新年礼拝 2014年 1月5日(日)『スピード時代をいかに生きるか』ルカ10章38ー42節 

   『スピード時代をいかに生きるか』   
   —大切なものを見失わないようにー
 ルカ10章38−42節 14年1/5(日) 
 『急せいいてはことをし損じる』
 私にとっては耳の痛いことわざです。
 というのは、昨年パソコンが壊れて修理に持って行く時に、フラッシュメモリーも一本持って行きました。
 ところが、もう一台のパソコンで仕事をし出した時に思い出したのです。それは、パソコンショップに持って行った大切な情報満載のフラッシュメモリーが見当たらないのです。
 多分店に置き忘れたのだと思い、店に電話をしましたがありませんでした。そのとき誰かが持って行ったらどうしょうかと心が騒ぎ出しました。様々な情報が入っていたからです。
 パソコンが壊れいくつかの情報を失い、さらにフラッシュメモリーまで失うとは、自分は何をしているのか、情けないなあと思いました。
 そのような時に、一つのことを教えられたのです。それは、なぜ大切なものをなくしたのかということをよく考えてみると、非常に大切なものなのに、大切なものとして扱っていなかったということに気づきました。
 というのはf・mを無造作にポケットに入れたまま店に行ったことです。大切なものはもっと意識して持ち運びし、また扱うべきだったのです。なくした要因は小さいものゆえに適当に扱った結果なのです。
 そのような中で後日、店に行った時の動作をもう一度思い起こしました。その時にふと思い出したのは、スーツのズボンポケットにf・mを入れていたのではないかと思い、もう一度ゆっくりとスーツのズボンの中を捜したのです。するとポケットからf・mが見つかったのです。お母さんあった!と叫びました。
 日曜日の夕方に娘の病院に行ったあとに店に行きました。パソコンが壊れて何とかとしなければいけないことも重なり、ズボンをはきかえていたこともすっかり忘れf・mを持って行ったものと思い込んでいたのです。心を落ち着けて、もう一度忘れた時の動作を思い起こしたことが良かったのです。まさに『せいてはことをし損じる』のことわざ通りです。
 さて、けさの聖書箇所にも、イエス様をおもてなしのために、すっかり慌てしまって大切なものを見失ってしまったマルタさんと、ゆっくりペースですが大切なことを選び取ったマリヤさんが登場します。ここから、心にゆとりを持って生きることの大切さについて学びましょう。
 今日非常にスピード時代であり、忙しい時代です。社会全体が忙しいという雰囲気を与えています。なかには今の社会の忙しさについて行けないという人々も増えて来ているようです。
 事実ニートと言われている人たちの共通の認識です。「世の中のスピードがこわい」というものです。社会のスピードについていけない心配、不安、恐れ、焦りが、彼らがなかなか仕事に就けない要因でもあると言われています。
 もちろんイエス様の時代ですから今日の世の中の動きとでは雲泥の差があるでしょう。しかし、与えられた時間は同じ1日24時間です。それは絶対に変わることはないのです。
 いつの時代であっても、時間の使い方によっては忙しすぎて心に余裕がなくなるというのはあるはずです。
 現にマルタさんは、イエス様が自分たちの村にお越し下さったということで、是非家に来ていただいて、特別なおもてなしをしたいと思ったようです。
 とはいえ人をもてなすというのは、簡単なことではありません。皆さんの中にはおもてなし上手な方もおられるかと思います。それでも何かと気を使い、やきもきして、忙しくされるのではないかと思います。
 まさにマルタは、あれこれと気をつかい、心が落ち着かない状態でした。その原因のひとつに、妹のマリヤが、あれこれとすることが一杯あるのに手伝うことなく、イエス様の足もとで話を聞き入っていたことです。
 普段は仲の良い姉妹だと思います。姉のマルタも妹の気性はよく知っているはずです。恐らくマリヤは、おっとりタイプでマイペース型、そして気配りの苦手なタイプだと思われます。そのような妹をも慕っていたと思います。それでも兄弟喧嘩は起こるものです。
 特に心にゆとりがなくなった時とか、慌てている時とか、あるいは焦っている時とかは要注意です。夫婦喧嘩や親子喧嘩も同様でしょう。
