『神に助けを求めた王(Ⅲ)』−気落ちしてはいけない− 第二歴代誌20章14−31節

「神に助けを求めた王(Ⅲ)」
 ―気落ちしてはならない― 
 第2歴代誌20章14節〜31節 13.2/5
 
 今回で3回にわたる歴代誌の学びを終わります。今年の目標聖句は「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ書4章6節)というみことばが導かれました。
けさ学ぶ箇所にも、主の霊の働きについて記されているのです。
ヨシャパテ王は息子ヨラムによる北イスラエルの王女アタルヤとの政略結婚を企てた結果、異教の国々との戦いに巻き込まれたのです。
ヨシャパテ王は、国家の軍事力を自負していたのですが、敵軍の軍事力が勝っていたためか、彼は非常に恐れたのです。そして主に助けを求め、国民的な祈祷会を持ったというのが20章1節から13節のおおまかなあらましであります。
さて、ヨシャパテ王は、政略結婚という人間的な行為よって、不必要な戦いに巻き込まれ、非常に恐れたのですが、彼は戦の武具ではなく、祈りという神の武具を、国民とともに身につけたことは非常に賢明でありました。
12、13節を見ましょう。「王は主に目を注ぎ、国民は主の前に立っていた。」
敵軍の攻撃を前にして、もはやなす術のない王や国民の切なる祈りは神に届いたのです。
そして、すばらしい神様のみわざが14—30節に記されているのです。   けさは祈りの結果、神様はいかにお答えくださったかを見て参りましょう。   さて、この聖書において、祈りが何らかの理由によって神様に退けられない限り、必ず祈りに答えてくださるということが明らかにされているのです。
祈りに答えられるというみことばは数え切れないほど、この聖書には書き記されています。主のみことばは真実であり、主の約束は必ず果たされるのです。
もしこのことにおいて何らかの支障があるとするなら、神様にではなく、みことばを受け取る私たちの側に問題があると思われます。
たしかに、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。ただ、私たちの願い通りに、あるいは期待通りに答えてくださるとは限らないということであります。
時には、私たちの思いを超えた方法によって答えられるということもしばしばあるのです。事実、けさの所もそうであります。王や国民が祈り願っていないことが起こったのです。
それは、主の霊がヤハジエルの上に臨んだのです(14節)。 
この人物についての詳細は記されていません。ただレビ人ヤハジエルについては、ダビデ時代において、神の箱をエルサレムダビデの町)に運び込まれて来た時に、アサフは歌うたいとして抜擢された。その子孫はアサフ族と呼ばれ、レビ人ヤハジエルもそのひとりであります。
聖書注解によりますと。「彼はアサフ族出身であったから、言わば聖歌隊の一員であり、レビ人であったが、祭司でもなく、名の知られた預言者でもなかった。神は、どこで、どういう人を用いられるかは分からない。しかし、ヤハジエルは、忠実に彼の日常の任務を果たし、この日も皆とともに、熱心に祈っていたことでしょう。」と記しています。
王もユダの人々も、神の霊を求めたわけではありません。ましてヤハジエルの上に神の霊が注がれるように求めたのでもありません。彼らの祈りの答えは思いもよらないものでした。
私たちも神様に祈りますが、的確に私たちの必要を祈り求めているとは限らないのです。時には間違った求め方や、間違ったものを祈り求めているということもあるのです。
大切なことは、祈りの答えがどうであるかは、神様におゆだねしないといけないのです。
さらに祈りの結論を急ぐこともしばしばあるのではないでしょうか。祈り求めたものがすぐに答えられ、あるいは手にすることが祈りの答えと思いがちです。
しかし、神様はこの戦いにおいて、最終的には勝利に導かれるのですが、 神様はまずご自身の霊をヤハジエルに注がれたのです。そして、主の霊を受けたヤハジエルはこの戦いの先頭に立ったのです。 
預言者としても知られていない、聖歌歌隊の一メンバーに過ぎなかったヤハジエルにどうして主の霊が注がれたのかは、聖書は沈黙しているのです。  あくまでも推測でありますが、先ほどの聖書注解の引用にありましたように、彼は忠実な神のしもべであったことは確かであったと思われます。
神様は何のお考えなしにヤハジエルを選ばれたのではないはずです。神様には適当というのはないのです。あるいは偶然というのはないのです。必ずお考えがあって事をなされるお方であります。
エス様の誕生を最初に知られたのが、当時の社会では貧民であった羊飼いであったことにも神様のみこころがあったのです。
そして何よりもイエス様の母マリヤもまた、神に選ばれた人でありました。それは、彼女が特別な人間であったからではなく、ごく普通の人であり、その生活ぶりは貧しいものでありましたが、主は彼女の信仰をご覧になられて彼女をイエスの母に選ばれたと思われます。
ヤハジエルも同様です。これらの人々の共通点は神の前における信仰の姿勢と忠実さであります。
『忠実な者は多くの祝福を得る。』(箴言28章20節)そしてルカ19章17節では、『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』とイエス様のたとえが語られているのです。
ほんの小さな事に忠実であることの重要さがあります。聖歌隊の一員のヤハジエルは、恐らく神様を賛美するという奉仕にも、忠実に仕えていたことでしょう。黙示録2章10節『死に至るまで忠実でありなさい。』
私たちは、今年も神様に対して忠実に仕えていきたいものです。
神様の前では、地位や身分や家柄や能力ではなく、たとえ小さな者であっても、忠実に果たしている人が喜ばれるのです。
主はそのようなヤハジエルを選ばれて、ご自身の霊を彼に与えられたのです。そして、主の霊に満たされたヤハジエルを用いられれたです。
主の霊に満たされたヤハジエルは、15—17節において、預言者として主のおことばを大胆に語ったのです。  それは、大いなる恐れの中にある王ならびにユダの人々を、励まし、力づけ、勇気を与えるためでありました。
「恐れてはならない。気落ちしてはならない。しっかり立って動かずにいよ。主があなたがたとともにいる。」
私たちも、信仰生活においてこのヤハジエルのメッセージを必要としているのではないでしょうか。
ヤハジエルのことばに励まされ、主に信頼したヨシャパテ王ならびにユダの人々は、敵の連合軍との戦いにおいて大きな勝利をするのです。
22、23節に記されているように。彼らのしたことはこの戦いの前に、主の前に大いなる喜びと賛美をささげた時に、敵の軍隊は同士討ちをして滅びたのです。
彼らの勝利の秘訣とは、まず主の前にへりくだって祈ったことです。そしてヤハジエルのメッセージ、つまり主のおことばを聞いて信頼して従ったことです。
ある人は17節をこのように訳しています。『この戦いで、あなたがたは戦う必要はない。部署につき、しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。』

「彼に信頼する者は、失望させられることはない。」ローマ書9章33節
神様にしっかりと信頼するなら、問題の渦中に振り回されることはないのです。そして、主に信頼し続ける秘訣は、主の霊に満たされ続けることです。
このことが、今日のみことばからの大切な教訓であります。