『イエスを見捨てた弟子たち」−自分の弱さを知る−

「イエスを見捨てた弟子たち」           マタイ26章47−56節12.3/18 
 かつて私が薬品会社に勤めていた時のことです。職場の上司が私に「人に影を落とすような人生を歩んだらあかんで」と言われたことを今でも私の心に深く刻み込まれています。
そのように言われた背景には、この上司は、かつて会社に労働組合を作るために、仲間と一緒に頑張っておられたのですが、いざ結成という時に、一部の人に密告されてしまって組合が結成できなくなったのです。そしてリーダー的に組合作りをしていた人たちは退社を余儀なくされました。
ところが、その上司は会社にとどまることになりました。有能な方でしたが、その方が退職される時の肩書きは、課長代理待遇補佐でした。今日的には窓際族でした。つまり左遷されていたのです。 その職場に私もいたのですから、私も(その時は腰を壊していしました)左遷されていたようなものかも知れません。 
ところで密告した人たちは、会社の上司になっていたのです。ですから、その上司たちは、まともにその方の顔を見ることが出来なかったのです。そういう背景の中で、私に言われたことばが「人に影を落とす人生を歩むな」という言葉ではないかと思っています。
そういうこともあって、やがて新たに違う世代の人たちによって労働組合を作り始めた頃に、私も喜んで賛同したのです。
そのような経緯があって、職場の上司に対しては、悪い印象しか持つことが出来ず、立身出世という思いは全く私の心にはなかったのです。人を裏切ってまで出世しようとするような人間にはなりたくないと思ったからです。
でも、当時はまだまだ若くて(20,21歳)、狭い心でしか物事を見ることが出来なかったために、密告した職場の上司たちに対して、そのような思いしか持つことができませんでした。
やがてその上司が退職後、事業を起こすから一緒に仕事をしょうと言って下さっていたので、必要があってその人と一緒に中国語を3年間ほど学んだのです。
ところが、いざ会社を辞めてその方と一緒に仕事をするという時になって、私は教会に行く決心をしていたために、日曜日がとれない仕事はできないと思い込み、一緒に仕事をすることを断りました。そして、その方にキリスト教の読み物を手渡して、それ限りでおつきあいがなくなりました。
その後、私はその方に対して、信仰のゆえにとはいえ、裏切ってしまったのではないかと考えるようになり、申し訳ないことをしたと後々思い続けました。
後になって気づかされる『親の心、子知らず』であります。けさの箇所もまた『主の心、弟子知らず』です。
主の弟子であったユダは、イエスを銀貨30枚で売ろうとしていたのです。そして、他の弟子たちも、イエス様が捉えられた時には、恐ろしくなって、イエス様を見捨てて、我先に逃げて行くという有様でした。
また、イエス様が天のお父様に祈っておられた時も、弟子たちは眠りこけていたのです。だれひとり、これからイエスさまの身に起ころうとしている十字架刑という恐ろしい苦難の道を知ることがなかったのです。  
そのような中で、すべてをご存知であったイエス様の心境はどのようなものだったのでしょうか。
26章38節で、イエス様は二人の弟子に向かって、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』と言われたのです。
主は、私たちの罪の身代わりだけでなく、人としての苦しみをも身に負われたのです。
私たちも孤独なとき、つらいとき、深い悲しみがあるとき、また苦しいときは、だれかにその気持ちを少しでも知って欲しいのではないでしょうか。あるいは分かって欲しいものではないでしょうか。 
一人で背負うにはあまりにも荷が重すぎることもあるのです。もしだれかに聞いてもらうと、少しでも気持ちが楽になるものです。
かつて私が精神的につらく、苦しかった時には、妻にぶっつけていました.妻はよく聞いてくれました。実はそれが私にとって心のいやしでもありました。
本来は神様につぶやき、文句を言い、不満をぶつけてもいいのですが、それをしてもなかなか返事が返って来ないように当時は思えたのです。もちろん神様はちゃんと、私の心を知ってくださり、受け止めてくださっていたというのは言うまでもないことです。
それでも人はひとりでは生きて行くことが出来ないのです。互いに支え合う中で、人は生きて行くことが出来るように、神様が造ってくださっているのです。
