2014年 1月12日(日)礼拝  『イエスは神の御子か』 ヨハネ10章19ー30節

      「イエスは神の御子か」
 ヨハネ10章19—30節  2014.1/12   
 使徒パウロが、第1コリント11章18−19節で『あなたがたが教会に集まるとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度はそれを信じます。というのは、あなたがたの中で本当の信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。』と語りました。
 教会にとって分裂や分派は決して良いことではないのです。それは教会の結集力が弱められ、教会の弱小化は避けられないというデメリットがあります。しかし分裂や分派によって、宣教の拡大、何よりも真理がより明らかにされるというメリットもあるのです。
 事実、今日における聖書について、あるいはイエス・キリストについての膨大な情報や資料は、決してキリスト教の支持者だけによって集大成されたのではなく、むしろ多くの反対意見者や、懐疑論者や、不信仰な立場にある人々に対して反駁する中で、より多くの真実や真理が明らかにされ、聖書の神学や教理がしっかりと形成されて行ったと言っても間違いではないと思われます。
 けさの聖書箇所においても、ユダヤ人たちの間に分裂が起こったと記されています。つまりイエス・キリストが生まれつきの盲人の目を開けられたという出来事によって、イエスは本当に神の子なのか、あるいはエリヤやモーセのような預言者なのか、それとも安息日に盲人をいやされた律法の違反者なのか、そして21節に書かれているように、キリストは悪霊につかれた狂人なのかというイエスに対する見解の相違が起こっていたのです。
 さて、今日のクリスチャンたちのイエス・キリストに対する見解は間違いなく、イエスは神の御子であり、また神から遣わされた預言者であると告白します。
 もちろん当時イエス様がなされた奇跡を見たのでもなく、人としてのイエスを目で見たわけでもありません。
 しかしそのように告白できる理由は、決していい加減な情報や記録によってではなく、何よりもこの聖書は神様の霊感よって書かれたものであり、そしてこの聖書は史実に基づいて間違いなく記録されたものであり、聖書の著者たちも信頼のおける人々であったという前提の上に、そしてそれらのことを受け入れる、つまり信じるという行為によるものなのです。
 当時の人々が分裂した大きな要因は、実はイエスの奇跡にあったのです。人々はイエスの奇跡を目の前で見て、感動は与えられたとしても、イエスを神の子であるという素直(単純な)な告白に至るのは難しかったようです。
 日頃イエスに対して良い感情を抱いていなかった人々にとっては、イエスの奇跡は癪に触る(感情を害する)ものでしかなかったようです。要するに奇跡によってイエスが人々の注目の的になることが面白くなかったのです。
 ここで分裂と言っても、本当にイエスを主であると、つまり神の御子であると告白する者と、あくまでもイエスは律法を破った罪人、あるいは悪霊につかれた狂人であるという二局面の分裂ではないのです。
 それは9章16節や10章20、21節から推論できるのです。事実10章24節を見ますと『あなたはいつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリスト(メシヤ)なら、はっきりとそう言ってください。』と書かれているように、本当にキリストは神の子なのか、あるいはキリストは神の子だから奇跡をなされたのではないかという人々と、いやキリストはそのような者ではないという人々の分裂なのです。
 イエス様はそのことを見抜いておられたのです。それが25節であります。それは、天のお父様の権威による奇跡をなされたイエスの内に神の本質を見るべきであると、当時の人々のみならず、今日の私たちに対する神様からの強い迫りのメッセージではないでしょうか。
 イエス様を神の御子であるという告白と、イエス様は道徳的には完全なお方であった、あるいは完全な愛の持ち主であったとあくまでも私たちと同等の人間であったとする告白とには、天と地との差があるのです。
 それは、イエスを神の御子と告白することによって罪がゆるされて、永遠の天国に行くか、あるいはイエスを単なる人間であるという証言によってその人の罪がさばかれて、永遠の滅びに落とされてしまうという二者選択があるのです。
 それは私の考えからではなく、聖書の証言によるのです。『御子を信じる者はさばかれない.信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(ヨハネ3章18節)
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしの遣わした方を信じる者は、永々のいのちを持ち、さばきに会うことなく、死からいのちに移っているのです。』(ヨハネ5章24節)というみことばに基づいたものです。
 つまりイエスを神の御子と信じるかどうかは、すべてこの聖書が神によって書かれたものであるという前提が常にあるということなのです。
 イエス様の時代における人々やあるいは宗教学者たちが、この聖書を正しく捉えていたとは考えにくいのです。何よりもこの聖書を教え、人々を正しく導くべき宗教家たちが、聖書の教えを曲解し、正義の道を迷わせてしまい、まさに盲人が盲人の手引きをしているという悲しい現状があったのです。
 そのような状況の中で、いかにイエス様が不思議な奇跡をなされても、真の信仰告白に至ることは難しいものがあったと言えなくはないのです。
 しかし、イエス様のもっとも身近にいた弟子たちはどうであったのかと問うなら、彼らもまたイエス様を正しく認識していなかったと言わざるを得ないのです。しかし復活の主を拝した時には、彼らは確かな信仰告白に至ったのです。
 弟子の中でただひとりイエスの復活を見ていなかったトマスに向かって、主は『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』(ヨハネ20章29節)と言われたのです。『見ずに信じる者は幸いです。』とは、今日の私たちにも問われているのではないでしょうか。私にイエス・キリストのことを伝えてくれたクリスチャンの弟さんは、なかなかイエス・キリストを信じることができませんでした。私もそのひとりでした。
 私がどうしても神様が信じられないという葛藤の中で、苦し紛れに生まれて初めてキリストの名によって祈った時(37年前の26歳の時)に、神様の恵みとあわれみによって私は聖霊体験をしました。
 そのクリスチャンの弟さんに私の体験を伝えられた時に、「そのような体験をしたなら僕も神様が信じられるんやけど。」と答えられたと言うことを聞きました。私はそのことを聞いて、自分の体験を話して良かったのかと複雑な心境になりました。
 私もどうしても神様が信じられなかったものですから、弟さんの気持ちはよく分かるのです。
 もう一度先ほどのイエス様がトマスに語られたみことばに聞きましょう。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』
 イエス様の不思議な奇跡を目の当たりにしても、人々の中に分裂が起こりました。しかもそれは信じる者と信じない者との分裂ではなく、本当にそうなのかなと信じ切れない者と信じられない者との分裂でした。
 いかなる時代にあっても、不信仰な人々の数は圧倒的に占めているのです。主のなされた奇跡がより多くの人々が信仰に導かれる良き材料になったのではなく、むしろ、その奇跡によって、人々がより不信仰となり、あるいはつまずきとなり、そしてこの聖書を単なる伝記(人間が考え出した物語)として理解する人々が増える結果を招いたと言っても間違いはないのです。
 確かに神様は目には見えないゆえに、神様を信じるための高いハードルになっているように思われます。
 しかしそれに対してイエス様は、私たちに信仰に至る良い方法を教えて下さっているのです。
 それは、26—30節のみことばです。神様を信じるために大切なことが要約されているのです。
 まず第1に、27節でわたしの声を聞き分けるということです。それは聖書のことばを神のことばとして聞き分けられるということです。
 第2は、わたしについて来ますという言葉です。それは神のみことばに聞き従うということです。
 第3は、わたしと父とは一つですというイエス様のおことばをそのまま受け入れることです。
 これらのことは、決して難しいことではありません。しかしやさしいことでもないのです。
 それは自分が神様の前では罪人であることを認め、心へりくだって悔い改める時に、肉の心が霊の心に変えられるという神様の恵みのわざによるものなのです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』 (エペソ2章8、9節)