「幕屋から学ぶ霊的真理」    —信仰の土台について—    出エジプト記36章20-38節 16.5/22  大和聖書教会にて

  「幕屋から学ぶ霊的真理」
   —信仰の土台について—   
出エジプト記36章20-38節 16.5/22
 自然界に存在するすべてのものは、それぞれに何らかの意味があって存在しているというのは正しい理解であります。
 時々思うことですが、ゴキブリを見つけた時に、どうして神様は百害あって一利なし、しかもバイ菌だらけのゴキブリを造られたのかと疑問を持たれる方もあるかと思います。
 実はゴキブリは4000種類もあるそうです。その多くは森に生息して、繁殖力と消化力とによって菌類、樹液、倒れた木々、死骸、糞を食して分解して再び大地の栄養に還すという役割を果たしているとのことです。
 ましてや、神様ご自身がモーセにこと細かく指示された幕屋造りにおいて、使われる材料のすべてに意味があり、また形づくられて行くパーツ一つ一つにも意味があるというのは当然のことであります。
 さらに、完成される幕屋には霊的な意義を持っているのです。
 これまでに聖所、至聖所を覆う4枚の幕の意味ついて学びました。
 けさは、聖所、至聖所の枠組みに用いられるアカシヤ材。それを立てる台座。そして聖所と至聖所を分ける垂れ幕の意義を学びましょう。
 そして、今日の私たちの信仰生活にいかに適用したら良いのかを見ていきましょう。
 まず第1に学ぶべきことは、聖所、至聖所の枠組みに用いられた①アカシヤ材(20節)、そして②それを真っすぐに立てる銀の台座(23節)、さらに③横木(31節)であります。
 まず①アカシヤ材は、高価なものではありませんが、重くて、硬くて、強い木で、しかも腐りにくく、湿気に強いという特徴があります。今日でもエジプトでは船の材料として使われているようです。
 このアカシヤ材は荒野に生育しているために、容易に手に入れることが出来、契約の箱や祭壇等に使われたようであります。
 さて20節でのポイントとは、アカシヤ材を真っすぐに立てるということに意味があるようです。
 ある聖書解釈者は、このアカシヤ材は人間性を表していると解釈します。  
 人は本来、神様の前には真っすぐに立てない存在ですが、しかしあがないの土台が備えられたゆえに、つまりイエス・キリストの十字架に罪の身代わりのゆえに、そのあがない主を信じている者は神の前に真っすぐに立つことが出来るのです(赦されている)。 
 ところが、不安定な荒野の地ではアカシア材の板を真っすぐに立てることは出来ないのです。
 私たちの人生の土台についても言えることです。その土台がどのようなものであるかによって、おのおのの人生の歩み方が違って来るのです。
 自分の家を砂の上に建てるのか、あるいは岩の上に建てるのかによって、大きく違ってくるというイエス様のたとえ話しの中で(マタイ7章)岩の上に家を建てた人を賢い人と言われたのです。それは、神様のみことばをしっかりと聞いて、聞くだけでなく行なう人であると教えられたのです。
『これこそ悩みのときの私の慰め、まことに、みことばは私を生かします。』       
       (詩篇119篇50節)
『みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。』   
        (箴言13章13節)
『みことばに心を留める者は幸いを見つける。主により頼む者は幸いである。』    
        (箴言16章20節)
 聖書は私たちの人生の道しるべであり、確かでゆるぎない人生の歩みをするための解説書であります。

   

  
  




 次に②銀の台座(24節)について見てきましょう。
 アカシヤの板を真っすぐに立てるための銀の台座から何を学ぶことができるのでしょうか。
 30章11節〜 において半シエケルの銀(あがないの金額)を登録された20歳以上の者の人数分の銀を使って、一枚の板に2タラントの銀で50枚(今日の価値で2億円?)の台座を作りました。
 アカシヤ材の枠板は、銀の台座によって支えられ、真っすぐに立てられたのです。ここでも私たちの人生の大切な土台について教えています。あがないの銀貨を用いられたという銀の台座は、まさに私たちの罪のあがない主であるイエス・キリストを指しているのです。
 それぞれの人生を真っすぐに歩むために、キリストから目を離しては行けないのです(「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12章2節)。
 イエス・キリストを中心(人生の主として、おゆだねして、明け渡して)にして生きることが幸いな人生を送るための大切なカギとなるのです。

  
  
  



 次は③横木です。組まれたアカシヤの板枠をより強くするためには横木が必要でした。そしてその横木には回りの見える横木と、見えない中央の横木がありました。
 ある解釈者は、見える横木は教会を指し、見えない横木は聖霊と解しています。これは少し無理な解釈のように思えるのですが、適用としては、イエス・キリストを人生の土台としたクリスチャンがより強められ、成長するために必要なものとして、横との交わりの大切さであります。
 つまり神様との交わり、クリスチャン同士の交わり(「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18章20節)、そして聖霊とみことばによって深められるための交わり(静まり)ではないかと思うのであります。
 クリスチャンは一人で成長するというのは妄想です。おそらくみことばからそれた人生を歩むことになるでしょう。主と兄姉との交わりを積極的に持ちましょう。

    
  
  



 最後に第2に学ぶことは垂れ幕(聖所と至聖所の仕切り)です。
 まさしく垂れ幕そのものはキリストを象徴するものであります。そしてケルビムは神のさばきの使者である天使を象徴し、至聖所を守っているのです。
 垂れ幕は、神様と人との仕切りとなっていることを表します。つまり神様と人間とは断絶状態ということを表すのです。
 当時について言えば、イスラエル人と神様との関係は断絶状態であったということです。しかし大祭司が年に一度民のためのあがないのために、聖所の中に入って、罪のあがなう儀式を行うことによって、神様と民との関係が修復(赦し)されたのです。
 そして言うまでもなくイスラエル人のみならず、すべての人類もまた神様との関係は断絶状態であります。
 しかしイエス・キリストは、神と人との仲介者となられて、神様との関係を修復(赦される)してくださったのです。
 それは十字架の死によって成し遂げられたのです。罪ある人間は、私たちの罪の身代わりとなられてイエス・キリストが流された尊い血の犠牲、つまり命をささげられたことにより、私たちは神様との和解の道が備えられたのです。これらのことは神様の愛から出ていることなのです(第一ヨハネ4章10節)。

  
  



 けさは、枠組みに用いられたアカシヤ材を真っすぐに立てる銀の台座。アカシヤ材の枠組の板をより強くするための横木。そして垂れ幕について学びました。これら一つ一つに霊的真理が秘められていたのです。
 今日は教会時代であります。教会を通して神様との交わりが深められ、兄姉たちとの交わりを通してお互いに信仰の成長をさせて頂き、イエス・キリストへの信仰を土台として、主イエス様が再臨されるまで、様々なことがある私たちの人生ですが、信仰をしっかりと持って、忍耐して、忠実に主にお仕えしていきましょう。
 そして愛と恵みとあわれみに富む神様とともに歩む人生が与えられていることに心から感謝しましよう!