「死から永遠のいのちへ」 ルカ24章1−8節 要約 2017年4月16日(日)イースター礼拝 港キリスト教会

   「死から永遠のいのちへ」 ルカ24章1−8節 

 イースターの名前の由来は、紀元前、キリスト教文化の影響を受ける前のゲルマン神話で、春を祝う祭りを象徴する女神(エオストン→イースター?)とキリスト教の復活祭と融合されたと言われている。またイースター卵は、死からの復活を象徴し、春は芽から花がどんどん咲く時(いのち溢れる)であることを象徴している。

 さて、十字架によるイエスの死は弟子たちにとって、イエスが属国ローマからの解放者、ユダヤの王になるにふさわしい方であるという夢が砕かれ、人生の拠り所を失い、失望と落胆の中にあった。この世や人への過度な期待は脆いものである。人を当てにし過ぎて崩れていく人生。仕事だけが生きがいという人生は、仕事を失った時に無力さを味わい、お金だけが頼りであるという人は、死に直面した時に、この世のものを頼りにして生きる儚さと虚しさを経験するのではないか。命あるもの、目に見えるものは必ず朽ち果てる。それゆえ、死は終わり。死んで花見が咲くものか。生きているうちに、あれもこれもしようと考える。これは、死後について知らないゆえに口から出る本音ではないか。しかし、死は人生のゴールではない。死後の行き先が決まる分岐点なのである。
 では、本日の聖書の内容を見ましょう。イエスの十字架の死から三日目の早朝、女たちは、イエスを葬るために墓に向かった。イエスの墓の穴は大きな石で封印されていた。ところが、女たちが墓に着くと、大きな石が動いていた。イエスのご遺体もなかった。石は御使いによって動かされていた。この不可解な出来事は、彼女たちが復活されたイエスに出会った時にその謎が解けた。また、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちも、イエスが復活されたという女たちの証言は信じなかった。しかし、復活のイエスにお会いした時に、女たちの証言が真実であることが分かった。
 作家の川路柳虹さんの「棺」という詩に、「その棺はどこに行くのですか?火葬場へ。それからどこへ行くのですか?お墓へ。それからどこへ行くのですか?知りません。」と書かれている。
 確かに、私たちの国では死をタブー視するために、死とは何かを明確に答えてくれる人や機会が皆無である。それでも死は必ず来る。
 では死とは何か。実は聖書には死の問題について明確に答えている。
「罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」(ローマ書6章23節)
 聖書の死についてのメッセージとは、私たちの罪こそ死をもたらし、その罪の解決のないまま人生を終えるなら、死後に神からさばきを受けると警告している。何の落ち度もなく、罪を犯されなかった神の御子イエスの十字架とは、私たちの罪による神のさばきを逃れるために、キリストが私たちの罪の身代わりとなられて、神のさばきを受けてくださり、そして、キリストの十字架の死を通して、神はご自身の愛を明らかにされた。しかも、キリストは死で終わらず、三日目に死からよみがえられた。復活のイエスを目撃した弟子たちは、生涯消えることのない大きな喜びに満たされ、この素晴らしい出来事を人々に伝えるために、迷うことなく、損得勘定抜きで、キリストの救いを人々に伝えるために、いのちを賭して生涯をささげた。
 今からおよそ2000年前のゴルゴダの丘の上で十字架につけられ、苦しまれ、人々の赦しために祈られ、いのちをささげてくださったイエスのうちに「死から永遠のいのち」に至るまことの救いがある。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5章24節)