『平安があなたがたにあるように!』イースター礼拝 2014年4月20(日)ヨハネ20章19ー23節

 『平安があなたがたにあるように!』       ヨハネ20章19ー23節 2014年4/2(日)                 
 けさのタイトルであります『平安があなたがたにあるように』というイエス様のおことばは、新約聖書の中ではヨハネ20章にある3回(19、21、26節)のみであります。
 この平安という言葉は、ギリシャ語ではエイレネーレですが、ヘブル語ではシャーロームです。
 この言葉は非常に便利なことばであり、またその意味も多様であり、今日のイスラエルでも使われています。 
 シャーロームは「こんにちは」「さようなら」という意味があり日常用語であります。
 さらには、対神、対国、対人との平和。個人的な平穏、安心、安全.他にも繁栄、健康(肉体的・精神的)、救い(闇から愛の世界へ)勝利(罪と世に対する勝利)等実に多くの意味を持っているのです。
 恐らく主イエス様が弟子たちに言われた『平安があなたがたにあるように』とは、神の支配から来る心の平安であるのか、あるいは、単なるこんばんはという挨拶であったのか、その真意は定かではありませんが、私は前者ではないかと思っています。
 しかしながら、主のおことばとは裏腹に弟子たちは、最悪の状態だったのです。
 というのは19節から見て行きますが、愛するイエス様を十字架の死によって失い、しかもユダヤ人を恐れて鍵をしっかりとかけて、ユダヤ人に見つからないように隠れていたのです。
 ただし彼らが恐れていたというのには同情の余地があるのです。
 というのも、イエス様という正しいお方が不条理にも十字架で殺されてしまって、しかも罪のないお方を十字架刑へと追いつめたのは、当時のローマの抑圧者ではなく、ユダヤを代表する宗教家たちだったのです。
 それは宗教国家であったイスラエルの民にとっては実に恐ろしい出来事であったのです。
 つまり神様を信じていると自称している者たちが殺人者となり、しかも自分たちは間違った事はしていないと主張していたからです。
 このように正義不在の国家の中において、しかも真の権威者を失ってしまった弟子たちにとって、非常な恐れに包まれたというのは無理もないことでもあったのです。
 しかし主は、そのような弟子たちに対して何ら叱責も、苦言もなく、『平安があなたがたにあるように!』と彼らにやさしく声をかけられたのです。 
 そして彼らは、復活の主を見て、おおいに喜び、非常に励まされ、慰められたのです。
 もし弟子たちがよみがえりのイエス様のお会いする事なければ、生涯ユダヤ人たちを恐れ、びくびくしながら生きて行かなければならなかったはずです。
 何も悪いことはしていないにも関わらず、人を恐れて生きて行くというのは非常に辛いことです。しかし主のよみがえりによって、そのような不条理と不義から解放されたのです。
 イエス様のよみがえりは、この世の不正や、ごまかし、偽り、不義、悪事のすべてを明らかにされて、正しくさばかれることを保証するものです。
 『隠れているものは、必ず現われるためであり、おおい隠されているものは、明らかにされるためです。』(マルコ4章22節)
 なぜなら神(主)は生きておられ、すべてのことを見通しておられるお方だからです。
『主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。』(詩篇33篇13節)
 もし神様がおられないならこの世は深い闇に覆われてしまいます。人間の罪は放置され、そして真の平安は永久に失われるという暗い世界になってしまうでしょう。
 しかし主のよみがえりは失望の中にある弟子たちにとって大いなる希望となり、『平安があなたがたにあるように』との主のおことばは、落胆していた弟子たちにとって大きな慰めのことばとなったのです。
 主のよみがえりは、将来に希望を持てない、死の不安を持ちながら不確実な今日の時代を生きる者にとっては待望のビッグニュースではないでしょうか。
 次に20節です。ここでは主が十字架で傷ついた手と脇腹を弟子たちに見せられたのです。それを見た弟子たちは主を見て喜んだと書かれているのです。
 私たちとってイエス様の十字架の死は喜びなのです。なぜならイエス様の苦しみは私たちの罪のためであり、そしてイエスの傷跡は私たちの罪が赦されたという確かな証拠なのです。
