「ペテロの否認」−弱さから神の愛を知るー 3月25日(日)礼拝メッセージ

  『ペテロの否認』−弱さから神の愛を知る−

            マタイ26章57−75節 12.3.25

「十人十色」という四字熟語があります。十人いれば十人の考え方や好みがあるという意味です。十人よれば十人の違う性格があるのです。
さて、イエス様の弟子たちも12人いたのですから、それぞれに個性があり、性格もそれぞれ違っていたことでしょう。
けさは特にペテロ(69−75節)にスポットを当ててみたいと思います。
ペテロ(岩)の本来の名前はシモン(シモンはギリシャ名、シメオンはヘブル名 で聞くという意味があります)であります。時にはケパ(岩)とも呼ばれていました。彼は結婚していて、弟子の中では一番年上であったと言われています。ペテロは、ベッサイダからカペナウムに移り住み、そのペテロの家を拠点にして、イエス様は伝道活動をされていたようであります。
さて次は、ペテロの性格についてでありますが、しばしば性質と性格とを混同さていることがあります。性質とは、短気であるとか気長であるとか、怒りっぽい、冒険心があるとかといった生まれつきの気質(ネイチャー)であり、性格とは、その気質に育った環境や経験や考え方などの影響を受けることよって生じる行動パターンを性格(パーソナリティ)とされています。
ですから、生まれつき持っている性質が、うまく働けば(機能)良い性格が形成され、悪く働けば(機能)悪い性格が形成されることになるのです。
例えば短気な性格の人が、良いことのためにすぐに行動するなら、行動力のある人であり、気長な性格の人が、良いことのためになかなか行動に移さないなら、実行力のない人となりうるのです。
たしかに、生まれつきの性質が、その後の性格形成において良きにつけ悪きにつけ影響を受けることは事実でありますが、良い環境、良い教育、良い考え方などを受けることによって、良き性格が形成されて行くことも事実であります。
つまり、性質は生まれつきのもので、変えることは出来ないとしても、性格は周りの人や、本人次第で変革のチャンスはあるのです。 
ソクラテスは、汝自身を知れ(ターレスの格言)を、自分自身をよく知ることが、正しい知識を得る基本であると考えたようであります。
ですから、自分の性質を良く知り、その性質が良いことのために機能するなら、良い性格が形成されて行くということなのです。
言うまでもなく、幼少期には親(大人)がその助け(しつけ)をしてあげなければならないのです。
さて、ペテロの性格についての話に戻しますが、ペテロの性格について、様々な見方があるのですが、しかしそれらは性質と性格とを混同されていることが多いようです。
ペテロの性質は男性的(勇敢)で、行動的(指導的)で、少々感傷的で、衝動的なところがあると言えるでしょうか。どちらかと言えば漁師になるに適した性質を持ち合わせた人物と言えるのです。
ところで、だれにでも弱点(ウイークポイント)はあるものです。ではペテロの弱点は何でしょうか。それは、彼は自分についてよく知らなかったということです。つまり自己分析の欠如であります。
実はそれがけさの聖書箇所によく現れているのです。
ということで、けさはペテロの否認という大きな失敗から、私たちにとっても大切なことを学びましょう。
まず第一は、ペテロの勇気(51節)であります。
これは彼の生まれつき持っていた性質かと思われます。しかしその勇気は、間違って機能したのです(ヨハネ18章10節)。  
彼の勇敢さが、無意味な、無価値な暴力行為となってしまったのです。
それゆえにイエス様はペテロを諭されたのです(52節)。イエス様が捕らえられようとしたために、ペテロは衝動的にマルコスの耳を切り落としてしまったのです。
幸いイエス様はマルコスの耳を元に直されたために、ペテロは復讐を恐れる必要はなくなりました。
主のおことばである「剣をとる者はみな剣で滅びます。」とは非暴力の教えです。やられたらやり返す。この繰り返しこそが世界中で戦争が止まない大きな原因となっているのではないでしょうか。
旧約聖書の教えのように、同体復讐(目には目、歯には歯を)に留まれば、戦争は拡大しないのです。もしイエス様がマルコスの耳をいやされなかったなら、他の弟子たちにも危害が加えられたことでしょう。 
エス様は弟子たちの身の安全のために、兵士たちに、弟子たちをここから去らせるようにと指示されていたのです(ヨハネ18章8節)。
なぜなら、弟子たちは将来神様のために大きな働きをする器であったからです。『「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりも失いませんでした。」とイエスが言われたことばが実現されるためであった。』(ヨハネ18章9節)
