「復活の事実」 −聖書信仰に生きる−  召天者記念礼拝  ルカ24章1−12節 2016年10月16日(日)港キリスト教会

 「復活の事実」 −聖書信仰に生きる− 召天記念礼拝   ルカ24章1−12節 
 最近、末期の肺癌が治ったというガンの特効薬が注目されている。死に至らせる恐ろしいガンが治るという朗報である。しかし、私たちクリスチャンにとって、はるかに素晴らしいニュースがある。それは、およそ2000年前にユダヤエルサレムで神の御子キリストが十字架にかけられ、死んで三日目に墓からよみがえられたというビッグニュースである。
さて、イスラエルでは金曜日の夕刻から土曜日の夕刻までが安息日のために、女たちは安息日が明けた日曜日の朝早く、主のご遺体に香油を塗るために墓に向かった。道中女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」と話し合っていた。
主のために香油を塗って葬りたいとはいえ、冷静に考えると彼女たちの行動は衝動的で無計画。しかし損得勘定はない。ところが、男たちはユダヤ人を恐れて、イエス様が殺され、自分たちも殺されるのではと身を隠した。まさしく自己保身。ここに、どれだけイエス様を愛しているかの愛の対比がある。愛は試されるものです。「愛は自分の利益を求めず」(第一コリント13章5節)
 今彼女たちのイエス様への愛を賞賛したが、彼女たちに墓の前の大きな石が取り除けられているという信仰があったのではない。依然として大きな石の問題は未解決のままで、心配もあった。しかし彼女たちは心配しながらも墓に向かって行った。
私たちの人生にも、墓の前に置かれた大きな石と思えるような心配や不安や問題がある。そして、あれこれと心配し、思い煩うのは信仰が足りないと思う。でも心配しながらも女たちが墓に着くと、何が起こっていたのか。「驚いたことに、墓に着いてみると、何と大きな石が墓からわきに転がっていた。」
 神様が前もって、墓の前に立ちはだかる大きな石の心配や不安が取り除かれていた。私たちも、心配事、不安、思い煩いが絶えない。でも心配したり、不安を抱えたり、思い煩ったりしてもいい。なぜなら、神様がともにいてくださり、そして助けてくださる。「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2章6節)
さて、彼女たちが御使いによって石が動かされた墓の中をのぞくと、墓の中は空っぽだったので、女たちは途方に暮れた。しかし、主がよみがえられたことを御使から聞いて、ユダヤ人を恐れて部屋にいた弟子たちに報告した。でも、彼らは戯言と思い女たちを信用しなかった。
 罪の身代わりとして、この世界に来られたイエス・キリストは十字架によって死を打ち砕き、死から三日目に墓からよみがえられた。それは、人類にとって、また歴史上最大のニュースである。しかし、当時イエス様の身近にいた人たちの誰ひとり受け入れることができなかった。
ルカ24章5−7節を見ると、御使いは、イエス様と一緒にいた時、あなたがたに何を話されたかを思い出すようにと女たちを促した。そこで女たちは、イエスのみことばを思い出した(8節)。
彼女たちはみことばを思い出した時、だれもが信じがたい復活の事実を受け入れることが出来た。また、主の弟子であったペテロも、イエス様を知らないなどは決して言いませんと自信満々であった。ところが、イエス様が捕らえられて間もなく、彼はイエス様なんて知りませんと三度も否定した。「鶏がなく前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたことばを思い出し、ペテロは外に出て行って激しく泣いた。(マタイ26章69―75節)
これらから導かれる大切な教訓とは、みことば〔聖書〕に基づいた信仰こそが、いかなる状況の中にあっても正しい理解と判断、そして正しい応答と行動が出来るのではないか。
今は世の終わりの時代である。多くのにせキリストやにせ預言者が現われ、多くの人々が惑わされると主が警告された。そして、キリスト教に敵対する人々は、聖書は作り話、復活などあるはずがない。さらに、聖書に書かれているあらゆる奇跡を否定し、神様がいるのなら、どうして世界に平和が来ないのか。また、多くの国々の貧困や差別といった不公平が無くならないのはなぜかと訝る。
 しかし、クリスチャンは聖書がどう言っているのかを常に大切にすべきである。そのために日々聖書を読み、聖書を正しく理解できる力を身につけておきたい。みことばによる信仰の確信が、先に召された者との再会の喜びと希望を確かなものにする。