『遅延の理由』 コリント第二の手紙 1章23−2章4節 2012年6月24日(日)

『遅延の理由』2012.6/24  第2コリント1章23―2章4節  


パウロは第二次伝道旅行において、コリント(今日のギリシャコリントス県都アテネから70キロ)におよそ一年半滞在し、伝道した結果、有力かつ有望なコリント教会が生まれました。
その後、パウロは三年間ほどコリント周辺の地で伝道していたのですが、その間にコリント教会内において色々な問題(ユダヤ教主義による人々によって教会を撹乱させられた)を抱えるようになり、そのことを心配して書き送られたのが第1コリントの手紙であります。
問題解決のためにテモテをコリントの教会に遣わすが好転せず、パウロはエペソから急遽コリントを訪問するのですが、パウロに対する反対勢力が強く、コリントを去ることを余儀なくされたのです。
その後パウロはテトスをコリントの教会に遣わしました。第1と、もうひとつの手紙を通して教会の人々が自分たちの非を知り、パウロの真意を理解されたという良い報告を、テトスから聞き、パウロは非常に喜ぶのですが、パウロの3度目の訪問が遅れたために、教会内にはなお少数ながら反対勢力があり、パウロを非難する人々がいたのです。
そのよう中で教会の人々に会う前に、パウロの思いを手紙にして書き送られたのが第2の手紙であります。
特に1章23―2章4節は、コリントの教会訪問の遅延の具体的な理由とパウロの真意を伝えている箇所であります。
けさは遅延の理由とパウロの真意について学びましょう。
Ⅰ.積極的な理由(23節)
それはパウロの思いやりでした。コリントの教会に問題が生じたときに、パウロは教会を訪問したのですが、事態は改善されず、二度目の訪問した時も、反対勢力の人々が悔い改めなかったために、パウロの悲しみは増す中で、訪問を遅らせて手紙を書く結果となったのです。
手紙というのは、場合によっては非常に有益なものであります。それは冷静になって、言いたいことを相手に伝えることができるのです。しかも手紙を受け取る相手においては、考えさせる時間を与えるという効果があるのです。
最近は親子や友達の間にてメールのやり取りが盛んであります。うまく利用すれば非常に便利なツールだと思います。しかし用い方を間違えれば、誤解が生じたり、相手に真意が伝わらないというマイナス点もあります。
ところが、お互いに何かまずいことがあった時に、なかなか直接相手に謝れない時にメールでごめんなさいと謝るケースがあるようです。
異論もあるかもしれませんが、たとえメールであっても素直に謝れるというのは良いことではないかと思います。
恐らくパウロはもっと激しい口調で手紙を書くところだったと思われるのですが、そこは冷静になって自分の気持ちをしっかりと伝えることができたはずです。
さて、訪問が遅れたために教会の中でパウロはあれこれと非難されたのですが、遅延の理由が教会の人々に対する思いやり(口語訳—寛大でありたいために)のためであったと弁明したのです。
私たちは、自分が非難されたり、批判されたり、反対されたりされると心穏やかにはなれません。ましてそれが誤解ならば、なおいっそうその誤解を解くために躍起となるのではないでしょうか。それが普通であり一般的な対応ではないでしょうか。
しかしパウロは叱責の手紙であるにも関わらず思いやりという優しさがありました。自分を不利な立場に追い込んだ相手に対して配慮することは容易なことではありません。そこにはそれらの人々に対する深い愛がなければできないのです。
それは24節で読み取ることができるのです。今悲しみにある教会が喜びの教会となることを願うパウロの心にその思いやりを見出すことができるのです。
罪人の集まりが教会だと言っても過言ではないはずです。ですから問題が起こるのです。大切なことはその起こった問題に対していかに対応するかがポイントなのです。
利己的であっては真の解決は得られないでしょう。他人事のような対応では、相手に真意は伝わりません。また問題に対して逃げ腰では問題の解決は難しいでしょう。早急かつその場しのぎの解決では、また同じ問題が起こりかねません。神様に祈りつつ、最善の解決法を模索していく努力が必要なのです。
たとえ相手が一方的に悪いとしても、その叱責(手紙であれ、メールであれ、直接であれ)が愛からのものであるなら、いつしかその人の真意は伝わるはずです。事実パウロの第2の手紙によって良い結果を得たのです。
Ⅱ.消極的な理由(1―3節)。
それはコリント教会の人々を悲しませたくないことと、パウロ自身も悲しみたくないためであります。
2回目のコリント教会の訪問が悲しみの訪問となったようです。それは、パウロが直接問題の解決のために教会を訪問したにも関わらず事態が変わらなかったためです。
このパウロの悲しみとはどのようなものであるか7章9、10節で知ることができるのです。それは神様の前において悔い改めない人々に対する悲しみであります。その悲しみは悔いの残るものであり、希望のない、慰めのない、喜びのない悲しみであります。  
しかしその悲しみが悔い改めとなるなら、私の悲しみは喜びになると語っているのです。訪問が遅延したことによって、問題のある人々に悔い改めの機会を与えたのです。
もちろんそのためにはパウロの熱心な祈りがあったはずです。問題解決のために祈ることや忍耐して解決の時を待ち望むことは大切です。
問題の渦中では悲しみが心を覆います。しかし神様を介して(神様とともに)その問題に取り組むなら、神様は私たちを用いて、その問題解決のための最善のことをしてくださり、悲しみから喜びへと、また憤りから感謝へと導いてくださると信じて行きましょう。
問題解決のために祈り待ち望みつつ行動(パウロは手紙を書いて)する事は大切なことです。
Ⅲ.最大の理由(4節)それは最大の動機とは何かということであります。
『それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。』
パウロがコリント教会のために涙し、悲しみ、悩み、苦しんだ最大の理由は、それはパウロがコリントの教会の人々を心から愛していたからです。
愛は人々に感動を与えます。しかし、それは壊れやすく、不安定なものでもあるのです。たとえば、大恋愛をして結婚したカップルが、やがてお互いにののしり合ったり、憎しみ合うというのはよくあることです。最悪は一方を殺害するという悲惨な事件もあるのです。
愛は素晴らしいものでもあり、また怖いものでもあるのです。しかし、パウロの愛は限定的なものではなく、あるいはすぐにさめてしまうものではなく、普遍的で、不変で、犠牲的な愛ではないでしょうか。まさにアガペの愛(神の愛)なのです。
我が身を顧みず、ただ他者のために、たとえ相手が悪いとしても、その人たちのために愛を示すことがアガペーの愛であります。
まさに十字架の上で苦しみながらも、人々をののしることなく、恨むことなく、赦され、祈られたイエス・キリストの愛を体験したのが使徒パウロなのです。
その愛によって、祈りつつ書かれた第二の手紙は、コリント教会の人々の心を動かし、教会内の問題の解決への糸口となって行ったのです。