 39節から伺えることは、みことばに聞き入るというのは時間を大切に使っているということなのです。
 なぜならイエス様は42節で『マリヤは良い方を選んだのです。』と言われているのです。LBでは『必要なことはただひとつだけ...…マリヤはそれを見つけたのです。』と訳しています。
 ということは実はマリヤはお姉さんがおもてなしで忙しくしていることを気にはしていたのではないかと思われるのです。
 なぜなら良い方を選んだというのはAがいいのか、あるいはBがいいのかを考えていたということになるのです。 
 もし私なら人のことを気にするタイプですから、姉のマルタから小言を言われないように振る舞うかと思います。皆さんならどうされるでしょうか?
 普段はしっかりお姉さんも、心のゆとりがなくなり、イライラが募ると不適切な言動や見失うものが生じてしまったのです。
 では、心のゆとりをなくしたマルタの不適切な言動とは何でしょうか。
 それは批判的な心になっていたことです(40節)。
 マルタさんは最初から心にゆとりがなかったわけではないのです。最初は喜んでイエス様を招いているのです。愛するイエス様に喜んでもらうことは素晴らしい心がけです。
 ところが40節で、色々ともてなしのために心が落ち着かず、そわそわしていた結果、妹にもイエス様にも当たってしまったのです。
 イライラ、焦り、心にゆとりがなくなって来ると起こる現象は、自己中心的になり、人に対して批判的になってしまうのです。
 オーバーワークは要注意です。ペースダウンできるなら、そうする方がいい時もあるのです。  
 自分ができる範囲を狭めて完成しやすいようにして、充実感や達成感を得ることが大事ではないかと思うのです。
 することが多すぎたために、いずれも達成できないためにかえってストレスがたまって不平不満が生じてしまうものです。
 今日のスピード時代のなかに置かれている私たちが、心の平安を失わずに生きて行く秘訣は、マリヤのようにみことばの教えに耳を傾けることではないでしょうか。
『マリヤは主の足もとにすわってみことばに聞き入っていた。』 39節
 マリヤを非難したマルタの心はゆとりがなく不平不満で一杯になり、反対にマリヤの心は主のみことばに満たされていたのです。
 ではマルタが心にゆとりをなくして見失ったものとは何でしょうか。それは妹マリヤへの心配りです(41、42節)。
 マルタが心にゆとりをなくした大きな原因は主が言われたように、いろいろなことを心配して、気を使っていたことです。
 イエス様は、マルタがイエス様に喜んでもらいたいと思って一生懸命に接待することを責められたのではなく、あれこれと心配し過ぎて、心を乱してしまってイエス様に当たり、そしてマリヤの行動を批判したことを戒められたのです。
 つまりマルタのイエス様のためにという心がけは良かったのですが、手伝ってくれないマリヤを批判した心を戒められたのです。
 イエス様がマリヤをえこひいきされたのではないのです。42節に書かれているように、マリヤは良いほうを選び取ったマリヤをかばわれたのです。
 主がマリヤにどんな話しをされたかは明らかにしていません。しかし、マリヤが聞き入っていた主のおことばは、マリヤにとって非常に大切でかつ必要なお話しであり、教えであったと思われるのです。
 つまりマルタのお手伝いすること以上に、大切な時間であり、有意義な時であり、優先すべきものであったということではないでしょうか。
 マルタは忙しすぎて、また心にゆとりをなくしてしまって、マリヤへの思いやりや配慮が見失われてしまったのです。
 
 けさは、イエス様のためにという過度の熱心さから心のゆとりをなくしてしまい、マリヤに対して間違った非難をしてしまい、マリヤにとって大切なものをも取り上げようとしたマルタ。
 そして、主のみことばに聞き入ることによって必要でかつ大切なものを手にしたマリヤから学びました。

 新しい1年、日々の営みの中で、慌て過ぎ(慌てているとき)、焦り過ぎ(焦っているとき)、心配し過ぎ(心配なとき)と思った時は、主が語られるみことばに聞き入る時を持ってみてはいかがでしょうか!

『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わ   きまえのない者に悟りを与えます。』 
詩篇119篇130節)