『真実な祈り』 2012年3月4日(日) マタイマタイ26章36−46節

       「真実な祈り」     マタイ26章36−46節 12.3/4
  
 私は22歳の時に、胃と腸の摘出手術をしました。その手術をする少し前に、同じ手術をしておられた近所のご年輩の方から、この手術はほんまに痛かった。あまりの痛さで男泣きするほどやったということを聞いたのです。それを聞いて、多少は恐いなと思いつつも実感がわかなかったのです。やがて手術の時が来ました。麻酔をかけられ、手術が終わって気がついたらベッドの上でした。
そして、その後に想像を絶する痛みを経験しました。当時は、痛みはできるだけ我慢して、モルヒネによる副作用を少なくするという処置方法がとられていたのです。あまりにも痛いので、手元のブザーを何度も押して、痛くてたまらんモルヒネを打って欲しいと看護士さんに頼み込んでも、後何時間待ちなさいという返事でした。その痛みは3日間ぐらい続きました。  
そのような痛みの経験から、私はイエス様の十字架刑の苦しみや痛みがどれだけのものであったのかを考えると恐ろしくなるのです。
と同時にそれほどまでに、私たちの救いのために何と大きな犠牲を払ってくださったのかという感謝の思いでいっぱいになるのです。
さて、けさの聖書箇所を見ますと、十字架刑を前にしてイエス様が非常に恐れておられる様子がうかがえます(37、38節)。
それは、十字架刑による死という恐れに対する真実な気持ちが表れているのです。
神の御子ですから、恐れや苦しみを避けることや、あるいは軽減することは可能であったことでしょう。しかし、主はあえてその試みをご自身の身に受けられたのです。
ですから、十字架の死を直前にされたイエス様の心境は、実に耐えがたいものであり、またはかり知れない苦しみであったことでしょう。
そのような中で、天のお父様に祈られた(39節)イエス様の祈りはまさに真実な祈りであったのです。
けさは、私たちはどのような祈りをするのか?そして、どのような時に祈るのか?ということについて、イエス様のゲッセマネの園での祈りから学びましょう。
まず第一に教えられることは、不条理な十字架の死に対して、不平不満や嘆きやつぶやきといった思いの中で祈っておられなかったということです。これこそ祈りにおいて学ぶべき教訓であり模範であります。
私について言うならば、不平不満や嘆きやつぶやきの中で、しばしば祈っていたということを告白しなければなりません。
何故ですか?どうしてですか?どうして私だけが?と思いつつ祈ったことがしばしばありました。
しかし、そんな祈りをしたために、神様が私の切なる祈りに答えてくださらなかったということはありませんでした。実に神様はあわれみ深いお方であります。
そのような経験を積む中で、出来る限りつぶやかないで、嘆き過ぎすぎることなく、厳しい現状をまず受け入れて、真実なる神様を信じて行く大切さを少しずつではありますが学んで行くことができました。
私にとって、試練は時にはつぶやきの材料にもなり、そして時には信仰の成長のチャンスにもなりました。『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって、幾千の金銀にまさるものです。』(詩篇119篇71,72節)
人生におけるさまざまな試みによって、つぶやきや不平不満の中に埋もれてしまうのではなく、その現状を真実に神様に訴えることができるというところに、祈る者の慰めがあるのです。それはまさに恵みではないでしょうか。まさしく39節や42節はそのような祈りのように思えるのです。
それは祈る者が中心ではなく、祈りの対象者であられる天のお父様が中心となる祈りをされたのがイエス様なのです。
よく考えますと、私たちは自分を中心において祈っているということはないでしょうか。  
私たちは、自分の思うようにならないことに苛立ち、あるいは他人のせいにするといった利己的な立場をとりやすい者です。
ですから私たちは利己的な祈りをしてしまうことに注意を払う必要があるのです。
『私は山に向かって目を上げる。私の助けは天地を造られた主から来る。』 
詩編121篇1節)
何よりも私たちは、どのようなお方に向かって祈っているのかを覚えましょう!