にもかかわらず『主の心、弟子知らず』、主はまさに孤独で、孤立されたなかで、直面されていた十字架刑という苦難の道を自ら選び取られたのです。しかも裏切りのユダに対して「友よ」と声をかけておられるのです。
それに対してユダは、「先生、お元気ですか」と裏切りを承知で建前だけの挨拶をしているのです。イエス様を裏切ったユダの名は今日も多くの人々に知られているのです。
銀貨30枚というお金に心を奪われてイエス様を売ってしまったユダは、その直後にひどく後悔をして首を吊って自ら命を絶ったのです。
さて私たちは、このユダにまではならないとしても、ほかの弟子たちがイエス様を見捨てて逃げて行ったように、場合によっては人を裏切ってしまうという可能性はあるのではないでしょうか。もちろん、自分は大丈夫と思いたいものです。
しかし弟子たちは、イエス様を見捨てる直前までは、私は大丈夫ですとイエス様の前で豪語し、自信満々だったのです。しかしそれは過信でした。弟子たちは、あまりにも自分の弱さを知らな過ぎたのです。
キリシタン大名高山右近の友人たちは、右近の信仰を見て、また聞いて信仰を持ち受洗したのですが、やがて、信仰弾圧が襲って来た時に、友人たちは棄教したのです。それでも右近は人を恨まず、信仰を守り通した結果、武士を捨て、日本各地に身を寄せるも、とうとう国外追放されてマニラに行ったのです。
そこでも信仰を守り通して、イタリヤにある壁画の聖人の一人としてのモチーフがあるのです。彼のどのようなときでも隣人を愛するという信仰の実践が褒め讃えられたのです。
私がここで言いたいことは、右近のような信仰者になりなさいという勧めではなく、当時の権威者による信仰の弾圧において多くの人たちが信仰を捨てたという悲しい事実に心を向けたいのです。
もし信仰を捨てなければ、非常に苦しい立場におかれた時に、どうするのかを問われるのが私たちの信仰でもあるのです。
なかには信仰を捨てたものの、その後良心の非常な苦しみのゆえに、信仰に立ち返ったという記録もあります。それでも、弾圧時代にはクリスチャンがその信仰が試された(振るわれた)のは事実であります。
とはいえ、今このような話をしても、その時にならないと分からないというのが本音ではないでしょうか。
私もそのひとりではないかと思うのです。少なくとも、会社の先輩から教えられたように、「影を落とす人生」にならないように常々思っておるのですが、やはり神様に強められないと弱い者であります。
ところが、クリスチャンの迫害下において、大人だけでなく、子供もその中にいたことも驚きです。神様が彼らを強め、勇気を与え、試練を乗り越えさせてくださったとしか考えられないのです。
平和な今日だからこそ、自らの信仰をしっかりと堅持し、信仰のすばらしさをしっかりと心に留め、いつも心に確信を持って信仰生活に勤しみたいものです。
実は、私も、弟子たちがイエス様を見捨てて逃げて行ったというような苦い経験をしているのです。
ある夜、無免許で3人乗りをしていたところを警察に見つかり、追いつめられて運転していた者と、単車の持ち主が警察に連れて行かれ、後ろに乗っていた私は恐くなって逃げてしまったのです。
その後、私たち3人はどうなったかは言うまでもありません。二人は警察にも、親にもしっかりと叱られたのです。私はそのような事態から逃れていました。
しかしその後、そのことがいつも私の心に残っていたのです。
私の上司の『人に影を落とす人生は歩むな』もしかり、何よりも信仰を持ってのち、いつもその事が気になっていたのです。そしてある時に、その二人の友人に、「あのとき俺だけ逃げてしまって申し訳なかった」と謝りました。その結果、私の心はスッキリしたのです。いや心に平安が与えらたのです。
さて、私たちはいざという時にどう行動するかが分からないというのが、友達を裏切った私の苦い経験からの教訓ではないかと思うのです。
ユダのような貪欲、あるいは高慢は神様を退けます。また弟子たちのような過信は自己認識不足に陥ります。そして恐れすぎは神様への不信となります。
ですから、まず自分の真の姿をこの聖書から正しく知ることは非常に大切なことなのです。
パウロは『私は弱い時にこそ、私は強いからです。』と言いました(第二コリント12章10節)。
パウロのように、自分の弱さを正しく認識することによって、神様から力を受け、より強めていただく絶好の機会となるのではないでしょうか。