   
 ヨハネ9章24—41節 2013.12月1日
 けさの所をより理解するために、前回学んだ中での背景について見なければなりません。それは22節であります。
 パリサイ人たちは、盲人の両親まで呼び出して尋問したのです。ところが、両親たちはユダヤ人たちを恐れて、自分の息子が、イエス様によって目を開けていただいた事実を公に言うことができなかったのです。それは、イエスをキリストであると告白する者は会堂から追放されるという事情があったからです。
 イエス様が盲人の目が開けられたという奇跡によって、パリサイ人たちの間でも分裂が起こりました(16節)。
 パリサイ人たちの中には階級があって、高い身分であるパリサイ人たちは、特にイエス様に対しては警戒心を抱いていたと思われるのです。
 その彼らが問題にしたのは、イエス様が安息日に人々をいやされていたことです。もう一つは、イエス様が多くの律法学者やパリサイ人たちを非難されていたことです。
 それらは彼らにとっては、律法をないがしろにする背信行為であり、律法を重んじている者を非難する行為も律法に背く者であるとしてイエス様を断罪したのです。
 しかしそのような背景には、ユダヤの人々が宗教学者たちの説教よりも、イエス様のお話に耳を傾けるようになって来たこと、自分たちが名指しで非難されていたことによる憎悪や妬みがあったからです。
 みことばを分かりやすく教えられ、愛を実践され、病人をいやされ、不思議なしるしを行なわれた方を、どうして彼らは群衆たちのように素直に喜び受け入れることができなかったのでしょうか。
 その要因は彼らが持っていた高いプライドにあったと思われるのです。
 プライドを持つことは悪いことではありません。自国に誇りを持つことは大切なことです。また自分の仕事や、自分の生き様に誇りが持てるというのは素晴らしいことだと思います。それは自慢や高ぶりや横柄な心とは区別されるものです。
 以前の事ですが、私の友人が自然食品の仕事をしている時に、商品の一部分を仕入れて、私の家に置いた時のことでした。父は自転車屋を営んでいたのですが、その商品を置いた時に、父は私と母をきつく叱ったのです。後に分かったのですが、親父が反対した理由は、自転車屋という油を使う商売と、食べ物の商売と一緒にしたらあかんというものでした。私はちょっとでもお金儲けができればいいのになあと思ってしたことでした。しかし親父は、自転車屋がそれほど儲からない商売であったとしても、その仕事に誇りを持っていたということにも気づかされたのです。それは持つべきプライドなのです。
 しかしパリサイ人たちが持っていたプライドは、歪んだプライドでした。横柄さや傲慢さが伴ったプライドは、捨てるべきプライドです。一般論として、すぐれた知識者たちや身分の高い人たちが自分のあやまちや間違い、あるいは敗北を認めることは決して容易なことではないはずです。
 当時の宗教家たちもイエス様をキリスト(メシヤ)と認めることは、彼らの身分や地位から得ている生活の保証を失うと思っていたのでしょうか。何よりも高い身分を保持し、失いたくないという執着心を持っていたゆえに、相当な覚悟と決意がなければ、イエス様をキリストと告白することは非情に難しいものがあったのではないでしょうか。
 確かにイエス・キリストは神の子どもであり、救い主であると告白することは、どの時代においても容易なことではなく、やはり勇気のいることではないでしょうか。
 盲人の両親は人々を恐れて、イエス様をキリストであると公にはできなかったのです。ところがイエス様に目を開けていただいた盲人は全く違う態度を取りました。
 パリサイ人たちに再度呼び出されて、神に誓って真実を話すようにと忠告されたのですが、彼は目を開けていただいたイエス様を否むことはできなかったのです。
 それどころか、どのようにして目が見えるようになったのかと執拗に迫る彼らに対して、毅然とした態度で応答したのです(27節—33節)。
 イエス様から大きな恵みを受けた者は、勇気を持ってキリストの証しすべきことを教えられるのです。機会があれば相手がどのように受け止めるかにかかわらず、神様について臆することなく証しする者となりたいものです。
『約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しょうではありませんか。』(ヘブル10章22節)『みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。』(第2テモテ4章2節)
 とはいえ、難しいことが言えなくてもいいと思うのです。まずクリスチャンであることを証ししましょう。日曜日は教会に行っていることも知っていただきましょう。
 そして神様が私にどのようなことをしてくださったのかという証しをいつでもできるようにしておきましょう。
 また、ノンクリスチャンから聞かれやすい質問に少しでも答えられるように備えておく(信仰書を読む)というのはいかがでしょうか。私たちの証しを聞いて聞き手がどう思うかを必要以上に気にすることはないのです。
 大切なことは、どういう方法であれイエス・キリストの名が伝えられることです。パウロは、『あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。』(ピリピ1章18節)と語っています。
 皆さんとローマ書10章13—17節を見ましょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 私が献身のために神学校に行く前に、弟に聖書のことを話しました。それは黙示録で解釈されている内容のことでした。
 世の終わりの時代には、恐ろしい患難が来て、天変地異が起こり、世界戦争が勃発することや、神を信じる者は守られ、また携挙されることなど話しました。
 それを聞いた当時の弟は、もちろんよく分からなかったと思いますが、私は当時終末論においては非常に緊迫感を持っていましたから、どうしても弟には伝えておこうと思っていたことでした。
 でも、それから30年以上も経ちました。今日キリストの再臨はより近づいて来ているとは思われないでしょうか。
 患難時代にすでに入っているのではないかと思わせるような想定外の出来事に危惧されておられるのではないでしょうか。
 今日イエス・キリストについて、聖書について、人々に伝えなければならないという非常に差し迫った状況なのです。
 さて、目が見えるようになった盲人は、まるで上から目線でパリサイ人たちに話をしているようですが、自分の目を開けていただいたという大きな喜びと感謝によって彼の心が大きく変化した結果、その言動が凛(りりしい)としていたのです。
 これまでは、彼は明けても暮れても、道行く人々の物乞いによって生きて行かなければならないというみじめな人生でした。
 道ゆく人々も彼を見て哀れに思ったでしょう。
 そして盲人に尋問していたパリサイ人たちは、これまで何の学問も教養も受けていない身分の低い、また将来に何の希望もないみじめな人生を送っている者から、神様についての証しを聞くことをかたくなに拒絶したのです。教える立場にある者が教えられることに強い抵抗感を示したのです。
 決して、盲人は上から目線で彼らに偉そうに話しをしたのではなく、盲人は上から(神様のわざ)のすばらしい体験をそのまま証しただけです。
 これまでは目が見えないという卑屈さが彼の心をしばり、闇にしていたのです。
 しかし、これまで盲人であったから彼の心が闇になっていたのではなく、神様を知らなかったということが彼の心を闇にしていたのです。
 神様を受け入れない、信じようとしないかたくなな心を持っていた当時の宗教家たちは、高い教養があるから、あるいは人よりも多くの知識があるからといって良い心を持っていたのではなかったのです。
 むしろ邪悪な心、嫉妬心、憎しみが心に満ちていたのです。それは彼らだけでなく私たちも心の中にも潜みやすい罪なのです。
 盲人はイエス様によって目を開けていただけでなく、イエスを神の御子であると信じる心(霊)の目も開かれたのです。
 『すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国(ユダヤ)に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとしての特権をお与えになった。』ヨハネ1章9−12節