『世の闇を照らすキリストの光』 ヨハネ3章16―21節 メッセージ要約 2016年12月25日(日)クリスマス礼拝 港キリスト教会
『世の闇を照らすキリストの光』 ヨハネ3章16―21節
最近のスマホーはパソコン並みに色々な情報を提供してくれる。とはいえ、ネットの情報は100%保証するものではなく、鵜呑みできない。しかし、聖書は神からのことばであり、その信憑性のゆえに、毎年世界のベストセラーである。その聖書からクリスマスに関する情報を見ましょう。
まず第1は、クリスマスの主人公であるイエス・キリストとはどういうお方なのか。
まずイエスとは普通にある名前で「救い主」、キリストとは「油注がれた王」という意味で、いわゆる日本の天皇の称号に当たる。またキリストの誕生によって世界の歴史はBCとADとに二分され、その誕生はユニークで、処女マリヤの聖霊によるみごもり。その奇跡は、キリストは罪のない人間としてお生まれになることの証明である。
そして、主の公生涯における33歳の時に、宗教裁判にかけられ、当時のローマ総督であったピラトは、彼に何の罪もないと証言するも、主に対して妬みと憎しみを抱いていた当時の宗教家たちは、群衆たちをそそのかしてキリストを十字架刑に処した。ところが、主は死んで三日目に墓からよみがえられ、復活されたキリストは多くの人々の前に現れて40日後に、群衆の見ている前で雲に包まれ、たちまち天に昇られた。
第2に、イエス・キリストがこの世に来られた目的について見ましょう。
マタイ1章21節には『この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』と書かれている。キリストが人の姿をとってこの世界に来られた目的とは、私たちを罪から救うためであると教えている。では聖書がいう罪とは何か。それは、この社会にける罪の理解とはかなり違いがある。聖書には罪とは『悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの罪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』(マルコ7章21―23節)と書かれている。
今日犯罪が激増し、もはや犯罪は人を選ばず、あらゆる階層や身分に関係なく広がっている。もちろんその背景には、社会に大きな問題と責任がある。しかし、諸悪の根源は個々の人間の罪にある。
その罪の最たる特徴とは自己中心であり、それは、まことの神をしり退け、自分を王(神)とし、また目に見えるものを神(第一)とするのである。しかも、私たちの心に内在する罪は、正しく生きることを阻害する力となり、大切な人生を破滅する力を持ち、悪へと誘う力を持っている。ところが、自らの罪をコントロールするのは不可能に近い。その罪からの救いは、難行苦行という修行や、気持ちの持ちようでは解決されない。
しかし、神はその解決のために罪なき、汚れなき,聖なる尊いいのちを要求された。その要求に父なる神から遣わされた御子キリストが応答してくださった。本来私たちが受けるべき罪による刑罰を、罪なきキリストが身代わりとなって引き受けられた。
「キリストは、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打傷のゆえに、私たちはいやされた(ゆるしと平安)のです。」(第1ペテロ2章42節)
3つ目は、キリストは闇を照らすまことの光であると紹介している。
人間の罪こそ、この世を闇にしている。宗教や人種の違いによって起こる戦争やテロによる殺人事件が絶えない。世界中の人々にとって、将来に希望を持つことが難しくなって来ている。また、いつどこで何が起こるか分からない不安な時代である。
「わたしは、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14章27節))
神がくださる平安は、世の闇を照らしてくれます。そしてまことの平安(平和)はキリストを信じた時に与えられる。
さらに罪は永遠の死をもたらす大きな心の闇である。しかし、イエス・キリストは私たちの死という闇に光を照らしてくださったのです。イエス・キリストは、ご自身のいのを捨てることを惜しまないほどに私たちを愛してくださり、その方の名を信じた者は、死後、神による罪のさばきから逃れ、永遠のいのちと天国の約束をいただく。これこそクリスマスのビッグでグッドなニュースである。
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』 (ヨハネ5章24節)