『世の誘惑からの対処法』 2012年4月1日(日)

   『世の誘惑からの対処法』
   マタイ27章1−10節 2012.4/1


 聖歌の433番の「弟子となしたまえ」というタイトルですが、その4節の歌詞は、「ユダにはなるまじ わが主よ わが主よ ユダにはなるまじ わが主よ 心のそこより ユダにはなるまじ わが主よ」という賛美であります。
この歌詞において、私は絶対ユダにはなりませんという自信を持った気持ちを表現しているのではなく、もしかしたら私もユダのように誘惑に陥ってしまって、イエス様を売ってしまうのではないかという心の弱さを歌い、そしてそうならないように主よお守りくださいという願いを込めた賛美のように思われるのです。
ペテロもまた、自信満々にあなたを知らないとは決して言いませんとイエス様の前で固く誓いましたが、もろくも崩れてしまいました。
私自身もかつて追いつめられた危急の時に自分の弱さを思い知らされる経験もしました。とはいえ、私はユダの取った行動に同情する気持ちは毛頭ありません。しかし、自分もユダと同じ環境や状況に置かれるとするなら、もしやしてユダのようになっていたかも知れないと心探られるのです。
このように、だれでも誘惑に対する弱さを持っているのではないでしょうか。
けさは、誘惑に対していかに対処すれば良いのかということについて学びたいと思います。
 まず第1に知るべきこととは誘惑は誰の身にも襲うものであるということです。
 新約聖書の中に出てくる試練(第2コリント8章2節を除く)ということばには二つの意味があります。一つは試練そのものの意味と、もう一つは誘惑という意味があります。
たしかに神様は目的を持って、人に試練を与えられることがあります。しかし、神様は決して人を誘惑されるお方ではないのです。
ヤコブ書1章13節、14節を見ますと、『だれでも誘惑にあったとき、神によって誘惑されたと言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。』
そして、その前の12節の冒頭で試練に耐える人は幸いです。とか書かれているところの試練と、13、14節の誘惑とは同じ言語が使われているのです。
つまり、試練と誘惑とは紙一重であると言うことができるのです。神様はその人の益のために試練を与えられるのですが、誘惑者であるサタンや悪霊たちは、その人をおとしいれる目的のために誘惑を仕掛けて来るのです。さらにその人自身も欲に引かれて誘惑されてしまうのです。
さて、皆さんも経験されておられることと思いますが、この世において様々な誘惑があります。大きな誘惑もあれば、それほど自分の身にダメージを与えない小さな誘惑もあると思います。
身近かなものとしては、あまり食べ過ぎてはいけないと思っていても、つい食べ過ぎてしまってしんどい目に遭うこともよくあることです。あるいは、夜更かしをしては体に良くないと思っていても、つい夜更かしをしてしまうこともあるでしょう。
私たちは毎日の生活の中で大小にかかわらず様々な誘惑の種が満ちているのです。   ところが小さな誘惑の種なら、その人の人生そのものを狂わせるところまでは至らないのですが、しかし、大きな誘惑にさらされ、その誘惑に陥ってしまって、その人の人生が台無しになる、あるいは大きなダメージを受けるということがあるのです。
それゆえに、誘惑に対してどのように対処すべきかは非常に大切なことであります。
10年以上前になりますが、私とI先生とで上海に行ったときのことです。ワイタンという観光名所があります。そこは、海岸沿いで、対岸にはたくさんの高層ビルがそびえ立ち、特に夜景は絶景であります。いわゆる上海ナンバーワンの観光スポットです。
ある日の夜にそこに行ったときのことです。たくさんの人がいる中で、若い女性が私のところに近づいて来て話しかけるのです。私は片言の中国語ですが、何かと思って少し話をしたのですが、その女性が私に話しかけた目的はよく分かりませんでした。
同じくして、I先生も他の場所で若い女性に声をかけられたようです。恐らく、彼女たちは単なるボーイハントではないはずです。このように、この世の誘惑の種はどこにでもあるのです。
さて、クリスチャンがこの世における様々な誘惑に対して、一番の対処方法とは何でしょうか。それは生ける神様が見ておられるという事実をしっかりと心に留めることではないでしょうか。
『神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。』(ヨブ記28章24節)『隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたを報いてくださいますように。』(マタイ6章6節)
