1月22日〔日)礼拝メッセージ「神の助けを求めた王」−危機的な状況の中で−

「神の助けを求めた王(Ⅱ)」
−危機的な状況の中で− 


第2歴代誌20章1―14節 12.1/22  

 

 前回の学びでは、18章1節に記されているように、ヨシャパテ王は富と誉れとが豊かに与えられていたのですが、彼は北イスラエルの王アハブと政略結婚と思える縁結びをしてしまいました。
それは彼の息子ヨラムと、アハブ王と悪名高い妻イゼベルとの娘であるアタルヤとの結婚でした。
その結果、前回学びましたように、20章1節に記されているように、南ユダ王国は異教の国との戦いに巻き込まれてしまうという危機的な状況になったのです。
 そのときヨシャパテ王は非常に恐れたのですが、彼は自国が誇る強大な軍事力(17章12節)に頼ることをしないで、主の助けを求めたのです。
彼は、他国との戦争という危機的な状況の中で、軍事力や兵力ではなく、国民に神への祈りと断食を求めたのです。

まず第1にヨシャパテ王は祈りを最優先したのです。
ヨシャパテ王は、強力な連合敵軍に非常な恐れを抱いたのです。信仰を持っていても、危機的な状況といった大きな試練に見舞われることもあります。そして神様を信じているにもかかわらず、恐れ惑うことがあります。
元はと言えば、彼の妥協と思えるような不信仰なアハブ王との縁結びにあります。恐らく彼は、今回の縁結びは、神のみこころではなかったということに気づいたと思われます。
もし気づいていないとするなら、彼は自国の強力な軍事力に頼ったはずです。妥協的な信仰の過ちを断ち切り、神に立ち返った彼の姿勢は私たちも学ぶべきであります。
私たちも信仰の歩みにおいて、過ちや、失敗や、愚かな行為をしてしまうことがあるのではないでしょうか。
そのような中で、いつまでも落ち込んだり、後悔したり、あるいは同じ過ちを繰り返すことに一番気をつけなければならないことであります。
厳しい状況に立てば立つほど神様に立ち返ることが大切であることを学ぶことができるのです。
そしてそのような時に最も必要で有益なものが祈りなのです。祈りは恐れを克服する力です。それだけではないのです。

第2にヨシャパテの祈りは、神の御手を動かす力となったのです。
さて神の御手を動かしたヨシャパテの祈りとはどのようなものだったのでしょうか。それは5—13節から学ぶことが出来るのです。
祈りの中で神様の真実性を訴えた(5−9節)。
「祈りは世界を変える」という書物の中で、ジョージ・ミラーと言う人物が登場します。
彼は裕福な家に育つのですが、小さい時から素性が悪く、盗癖があった。それは青年になっても変わることがなかった。大学において、1人の友人に出会うも、その友人と一緒になって、人のお金をごまかしていた。ところがその友人は自責の念にかられ、教会の家庭集会に出るようになり、ある時に友人のジョージを誘ったのです。
ジョージは信仰には全く興味はなかったのですが、賛美歌を聞いている時に彼の心の中に、これまで経験したことのない内的な喜びと平安がわき起こったのです。
それから彼の心は一変し、彼の生涯も一変したのです。彼は生涯において、信仰によって150万ドルを得て、9、975人の孤児(5つの孤児院を設立)の世話をしたのです。  
その彼の生涯においての祈りはあまりにも有名であります。ミューラーは90歳の時に「私は、聞かれなかった祈りというものを知らない。」と言ったのです。
彼は、祈りの答えを得る秘訣は、祈りの時にクリスチャンはいかに神のみことばを適用するかにかかっていると主張したのです。
彼はいつも聖書を開いたまま祈り、彼の友人たちは、この孤児院の院長は、願い事の裏付けとなる「神のみことば」なしに神に願い事を言い表すことはなかったと語りました。
事実ミューラーは、自分自身が神のみことばで十分養われるまでは、決して願い事を言い出さなかった。彼はまさに、「神のみことばを祈った」のであると引用しているのです。
ヨシャパテの祈りもまた、みことばに基づいた、イスラエルの歴史の中で働いておられる神様の真実についての告白の祈りであったのです。
私たちも祈ることにおいて、祈りとみことば信仰は切り離せない深い関係にあるという事を学びましょう。
自分の祈りの正当性を訴えた
(10−11節)。
ヨシャパテは、今まさに戦争を仕掛けて来たモアブ人、アモン人の不当性を訴えることによって、自らの祈りの正当性を神様に訴え出たのです。
神様の前にささげられる祈りは、いつもその動機が問われ、試されるものであります。
『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブ4章3節)
また第1ヨハネ3章22節において『また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神の喜ばれることを行なっているからです。』
このように、神様の前に正当(動機が正しい)な祈りは必ず聞かれるというみことばの約束という根拠に基づいて粘り強く祈って行きましょう。
救いの必要性を訴えた(12、13節)。
ヨシャパテは、ユダの人々とエルサレムの人々の前で、面子をかまうことなく、自分の無力さ、自分の弱さを告白したのです。それはユダの人々も同じであり、彼らもまた神の前に出ていたのです。
自己放棄は神様の御手が差し伸べられるための良い状況となるのです。しかし自分の考えや、自分の思いが時には祈りの妨げとなるものです。
ひとたび自分の考えや思いを横に置き、神様に一任する心を持って祈るとき、神様からの祈りの答えを受けるために妨げとなるものは何もないはずです。
競争社会というこの世においては、自分よりも賢く、強く、卓越した人は多くいるのです。
また人ができることは実に限られており、自分の力ではどうにもできないことも多くあり、自分ではどうにもできない不利な状況に陥ることもしばしばあるのです。
そのような中から引き上げてくださり、救い出してくださるのは神様ではないでしょうか。
参照:詩篇54篇
祈りは学ぶだけでは習得できないのです。私たちの祈りは神様の御手に届かなければならないのです。
まさにヨシャパテの祈りは神様の御手に届く祈りでありました。そして彼だけでなく、全国民が集まって、主を求め、主に祈ったのです。 
私たちも、この一年も礼拝後の祈りの時を大切にしましょう。
一年の行事としてではなく、私たちが総会で決めたことだからというのではなく、どうしても祈りが必要であり、祈りは私たちを変え、教会を変え、世界を変える力を持っているというみことばの真実に基づいて、主の前に熱い祈りをささげて行きましょう!