ペテロの勇敢(勇気)という良い性質が悪い状況の中で正しく機能しなかったことは残念なことです。
先ほどペテロの弱点とは、自己分析の欠如にあると言いました。自分をよく知らないことによって生じる弊害とは、プライドを正しく持つことを妨げることです。
恐らく彼のプライド(リーダーとして・年輩者)が、場違いの勇気を出させてしまったのではないかと思われるのです。
自分はリーダーであり年輩者であるゆえにプライドを持つことは間違ってはいないのです。しかし、それがペテロにとっては大きなプレッシャーとなって、プライドが傷つくことを恐れた結果、衝動的な行動を取ってしまったのではないでしょうか。
では、ペテロが正しくプライドを持つとはどういうことでしょうか。それはいかなる時であっても真実な自分を見失わないリーダであり年輩者であることを誇りにすることではないでしょうか。
「汝自身を知れ」もっと言うなら「汝自身を正しく知れ」これは、ペテロだけでなく私たちにとっても大切な教訓です。
第2は、ペテロの優しさ(58節)です。
 愛するイエス様が捕らえられたために、ペテロはひどく動揺して心が騒ぐ中にあって、彼に出来る精一杯のこととは、少しでもイエス様のそばにいて、その安否を気遣うことではないでしょうか。その行動はペテロの優しさから来たものでしょう。
しかし、リーダーという立場と年輩者という責任感から、そのような行動をとったとも考えられるのです。大祭司カヤパの庭の中に入って行くという大胆さ、悪く言えば無謀さ、それでもイエス様のことが気になるのは、イエス様を愛していたからです。
しかし、人情的な優しさや、感傷的な愛にはもろさが潜んでいるのです。ペテロの優しさは、決して悪いものではありません。身に着けるべき大切な品性だと思います。しかし、その優しさや愛は常に試されるのです。
人の優しさや愛の背景には、自己愛から来るものと他者愛から来るものとがあるのです。
自己愛から来る優しさには限界があります。そしてペテロの優しさが、自己愛から来ているものであるということにペテロ自身が気づくのは時間の問題であったのです。
ペテロが本当の優しさと愛が求められる肝心なときに、自己愛が優先してしまったのです。 
それはまさに罪ある私たち人間の真実な姿ではないでしょうか。
『先生。まさか私のことではないでしょう。』(マタイ26章22節)そのまさかであったのがペテロでした。
たしかに、ペテロはキリストを否認して、深く悲しみましたが、やがてキリストの優しさに心をいやされて救われたのです。
ペテロが3度イエス様を知らないと否んだ直後に、『主が振り向いてペテロを見つめられた。』(ルカ22章61節)のです。 
これはイエス様の非難の目ではなく、悲しい目をされたのでもなく、もちろん恨みを抱いた目ではなく、愛による、慈しみによる、あわれみによる目でペテロを見つめられたはずです。見捨てられ、裏切られてもなおペテロや弟子たちを憐れみ愛されたイエス様に真実の愛を見るのです。
キリストの十字架による確かな愛を体験した者の優しさと愛は、自己愛にとどまらず他者愛にまで及んでいるのかどうかが問われるのです。

 最後は、ペテロの弱さ(75節)についてです。
このペテロの弱さは潜在的な弱さであります。それは人間が本来持っている本能的な弱さと言えるでしょう。
パウロはローマ書6章19節で「あなたがたにある肉の弱さのために...」と言っています。ペテロはイエス様を愛していたことは間違いないのです。しかし否認したのです。それは彼の肉の弱さから来るものです。
しかしキリストはそのような肉の弱さのため、十字架にかかられたと聖書は語っているのです。『肉によって無力になったために、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉(十字架による身代わり)において罪を処罰されたのです。』(ローマ書8章3節)
ペテロの否認が肉の弱さから来るものであり、そして、それは罪の力に依拠するものなのです。そのようなペテロの内的な罪から来る弱さから救うのが十字架の力です。
ペテロだけでなく、そのような罪を持つすべての人を救うためにキリストは十字架で血を流されたのです。強がって生きるよりも、自分の弱さを知り、それを認めることによってキリストの愛を体験する大きなチャンスとなるのです。
『私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう』(第二コリント12章9節)
他でもない、弱さゆえにイエスを裏切ったペテロこそが、だれよりも早くイエス様の十字架による真実な愛を体験したのではないでしょうか。