2014年2月16(日)『指名手配されたイエス様』ヨハネ11章46ー57節 

    『指名手配されたイエス

   ヨハネ11章46−57節  14/2/16 

「出る杭は打たれる」ということわざがあります。高く出過ぎている杭は、他のものと高さが同じようになるよう、打ち込まれてしまうということから生まれたことわざで、世の中(社会)で、よく目立ち、すぐれた才能を持つ人は、他人から、妬まれたり、憎まれたりしやすいという意味のたとえであります。もう一つに、出しゃばり過ぎて、周りとの調和の足りなさを戒めるという意味もあります。
 さてけさは、少々奇抜なタイトルをつけました。「指名手配されたイエス」とは、いささか誤解を招きそうですが、言うまでもなくイエス様が何か悪いことをされたために指名手配されたわけではありません。
 いやむしろ反対に、イエス様は非常に素晴らしいわざをなされたために、一部の人に強い反感を抱かれてしまったのです。
 イエス様は数々の不思議なみわざをなされたのです。なかでも死んで4日になるラザロを生き返らせた奇跡は、人々のイエス様に対する思いを二分させたのです。それは45、46節にある通りです。
 つまりイエスを信じる人と、信じない人という二分であります。奇跡が必ずしも、その人を真の信仰に至らせるものではないと言う証しです。
 しかもラザロの生き返りという奇跡を見て信仰に至った人々も、やがてイエス様が十字架に向かわれたとき、人々の信仰は振るわれ、信仰を失った者も数多くいたかも知れません。
 さて、神を信じる人と信じない人がいるというのは今日も同様であります。たとえば、いかに聖書の素晴らしさを提示させていただいても、あるいは聖書の史実性をお話させていただいても、信仰に至らない人はおられるのです。
 それは、人間には自由意思が与えられているからです。神様はひとり一人の自由意志を尊重されます。しかも不介入です。
 ですから神様を信じなかった結果、神様のさばきを受けられるとしても、それはその人の自己責任となるのです。
 イエス様のおことばを聞きましょう。『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』 (ヨハネ3章36節)
 ですから、私たちに与えられた自由意志をもって神様を受け入れる、あるいは神のことばであるみことばを受け入れるというのは、実に賢明な選択と言えるのではないでしょうか。
 残念なことに、イエス様の奇跡を見た一部のユダヤ人たちは、イエス様に対して嫌悪感を抱いていたパリサイ人たちのもとに行って、イエスがラザロを生き返らせたことを知らせたのです(46節)。
 恐らく彼らはパリサイ人たちから何らかの恩義を受けていた人々であったと思われます。自分の利益を守るためにという保身は、どんなに素晴らしい奇跡を見ても、彼らにとっては意味がない、あるいは無価値なものとなってしまっているのです。
 神様を信じるというのは、自分の損得(利害)を横において、神様の語られたことばに耳を傾けることから始まるのです。
 なかには信仰を持つと、自分にとって不都合が生じ、あるいは不利になって損をするという計算をしてしまって、神様を信じようとしないという人もおられるのです。
 このように、当時の人々や今日の人々であっても、イエス様に対しては同じような反応を示すのが私たち人間ではないかと思われるのです。
 ところが、イエス様の時代には特殊な存在があったのです。それは律法学者やパリサイ人たちと言った宗教集団です。
 もちろん今日も様々な宗教家は存在しているのですが、彼らは非常に特殊な存在であります。
 それは聖書を良く学び、聖書を根拠にして、真の神様を信じていると言いながらも、実は神様から遠くはなれていた存在であったのです。
 イエス様のおことばです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。』 マルコ15章8節
 今日でも唯一神を信じていると主張しつつも、実は真の神様が分かっていないと言うのがユダヤ教信者でもあるのです。
 それはイエス・キリストを拒んでいると言う事実にあります。彼らは唯一なる神様で、全能の神様を信じていると言いながらも、彼らの目の前でなされたイエス様の奇跡に目をつぶり、しかも奇跡をなされたイエス様を信じる人々が起こることを恐れたのです。
 その理由は48節にあります。ところで、この議論(議会:サンヒドリン)に加わっていたのは、パリサイ人やサドカイ人であります。
