『価値あるささげもの』 2012年2月26日(日)礼拝メッセージ

『価値あるささげもの』
       マタイ26章6−16節 12.2/26

「無駄の効用」という言葉を、たしか高校生の時に先生から聞いたのですが、無駄と思えることが実は役に立っているということがあります。
私が高校生の時にバレーボール部に入っていたのですが、一年生の夏休みの練習に行った時に、一年生は私ひとりでした。練習と言っても私はレギュラーではなかったので、ひたすら球拾いでした。しかも山手にあったグランドのために、しばしばボールが草むらに入り込みました。真夏の暑い最中です。一年生が練習をさぼる理由は分かっていたのですが、私はひたすら球拾いを毎日続けました。無駄なことを毎日しているような気持ちになることもありましたが、でもその甲斐があって、一年生の後半から練習試合に出してもらえるようになったのです。しかも、球拾いが体を鍛えるために役に立っていたのです。無駄と思うことが決して無駄ではないということは他にもたくさんあるものです。
さて、けさの箇所も、イエス様の頭に高価な香油を注いだひとりの女(ヨハネではマリヤと記しています。)に対して、弟子たちは、憤慨して『何のために、こんな無駄なことをするのかと』と言ったのです。しかし、イエス様はその女を擁護され、しかもその行為を褒められたのです。
たしかに常識的に考えるなら、もし私もその場にいるとしたら、恐らく弟子たちと同じように、彼女の行為を責めたことでしょう。
『この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しが出来たのに。』これは正論ですが、これはイスカリオテ・ユダの言葉でありました。ヨハネ12章6節によれば、『しかしこう言ったのは、彼(ユダ)が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。』と書かれているのです。
おそらく、彼はその高価な香油が無駄に使われることを惜しんだのではないかと思われるのです。それは彼(ユダ)だけでなく、弟子たちもそのように思ったはずです。
「もったいない」ということばは世界中に広がっています。国民の大切な税金の使い道の無駄を省く政府による仕分けも大切なことです。それは家庭でも同じことが言えるのです。電気やガス、水道など無駄な使い方をしていないかを心がけることは良いことだと思います。
また物を大切に使うことも無駄な出費を抑えます。いろんな意味において無駄を省くことは大切なことだと思います。そういう意味においてはこの女(マリヤ?)の行為は感心できないと思われても仕方がないことです。
ところが、主イエス様は、『なぜこの女を困らせるのです.わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。』(10節)とこの女の行為を褒められたのです。
この正反対の見方から、人の視点と神様の視点とには違いがあるということが教えられるのです。
ユダが香油を惜しんだのは、それが非常に高価な物であったからだと思われます。ヨハネでは300デナリと記されています。これは現在のお金に換算するとおよそ10ヶ月分の給与になるでしょうか。
当時のイスラエルでは、女性はお金を貯めて高価な香油(香料としてだけでなく、化粧や死人の葬りとして用いられた)を買っていたようであります。箴言21章20節に『知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある.しかし愚かな者はこれを飲み尽くす。』と教えています。 
イスラエルの家庭に香油があるというのは一種のステイタス(社会的地位)だったようです。それだけに高価な香油は大切に使うべきだったのでしょう。それをたった一度きりで使い果たすということは、だれの目から見ても「もったいない」ものでした。これが人間の視点であります。
そこには世間一般の常識という尺度があります。世間の常識から外れれば非常識となります。もちろん世間の常識は国によっては違うでしょう。しかしこの香油の場合は世界共通認識のできるものです。
つまり無駄な使い方をしているという見方です。
しかし神様の視点は、この世の常識という測りでは見られないのです。いや通用しないと言ってもいいのかも知れません。
ノアは神様の視点で、雨の降ることのない時代に、大洪水に備えて箱船作りをしました。
アブラハムとサラは、アブラハムは100歳、サラは90歳で子どもが与えられると聞いた時二人は心の中で笑ってしまいしたが、アブラハムは信仰によって神様の視点で、御使いのことばを受け止めたのです。
モーセは、エジプトで奴隷となっている数百万人のイスラエルの民のリーダーになることをためらいました。それは人間的な視点に立っていたからでした。しかし神様が先頭となってくださることを信仰によって、また多くの神様のしるしによって、神様の視点に立って、イスラエルの民を導いて行ったのです。
ですからこの女の行為は、イエス様の視点から見れば実に麗しい、尊い行為であり、賞賛されるに値するものでした。  
その理由は、12節にあるように、イエス様の埋葬の用意をしてあげたいという気持ちを見られたのです。
つまり彼女は、高価な香油、また非常に貴重な香油を使い果たすことに、何の惜しみもない、また悔いのない絶好の機会であると考えた上での行為だったのではないでしょうか。
その行為の裏には、イエス様に対する深い愛情を見ることが出来るのです。愛はお金以上のものであり、愛は常識を超え、愛は大きな犠牲を惜しまないということなのです。
しかも今の機会を逃すなら二度とその機会はないゆえに、思い切って高価な香油をイエス様の頭に注ぐことができたのです。イエス様を心から愛しているからこそ、この機会を生かしたのです。
そして惜しみなく香油を主に注ぎ尽くすことができたのです。愛の世界は常識を超えるのです。愛の世界はいかなる犠牲をも惜しまないということなのです。 
まさに父なる神様が、ひとり子であるイエス・キリストを人としてこの世界にお送りくださったことは、人間の視点では考えられないことです。しかも私たちの罪の身代わりになって十字架で犠牲の死を遂げられるということは人間の視点ではないのです。
神様ならもっと他に良い方法があったのではないかと考えてしまいます。しかしそのような見方もまた人間的な視点と言えるのです。
愛する罪人のために死をも惜しまないお方であられたイエス様から見れば、この女の行為は決して無駄なものとは思われなかったどころか、これこそ立派な行為であると褒められるものだったのです。 
神様のためにささげる行為は、人の常識から見れば、理解し難いものがあるでしょう。
例えば什一献金などもそのひとつであります。未信者がそのことを聞いたらどう思われるでしょうか。何でそこまでするのと一喝されるかも知れません。
もちろん什一献金は強制的なものではありません。自ら進んで、心で決めてするべきです。もちろんそのような行為は主が喜ばれるものです。まさに献金は神様の視点で捉えなければ難しいものとなります。 
なぜなら人間的な視点には打算という考え方があるからです。300デナリなら高く売れてと計算するのです。計算高いことが悪いというのではないのです。それも大切なことです。
しかし神様のためにささげることにおいて、打算は信仰を弱めます。打算は私たちの信仰姿勢を制限してしまいます。
打算は偉大なる神様を見失わせるものです。
見積もり信仰から抜け出して、あるいは計算信仰者ではなく、実質信仰者となりたいものです。
それは、全く神様により頼む信仰です。そしてゆだねきる信仰です。このように言っている私自身もまだまだその域までは行かないことで悩みこともしばしばです。
しかしこの女のしたことは、今日も栄えある行為として輝いているのです。
主のためにしたことが無駄になることは決してないのです(13節)。
私たちがどれだけ神様を愛しているかは、どれだけ神様のために犠牲を惜しまずにささげられるかにかかっているのです。