もちろん利己的な祈りさえも受け止めてくださるお方です。しかし、いかなることにおいても神様の御心がなるということを、祈りにおいては学ばなければならない大切なレッスンなのです。
もし御心がなるようにと願うなら、その人は祈りについて正しい理解をしているということなのです。
『わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』  
その御心とは、ご自身が十字架にかけられることを受け入れなければならないという厳しい現実であります。このように祈りの結果のすべてを神様におゆだねするというのは、信仰の成熟者のあかしでもあります。 
それを習得することは決して容易なことではないのです。それは、数々の苦闘の祈りの中で学んで行くものではないでしょうか。
次に祈りについて学ぶこととは、私たちは弱いからこそ祈る必要であるということです(41節)。
イスラエルの国民に絶大な信頼を受けて王となったダビデは、ある日に、ひとりの女性の入浴場面を目にして、人妻であったその女性を自分のものとしたい誘惑にかられて、ダビデは王という地位を利用して、そのご主人を激戦地に送り出し、戦死させることによってその女性(バテ・シエバ)を自分の妻にするという大きな罪を犯したのです。しかし神様によってそのことが明らかにされて、彼は罪を認めたものの、その罪の結果、日々心を悩まされ、葛藤の日々を送らなければなりませんでした。一国の王であっても、誘惑には打ち勝てなかったのです。しかし彼は自分の弱さを認める中で、神様への切なる祈りをささげていたのです。それが詩編51篇1−17節(参照)の祈りであります。
自分の弱さを知りつつも、どうしても祈る時間がとれないということと、自分は祈らなくても大丈夫だから祈らないのとは、同じ祈らないことであっても大きな違いがあります。
エス様は十字架刑を前にして、同じことを繰り返して3度祈られたのです。弟子たちは誘惑に負けて寝込んでいたのです。イエス様は人としての弱さと向き合っておられたからこそ、天のお父様との祈りを必要とされたのです。
しかし、弟子たちは自分たちが実は誘惑に陥りやすい、弱い者であるということに、まだ気づいていなかったために、祈りには無頓着だったと思われるのです。
私たちも、いかに自分が弱い存在であるかを知るなら、あるいは知らされるなら、なかなか祈れない、あるいは祈らなければならないという思いから自由になれるはずです。
また私たちは、自分にとって、都合の良くないことであっても受け入れていく度量ではなく、信仰が求められるのです。もちろんそれは容易なことではありません。
今現につらい経験をしておられる方や、あるいは厳しい現実の中にある方もおられるかも知れません。
なかなか自分が希望する方向に事が進まないこともあります。しかし、神様はそのすべてをご存知であります。もちろん、私たちの心の状態をも知っておられるのです。
そのようなお方に祈る私たちにとって必要なこととは、神様から自分にとって良い結果を期待する信仰ではなく、どのような祈りの答えであったとしても、あくまでも神様に信頼し続けることではないでしょうか。
最近、私は祈りについてひとつのことを学ばされました。それは、いつも娘の仕事のことが気がかりで、一日中同じことを繰り返して祈っていたのです。
ある時に、ふと思ったことは、もし神様に全幅の信頼をおいて祈っているなら、それほどたびたび祈る必要があるのかということに気づかされたのです。聖書が教えている絶えず祈る(第一テサロニケ5章17節)ことと、同じことを繰り返して祈ることとは全く違うということを示されたのです。マタイ6章7節でイエス様が言われたのです。『また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。』
まさにイエス様の祈りは、神様に全く信頼した祈りでした。苦き杯を受け入れてくださったゆえに、今私たちは神様の救いに預かれたのです。そして45,46節のイエス様の勇気ある行動こそ、苦闘の祈りに勝利された証しであります。
この主イエス様こそ神の栄光を受けるにふさわしいお方であります。
この方に神様の栄光がありますように!