 パリサイ人たちは、生活における律法遵守に関心持ち、政治にはあまり関心を持たなかったのです。しかしサドカイ人たちは、きわめて政治的な宗派であり、ローマ政府に協力的で、しかも裕福で貴族的な党派でもありました。
 そして祭司はすべてサドカイ人でした。サドカイ人たちは、比較的寛大なローマの政策に甘んじていたのです。というのは、彼らの身分や生活が保障され、また彼らの権威も保たれていたからであります。
 ですから、ユダヤ国内において、何事も問題なく平穏で、ユダヤ人たちがローマ政府に反抗しない限りサドカイ人たちは安泰であったのです。
 ところがイエスと言う人物が登場し、多くの群衆は彼に関心を寄せ、そして多くの人々がイエスを信じるようになって来たことによって、サドカイ人たちだけでなく、イエスを妬み、そしてイエスは律法を破っていると主張していた律法学者やパリサイ人たちも脅威を持ち始めたのです。
 これらのことが、人々がイエス様を信じることを恐れた理由であります。
 バークレーは、『パリサイ人たちやサドカイ人たちにとっては、イエスが正しいか否か、また神様のみ旨であるか否かなどかは問わなかったのです。彼らは正悪の基準に照らして物事を判断せず、自分たちの安全と保身という基準によって、また自分自身の立身出世と言う光を照らして判断したのである。人が神様のみ旨よりも自分の出世を優先させるということは、今日の時代にもありうることである。』と注解しています。
 確かに今日において、イエス様(キリスト教)への信仰に人々の思いが向けられない大きな理由に、信仰を持つと、自分の思うように生きることの妨げとなると考える人が多いようです。
 しかも、決まり事(宗教規則)に縛られ、窮屈な生き方を強いられると思っている人が案外と多いのではないでしょうか。
 人生の真理の追求よりも現世の損得を求めるという心は、イエス様を信じることの大きな妨げとなっているのです。
 パリサイ人たちやサドカイ人たちのように、自分たちは神様のことは知っている、信じているといった自分よがりな信仰にはくれぐれも注意しなければなりません。
 それは、真の神様が見えなくなり、また神の救いを見失なってしまうのです。
 事実サドカイ人であり大祭司であったカヤパは、イエスを国民の代わりとなって死ぬことが、国民全体にとっては得策であると進言したのです(50節)。
 そのカヤパの進言によって、イエスの殺害計画に進んで行ったのです。そしてイエス様はとうとう指名手配の身となられたのです(57節)。
 そのことをすでに察知されていたイエス様は、しばしエフライムに身を隠されたのです(54節)。それはイエス様の十字架の時がまだ来ていなかったからです。
 間もなく始まる過ぎ越しの祭りのために、たくさんの人々がユダヤの都エルサレムに集まって来たのですが、人々の関心はイエス様にあり、イエス様を捜していたのです(55、56節)。
 そして、果たしてイエス様は公の場に登場される勇気があるのかないのかという話題が持ち上がっていたのです。
 そのような状況において、死を覚悟してエルサレムに入る心備えをしておられたのが救い主であるイエス・キリストなのです。
 12章からはイエス様がエルサレムに入城され、そして十字架刑の死と復活という一週間を送られるのです。まさにカヤパが言ったことが、その通りに成就したのです(51、51節)。
 もちろん彼は神様の預言を意識した訳ではありません。
 神様は迫害者や反逆者さえも、ご自分の目的のために用いられるお方なのです。それは私たちの救いのためです。
『ちょうどひとり(アダム)の違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為(イエスの十字架の死)によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。』 (ローマ書5章18節)
 イエス様に対する人々の妬みや、憎しみや、悪巧みによって主は十字架でいのちを失われたのですが、イエスを信じる者が罪の赦しと永遠のいのちを受けるために、キリストは死からよみがえられたのです。
 それは、神の義と神の愛によって成就しされたのです。
 ということで、私たちは利己的な思いによる世の利害関係や、あるいは人を恐れ過ぎて、真実な救い主を見失うことのないように、そして神による救いを受け損なわないようにしましょう!