神様は、どこにあっても見ておられるという心によって、どれだけこの世の誘惑から守られて来たのかは、はかり知れないこと思うのです。
小さい時によく親から、神様はちゃんと見ておられるよと教えられたものです。それは間違った教育ではなく、正しい教えなのです。
もちろんどのような神様であるかは重要なことですが、一人で誘惑に立ち向かうときは特に要注意であります。いつも見ておられる神様を恐れ、自分の力ではなく、神様の力に守られ、神様の助けを仰いで行きましょう。
 第2は、罪を犯して、初めてその罪の重大さに気づくということを知るべきです。
まさにユダがそうでした。恐らくユダは、祭司長や長老たちがイエス様を懲らしめるだけで満足すると高をくくっていたのです。  ましてイエス様が罪に定められて、死刑にななるとはよもや思ってはいなかったのです。  そうです、彼は罪を犯してはじめて、その罪の重大さに気づいて自殺したのです。
たとえば、いじめは重い気持ちではなく、軽い気持ちでしてしまうのです。ところがいじめを受けた側は、非常につらいもので、また悲しいものであります。そして、いじめが繰り返されると、その人は非常に重い気持ちとなり、場合によっては自殺へと追い込みます。そのことによっていじめた側は、一生涯いじめた子の死の責任を背負って行くことになるのです。
いじめは悪口であり、陰口であり、不当なさばきであり、陰湿な行為です。聖書はそれらを罪であると教えているのです。軽い気持ちでのいじめが、やがて重大な罪の結果をもたらすことに気づかされるのです。
ダビデは人妻のバテシェバを不当な手段で自分の妻としました。しかし、神様から遣わされた預言者ナタンによって、ダビデの罪は白日の下にさらされたのです。
そして、ダビデは自分の犯した罪によって苦しみ、悩み続けました。しかもその罪の結果は彼の子孫にまで及び、その刈り取りをしなければならなかったという事実に目を留めるべきです。
何よりも、アダムとエバがそうであったように、罪を犯してしまった結果その重大さに気づいたのです。
第二のこの世の誘惑からの対処法とは、私たちはこの聖書から罪の恐ろしさを知り、それを教訓としなければならならないのです。
『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(ローマ書6章23節)
第二にこの世の誘惑から守られる対処法とは、罪の結果もたらすものとは何かを、この聖書からしっかりと学ぶことです。
第三は、罪による後悔ではなく、罪の悔い改めです。
ユダはイエス様が死刑に定められた時に、大変なことをしてしまったとひどく後悔したのです。しかも自ら命を絶ちました。しかしそれは神様の御心ではなかったはずです。 神様の御心とは、ユダが後悔で終わってしまうのではなく、悔い改めることではなかったでしょうか。
罪を犯してどれだけ多くの人は後悔していることでしょうか。しかし、後悔はその人の人生を前に向かわせないのです。いつも後ろ向きであり、後ろを振り返る後悔の人生なのです。
しかも悲しみや悩みといった罪責感からいつまでも解放されないのです。
しかし、まことの神様への悔い改めの人生には、確かな赦しがあり、涙や悲しみがあっても心の癒しと解放があるのです。
たとえ世の法律によるさばき(極刑を含む)を免れないとしても、神への悔い改めには、罪の完全な赦しと、神の子供とされ、永遠のいのちを受け、死後天国に引き上げられるという約束があるのです。実に幸いなことではないでしょうか。
そのことのために、この世においで下さったのがイエス・キリストであります。
エス様が私たちの罪を背負って十字架で死なれたのも、私たちの罪を赦すためなのです。
エス様が十字架につけられた時に、その隣に十字架につけられていた極悪人が、罪を悔い改めたとき、イエス様からすばらしい約束を頂いたのです。『まことに、まことに、あなたに告げます。きょうあなたはわたしとともにパラダイスにいます。』(ルカ23章43節)
第三の罪の誘惑からの対処法として、私の罪のためにイエス様は十字架で苦しみ、死んでくださったことを深く覚え、いつでも悔い改める素直な心を持つことではないでしょうか。
今から38年前、私がクリスチャンになる前のことです。ある日に、私は飲酒運転で、しかも定員オーバー。そして信号無視等。当然逮捕されるものであり、もしそれで重大な人身事故を犯していたなら、今の私はなかったことでしょう。
しかし、神様はそのような者をも憐れんでくださり、悔い改めによって、私の数々の罪は赦され、私の人生は軌道修正され、心に平安を頂いて生かされているのです。
この神こそ、私たちの避け所です。「幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」(詩篇2篇12節)