「モーセとパロ王」ー神様に用いられる人とはー 出エジプト記8章1−32節 2015年3/22(日)

「わたしは主である」
モーセを励まされた神様− 
 出エジプト記6章1−30章 15.3/8
 前回は、モーセが神様の命令に従って、エジプトの王パロのもとに行ったのですが、その結果が良いものでなく、奴隷であったイスラエルの民にとっては、状況が以前よりも悪くなってしまったために、イスラエルの人夫がしらたちは、モーセを激しく非難したのです。そのためにモーセは意気消沈して、神様に訴えているところでした。(22,23節)
 そこで主なる神様がモーセに告げられたことばが2−8節です。そのところで神様は『わたしは主である。』ということばを4回繰り返されているのです。4回もわたしは主であると繰り返されたのにはどのような意味があるのでしょうか。
 まず第1に「わたしが主である」という意味とは、それは、かつて主がイスラエルの民にカナンの地を与えるとアブラハムヤコブ・イサクを通して約束したことは必ず守るという保証付きの名であるということです(3、4節)。
 まさに「名は体を表す」とのことわざ通りです。ところが、お金を借りる時、あるいは賃貸を申し込む時(他にも入社、入学した時など)必ず保証人が必要です。
 この社会においては、人を絶対的に信用するということはできないのです。いくら私は大丈夫ですと言ったとしても、必ず保証人を求められるのです。そして保証人は、保証した人から何か損失が出ると代弁しなければならないのです。
 聖書は保証人なることに消極的です。もし保証人が借りた人のお金の保証ができない場合は保証人とならないように勧めています。(箴言17章18節、20章16節、22章26節)
保証人になるというのは慎重さが必要です。
 しかしアブラハム・イサク・ヤコブの神は、わたしは主であると5回も繰り返されたのです。それは、有言実行、約束は必ず果たすという保証済みの名前であります。
 ですから神様は、「わたしは主である」というおことばを繰り返すことによって、モーセを励まし、力づけ、勇気づけようとされたのではないでしょうか。
 私たちは、神様を信じて祈っているのに、あるいは神様に忠実に従っているにもかかわらず、なかなか状況が改善されない、むしろ状況が悪化しているのではないかと心配し、不安を抱くこともあるのです。
 モーセの場合も同様です。モーセは尻込みしながらも、神様の命令に従って行動したのに、結果があまりにも悪かったために意気消沈してしまったのです。
 そのような時に、主は彼を励ますために「わたしは主である」というネームバリユー(名前が持つ価値)を知らされたのです。
 私たちも主の名前の本質である主権と真実さと誠実さをいつも心にとめておきましょう。意気消沈のとき、悲痛なとき、苦難のとき、心配や恐れや不安に包まれているとき「わたしは主である」のおことばを心に唱えてみてはどうでしょうか。
 私たちは、主がモーセに約束されたことを12章において実行されたことを知るのです。
 第2に「わたしは主である」という名の持つ意味とは何でしょうか。それは契約による恵みの付与者(主権者)であるということです(5、8節)。
 確かにイスラエルの民はエジプトでの苦役に対して叫びわめいたと2章23節に記されているのですが、およそ430年奴隷生活の中で、もはや彼らは彼らの神を忘れ、彼らの叫びは決して神への切なる祈りとは思えないのです。
 しかし、神様はイスラエルの民に7つの一方的な恩寵(恵み)としての契約されているのです(6−8節)。
① エジプトの奴隷から救い出す ②苦役から解放する ③あがなう ④神の民とする
⑤彼らの神となる ⑥族長たちに誓った地に彼らを導き ⑦その地の所有者となる
 小山田 各(ただし)先生は、このところを次のように釈義されています。
『主なる神様のこれらのすばらしい7つのみわざは、イエス・キリストとの新しい契約を結んでいる新約時代の我々にも、そのまま当てはまる。神はまず、われわれを罪とサタンの束縛の下から連れ出し、そこから救い出してくださる。そしてわれわれを、伸ばした腕によって、すなわちキリストの尊いみわざによって贖われ、また救われたのちも、いつも目を留めてくださるのです。
 そして、祝福された霊的な状態へと導いてくださり、やがては神の国へと導き、それを永遠の嗣業としてわれわれに与えてくださるのである。』
 神様のくださる恵みとは、恵みを与える対象者がいかなるものにもかかわらず、それを問題にされずに与えられるものです。
 神様を信じてから年月が経つうちに、神様から頂いた恵みを忘れることがないように気をつけなければなりません。
 しかし、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、日々神様を忘れずに祈り、交わり、神様と共に歩んでいたわけではないのです。
