「神こそわが岩」 -確かな人生の土台とは- 詩篇62篇5−8節 2016年1/3(日)

「神こそわが岩」
-確かな人生の土台とは-
詩篇62篇5−8節 2016年1/3(日)
 昨年は、エルニーニョによる世界的な異常気象、そして世界で多発しているテロの脅威がありました。
さて今年はどのような世界情勢となるのでしょうか、確かな事実があります。それは、これからも人類の英知によって、多種多彩な科学分野がますます発達して行くでしょう、もう一つの事実とは、一寸先は闇であるということです。
 一寸先さえも何が起こるか予測する事は不可能であるという事実であります。
 けさの詩篇に登場するダビデですが、彼はサウル王に殺意を抱かれ、彼の手下たちに命を狙われて、荒野に逃亡しなければならないという追われる身でありました。彼自身にとっても一寸先は闇です。
 ダビデにとって自分の将来が全く見えないというのは、非常に不安であり、心配だったはずです。しかし、ダビデには確かな心のよりどころがあったのです。
それは彼のすべての状況をご存知であり、また彼の将来のすべてをご存知であった神様を知っていたことです。
 ここで神様を信じるということについて2つのことが教えられるのです。
1つは、神様を信じていても人生において試みを経験するのです。
もう1つは、その試みを経験することによって、神様をより深く知る機会となるということです。
 まさにダビデは、数々の試練に遭遇しました。もちろん自分が蒔いた種によって、辛い刈り取りを余儀なくされることもありました。
しかしそのような辛い試練を乗り越えていく中で、彼の信仰はますます確かなものとなって行ったのです。
 それは、けさのダビデの賛歌を読むならおのずと理解できることであります。
 けさは、厳しい状況において、ダビデはいかに神様を信頼したのかを見ていきましょう。
 第1は、信仰による沈黙です(5節 共同訳)。
3ー5節をリビングバイブルで見ますと「ところが、いったいどうしたことでしょう。私の王座がぐらつくと人々はいっせいに避難を浴びせかけてくるのです。王位から追い落とそうと策略をねり、やっきになって、根も葉もない噂を流します。面と向かって配下にもにこやかに振る舞うくせに、心の中ではのろっているのです。 しかし、私はじっと黙って、神からの救いの手が差し伸べられるのを待ちます。」と訳しているのです。
 人は往々にして無責任で身勝手なところがあります。例えば芸能人が人気絶頂になった時には、その目的や理由は様々であったとしても、その人の周りにはたくさんの人が集まって来るのです。
ところがひとたび人気に陰りが出てくると、潮が引くようにして人々はその人から去っていくのです。
 まさにイエス様も同じ経験をされ、ダビデもまた同じ経験をしているのです。
そのような時に、ダビデは敵を恨んだり、あるいは苦境を嘆いたりしたのではなく、望みを神様に置いたのです。そして、ダビデの神様への信頼度は彼の沈黙にあったのです。
 アブラハムは、神様からイサクをささげるように命じられた時に、神様に理由を聞くことなく、疑わず、迷うことなく翌朝早くに三日の道のりもあるモリヤの地に向かったのです。
自分がいけにえになるとはよもや思わなかったイサクは、父にいけにえはどこにあるのですかと聞いた時、必ず神様が備えてくださると答えるだけでした。
 このアブラハムの沈黙の背景には、全能の神は死者をもよみがえらせることができるという信仰があったのです(参照:ヘブル人への手紙11章19節)。
 どうにもできないと嘆いて黙ってしまうのと、神様なら何とかしてくださると黙って神様を待ち望むとには大きな違いがあるのです。
 今年は、日々の生活において嘆き、つぶやき、不平不満をできる限り後回しにして、主に信頼して、ただ黙って主を待ち望むという信仰による沈黙を身につけましょう。
 第2は、ダビデは神様を信じることの確かな根拠を持っていたのです(6節)。
 6節の終わりの「ゆるがされることはない」とは、共同訳では「動揺しない」と訳されています。 
 ダビデが厳しい試練の中にあっても、揺るがされない、つまり動揺しなかったのはなぜなのか。それは「神こそ:He alone」というダビデ信仰告白です。
 かつてホームアローンという映画がありました。「家で1人ぼっち」という意味でしょうか。1人ぼっちというのは心細いものです。
 ダビデは身近な人たちの裏切りも経験したなかでの孤立や孤独はどれほど不安で心細いものだったでしょうか。
 しかし彼にはともにおられる「神こそ」と告白できる神様を固く信じていたのです。 
 誰しも(無神論者であれ)苦しい時や悲しい時や辛い時に、思わず口にする神様助けてというものではなく、いつでも、どこでも、賛美し、感謝し、お祈りし、交わることのできる生ける神様を知って歩める人生は実に幸いなことであります。
 ダビデは、たとい人に裏切られたり、非難されたり、誤解されたり、不当に扱われたとしても「神様こそ」わが岩(人生の土台)、わが救い(罪からの解放)、わがやぐら(守り:英語では堅固な要塞)であったのです。
 私たちの人生において、自分こそ、お金こそ、健康こそ、仕事こそ、あの人こそを土台にして生きるのでしょうか。
 もちろんそれらは、生きる上において不可欠で、大切なものであると思います。
 しかしイエス様は、この世のものを土台にしするのではなく、つまり砂の上に家を建てるのではなく、強固な岩の上に家を建てなさいと教えてくださったのです。
 岩の上に家を建てるとは、神様のみことばを土台とした家造りです。つまりみことばを土台とした人生設計であります。
 ダビデように、神こそわが岩、わが救い、わがやぐら(要塞)と告白して、今年も確かな土台の上にゆるぎない歩みをして行きたいものであります。
 最後は、神のうちにすべてがある(共同訳)という絶対的な神への信頼です(7節)。
 前任牧師が「この聖書には人生において必要なすべてのことが網羅されている」とよく口にされていました。
 それは、どんなことでも、もれなく書かれているという意味ではなく、人間が生きる上で大切な、あるいは必要なことすべてが書かれているということであります。
 そのことを知っておられるお方こそが神様であります。なぜなら、神様が私たち人間をお造りになられたからです。
 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1章3節)
 広大な宇宙についてまったく人間が無知に近いのはなぜでしょうか。
 あるいは、どんなに研究しても生命の謎は解けないのはなぜでしょうか。
 それはそれらを創造された方でないと知るすべはないのです。
 反対に神はいない、すべてのものは偶然の産物と結論づけてしまうなら、そのすべての存在の目的や意義を見出すことは永遠に知ることはないのです。
 たとえばDNA研究は、犯罪者の特定に大きな貢献をしているのです。
 どうしてでしょうか。それはDNAの鑑定の結果2つと同じものがないからです。
 その人が持っているDNAはその人にしかないからこそ確かな証拠となるのです。
 すべての被造物に、個々まったく違う DNAがプログラムされたお方、そして、すべて(いのち)の源であるお方について、およそ3000年前に生きていたダビデは、神のうちにすべてがあると告白しているのです。
 人生においてのすべての問題や疑問。そしてすべての解決に至るまで、神様に聞き、神様に助けを求めましょう。
 ダビデ自身に与えられている栄誉(高い身分は)は、ただ神によるものであると告白し、そして王位や、権威や、財力や、知識が私を守るのではなく、神こそがわが岩(土台)、とりで(強固な要塞)、救い、力であると、ダビデは様々な試練を通る中で、自らの信仰の経験について民に勧めている証しこそが8節であります。
 最後に皆さんとご一緒に5節から8節を拝読致しましょう。