 彼らの喜びは、主がなされた数々の奇跡を見て喜んだというものとは全く違うものです。彼らは、これからの生涯を通して恒久的な喜びを持つ者となったのです。 
 よみがえりの主を信じる者には、永遠に変わることのない喜びが与えられるのです。主イエス様を信じてまことの喜びを享受しましょう。
『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』 (ヨハネ6章35節)
 次に21節において、主は再び『平安があなたがたにあるように』と語られたのです。ここでは、まことの平安を頂く者がキリストの弟子にふさわしい者であることを示されたと思われます。
 もう一度平安の意味について見ましょう。それは神との和解であり、罪の闇からの救いを意味するものです。 
 その平和を宣べ伝える働きのために弟子たちがこの世に遣わされるということであります。
 主を信じた私たちも、頂いた神様の平安を空しさから解放された喜びを周りの人々にお伝えする使命を受けているのです。
 そして私たちクリスチャンはまことの平和の使者でもあるのです。世界の平和のために祈り、国内の平和のために祈り、隣人の平和のために祈る者であります。
 しかしながらクリスチャンであっても、夫婦や親子や兄弟の間でトラブルこともあります。友達との間においても、職場の人間関係においても、隣人との関係においても平和であることが難しいときもあります。
 まず祈りましょう。難しくなって壊れてしまった関係の修復と和解のために。
 心からシャーロームと言い合える人間関係はなんと素晴らしいことでしょうか。
 次に22節では、聖霊のことが語られています。繰り返し語られた平安と聖霊とは密接な関係があるのです。
 22節のイエス様の行為は象徴的なものであるというのは言うまでもありません。これは、主が昇天された後に、120人ほどの兄弟たちが二階座敷に集まって祈っている時に突然天から聖霊が降りて、ひとりひとりが聖霊を受けた時に成就したのです。
 私はこれまで「聖霊を受けていないならクリスチャンではない」と諭すキリスト教の書物を読んだ記憶はないのです。もちろんくりすちゃんからも。むしろ是非イエス様を信じて聖霊を受けてくださいと勧める書物は数え切れません。
 誰がクリスチャンで、誰がクリスチャンでないのかは重要なことではないのです。
 神様の思いは、ひとりでも滅びることを望んでおられないのです。ひとりでも多くの人が、罪による永遠の滅びから救われることが重要なのです。
 『ひとりでも滅ぶことを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』(ペテロ第2 3章9節)
 とはいえ。神様は無理矢理に人々を信仰に導かれるということはないのです。神様はあくまでも個人の意思を尊重されるのです。
 ただここでの『聖霊を受けなさい』とは、強制的な命令ではなく、主に選ばれたキリストの弟子となるために不可欠なことゆえに受けるべき聖霊なのです。
 まだ聖霊を受けていなかった弟子たちは、それから八日後もなお戸を閉めて、室内に留まっていたのです。
 ですから、再度主は『平安があなたがたにあるように』(26節)と力づけられたのではないでしょうか。
 私たちの信仰生活の祝福は、肉の力ではなく、聖霊に満たされることによるのです。
『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』(ガラテヤ書5章16節)
 最後の23節は、主の弟子として選ばれ、そして聖霊を受けることによって、罪を赦す権威を神から与えられるということです。
 直弟子であったペテロもヨハネも漁師です。他の多くの弟子たちも身に付けるべき宗教的な知識や教養もない人たちでした。
 主が弟子として選ばれたのは学歴不問、家柄不問、職種不問、身分不問でした。そうかと言って人物優先とも言い難いも人物もいたのではないでしょうか。
 しかし復活の主にお会いし、その後に聖霊を受けたことによって彼らは何もかも一変したのです。
 主の復活の事実は、力をなくした私たちの信仰を強め、不信仰に陥りやすい私たちの信仰を堅固にするのです。
 そして信仰によって聖霊を受けた私たちの心には変わることのない平安を持ち続け、不安な時、悲しみの時、嘆く時、恐れる時、いかなる時であっても、主はやさしく、また力強く声をかけてくださるのです。
シャーロームと!
『平安があなたがたにありますように』