 彼らははるか昔に神様から離れ、自分たちが神の民であるという誇りも色あせ、奴隷であることの屈辱から誇りある民としての自覚を取り戻すエネルギーもなく、毎日の苦しみがただ過ぎていくというなかで、神様は彼らの嘆きや苦悩を見られて、そして憐れまれた結果、主の救いのみ手が差し出されたのです。
 私たちもどうでしょうか。だれよりも正しい生き方をしていたから、あるいはだれよりも良い人間だったから神は顧みてくださったのでしょうか。そうではないのです。
 神から見れば私たちはみな同じ罪人。罪人に分け隔てなどないのです。『「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私その罪人のかしらです。』第一テモテ1章15節とパウロは証しているのです。
 さてモーセは神様からの7つの約束を聞いた時に恐らく再度励まされ、力づけられ、慰められたに違いありません。
 モーセの意気消沈した心に、神様はご自身のみことばを語られたのです。神のことばが私たちの慰めとなりますように。また私たちの励ましとなりますように。そして良き導きとなりますように。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』 詩篇119篇105節
『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。』エレミヤ書15章16節
 さて、モーセは神様に励まされ、力づけられて、民の前に神様のおことばを再度伝えたのですが、ところが彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかったのです(9節)。
 おりしも4年になる東北の震災において、多くの人が悲嘆に暮れ、心が落胆しておられました。このような状況になると人はもはや神様を求める力も失せるものです。そして人が苦難に置かれた時に神様を求める機会になるかと言えば、必ずしもそうではないのです。
 その苦しみがあまりにも大きなゆえに神に助けを求めることすら出来なくなるのです。
 ですから今、恵みの時に、平和である時に、幸いと思えるときにこそ神様を求めなければいけないのではないでしょうか(伝道者の書12勝1節、第2コリント6章1、2節)。
 また黙示録16章21節において『また、1タラント(約35キロ)程の大きな雹が、人々の上に天から降ってきた。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。』
 想定外の苦難は、神様を求める機会になるよりも、むしろ神様をのろうという最悪の結果を招いてしまうという機会になりうるのです。
 ですから主の祈りにおいて、『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』と祈るようにと主が弟子たちに教えられたことがよく理解できるのです。
 さてモーセの声も民には届かず、聞こうとしなかったときに、神様はモーセに声をかけられたのです(10節)。
『パロのもとに再び行って、イスラエルの民をエジプトから去らせるように告げよ』と命じられたのです。
 これを聞いたモーセはまたもや逃げ腰になり、私は口下手ですとお決まりの逃げ口上によってその場をしのごうとしたのですが、神様はモーセの兄のアロンにも同様に語られたのです。
 最後は、「わたしは主である」という名の持つ意味とは何でしょうか。それは、主は全知であるということです。
 14節から25節においてモーセとアロンがイスラエル系図ではどのような家系であるのかの重要性を示し、モーセとアロンが指導者としてふさわしい者であり、神様が選ばれた2人であることを認証されたのです。
 それにも関わらずモーセは相変わらず私は口下手です。パロが私のことばなど聞くはずはないと消極的な態度に終始しているのです。神様が『わたしは主である。』と5度目のおことばを語られたのに、モーセは『私は口下手です。』ですと再び神様の前に逃げ腰になったのです。
 それほどモーセにとっては非常に重い任務であったということでもあります。
 神様は、常に人を用いて人とともに働かれるのです。たとえその人がそれにふさわしくないと思われても、神様はその人を励まし、力づけ、助けてくださるのです。
 ちなみに、太文字の主はヤーウエ(わたしはあるという者)です。それは細やかな配慮をされる唯一の存在者という意味がるのです。太文字でない主(アドナイ)も同じ意味を持ちます。そして神(エロヒーム)威厳(威光・尊厳・栄誉)のある存在者という意味があります。 
 この主とは、その当時から1500年後に受肉され、へりくだり、人となられてこの世界においで下さったイエス・キリストであります。
「わたしは主である」というお方がイスラエルを奴隷から解放(あがなわれた)されたように、   全人類の罪を赦し、その罪から解放するために、神の御子キリストは十字架で尊いいのちを捨ててくださったのです。アーメン!