「イエス様のこころを知り、学びましょう」  ルカ10章38−42節 2016年1月1日 元旦礼拝

「イエス様のこころを知り、学びましょう」
     ルカ10章38−42節 2016年1月1日
 マルタとマリヤのお話の結末は、どちらが良くて(ベター)どちらが悪い(バッド)のかという評価で終わることが多いようです。
 私自身もこの箇所を2回ほどメッセージさせていただいたのですが、やはり2回ともマリヤの方がイエス様に褒められたというお話をいたしました。
 なぜなら、何をさし置いてもイエス様のお話を聞く、つまり積極的に聖書(神のことば)に耳を傾けることは大切であるということからマリヤの方が良い評価をされるのです。
 でもイエス様はどのように見ておられるのでしょうか。マルタとマリヤのお話から学びましょう。
 さて、マルタはイエス様(12弟子や弟子たちの母親たちも随行)が自分たちの村に来られると聞いて、イエス様を家に招待したのです。ところが、マルタはイエス様が家の中に入いられてからは、喜んでイエス様をお招きしたにもかかわらず落ち着きを失い、そわそわ、いらいらの感情に変わってしまったのです。
 その理由は、食事のもてなしをしてイエス様に喜んでもらおうとする気負いと気遣いからでした。でもイエス様はこのマルタの気持ちを喜ばれ、感謝されたことと思います。
 それは、マルタは自発的に、心から喜んでイエス様を接待しようとしたからです。
 デイリーブレッドの著者は、この箇所で「せっかくの良いことが、もっと良いことの邪魔をする場合があります。」と書かれていました。
 デイリーブレッドの著者は、マルタの行為をベターでとし、マリヤの行為をベストと位置付けているように思われます。
 少なくとも、イエス様を心から喜んで接待したいというマルタの初めの思いはベストだったはずです。
 ところがマルタは一人で接待に取りかかったのですが、思うように行かないために、彼女の心は焦りとイライラに包まれてしまって、そしてマリヤの行動を見て、「イエス様、私が色々と気遣って、バタバタしているのに、妹は全く私の手伝おうとしません。イエス様から妹に何とか言ってください。」と感情をあらわにしたのです。
 一般的にはマルタの言動は普通であり、常識的な範疇かと思われるのですが、ここで、気づいたことがひとつあります。それは、イエス様が家に来られるから必ず接待しなければならにというルール(約束事)があったわけではないのです。
「昨年11月に能勢川教会で持たれたMB協議会にて、藤野先生ご夫妻と私たち夫婦の定年退職感謝の時を持っていただいたのですが、お祝いをしていただく席上ですから、当然私はネクタイを締めて行きました。
 もちろん藤野先生もネクタイをして来られると思っていたのがノーネクタイでした。 
 彼が挨拶の冒頭で、ネクタイをして来なかったのは、皆さんと同じ立ち位置の気持ちでという意味のことを言われたように思います。
 もちろん教団の規定にネクタイを締めないといけないというルールがあるわけではありません。ネクタイはしてもしなくても良いのです。」
 さて、マルタはイエス様を接待すべき(マルタのもてなしの心)だと心の中でルール化していたために、それを優先してしたのです。ルールがあるとそれが気になり、そして、そのルールに心が縛られてしまうのです。
 つまりマリヤもマルタもイエス様のお話を聞き入っていたとしても何の問題はなかったのです。そのようになったとしても、イエス様は、お話を聞き入っていた2人を高く評価されたことでしょう。
 なぜなら、イエス様への気遣いに翻弄されていたマルタを横目に、イエス様の話を一生懸命に聞いていたマリヤを褒められたからです。
 さて、聖書には決まりごとがいっぱい書かれている書物と多くの人が思っておられようです。
 ですから信仰を持つと色々と制約されると考える人が少なくないのです。なかにはクリスチャンの口から信仰生活が窮屈に感じると聞くこともあるのです。
 聖書に問題があるのでしょうか、あるいは受け取り方に問題があるのでしょうか。もちろん後者です。
 私たちは聖書を学び、聞き、教えられる過程において間違ったフイルターを通して聖書を理解していないかをチエックしましょう。
 けさのマルタとマリヤのことにおいても、やはりマリヤは良い方を選んだのですというイエス様のことばをお誉めのことばと理解し、接待のために心を騒がせていたマルタよりも、みことばに耳を傾けたマリヤに学びましょうと奨められるところです。
 しかしけさは、私は彼女たちから色々と学ぶこと以上に、イエス様のこころを知り、イエス様のこころを学ぶことによって、聖書がこれまで以上に私たちの人生に役立つものとなり、有益なものとなり、慰めや励ましとなるようにと願っているのです。
 ではイエス様のお心とはどのようなものでしょうか?
 1.イエス様はマルタを責め、批判されたのではないのです。
 ここで「マルタ、マルタ」と2回も呼ばれているのは、マルタへのお叱りの言葉ではなく、マルタに「いろいろなことを心配して、気を使っています。」と言われたのは、わたしの接待のために一生懸命やり過ぎて、過剰に心配して、必要以上に気を使ってしまったみたいだねとイエス様の慰めの心も含んでいると理解したいのです。
 2.イエス様は、マルタとマリヤを比較して、どちらがベストでどちらがバッドなのかを評価しょうとされたのでしょうか。それどころか、イエス様はマルタもマリヤもなすべき良いことをしていると評価されたはずです。問題は、マルタは自分の方が良くやっているとマリヤと比べたために、イエス様はマルタの間違ったマリヤの評価を正す必要が生じてしまったのです。それはマリヤの名誉(良い心がけ)を守るためでした。
 イエス様は私たち一人ひとりのことを気づかってくださるお方です。たとえ罪を犯したとしても私たちを責めるよりもわたしの十字架の赦しの恵みに預かるようにと願っておられます。
 思い煩い、心配、不平や不満、妬みや憎しみ、批判的な態度や言葉で心が翻弄されたとしても、「わたしはあなたがたに、わたしの平安を与えよう。」と他にもたくさんのみことばによって、私たちを励まし、慰めてくださるのです。 
 新しい年、このみことばを、しなければならないというルール・ブックとしてではなく、このみことばから、本来恐れなければならない神様に裏打ちされている愛と正義と慈しみ、そして神がへりくだられて人となって私たちの世界に来られたイエス様の優しさ、愛の深さを学ぶことによって、信仰者の真の自由を取り戻し、みことばの中に満ち溢れている神様の恵みの素晴らしさを体験するグレイスフル・ブック(私の造語:恵みに満ちた書物)としましょう!
 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」
         ガラテヤ書5章1節
「真理はあなた方を自由にします。」
         ヨハネ8章32節