『戒規執行の目的』−さばきから愛へー 2012年6月24日(日)


「戒規執行の目的」−さばきから愛へ− 
       
 第2コリント2章5—11節 2012年7月1日(日)


 はじめに5−11節の背景について少し触れておきます。それは、コリントの教会の中で罪を犯した人がいたのです。ただし罪を犯した人がだれであるかは言及されていないのです。またどのような罪を犯したのかも明記されていません(第一コリントには不品行について言及 注釈5章1節〜)。
とにかくコリント教会において様々な問題があったということは確かであります。
さて、教会の真価が問われるのはどのようなときでしょうか。それは、何の問題もなく、平穏無事に教会が運営されている時よりも、むしろ教会内において問題があって、試練に直面している時こそ、その教会の真価が問われるときではないでしょうか。
以前のことですが、あるご年輩の信者さんが教会に来られました。しばらくその方と交わりをしました。ところがその方から耳にしたことは、自分が属している教会あるいは教団の運営についての不満や、納得できないことを私に語られたのです。とにかく一通りその方の話を聞きました。その方は教会では重要な立場にある方であるゆえに、その教会も大変ではないかと思いました。
ところで、完全な教団や完全な教会ってあるでしょうか。いかなるこの世の組織であれ、人の集まる所において、何の問題もなく整然と運営されているということがあるでしょうか。
恐らく様々な問題を抱えながら運営されているというのが現実ではないでしょうか。
そのような中で、大切なことがあります。それは問題が生じたことが問題なのではなく、起こった問題といかに取り組むことができるのか、そして問題解決能力の有無にあります。

さて、パウロはコリントの教会の問題を憂いて、その解決のために手紙を書いたのです。
けさは教会内の問題に対する適切な対応についてパウロの手紙から学びましょう。

まず第1にパウロは戒規(教会の規則のようなもの)に従いました(6節)。
その理由はその懲罰が人によって不公平にならないためです。この社会においては、社会的地位や身分の高い人、あるいはそのような人たちの身内ということで、懲罰を逃れたり、あるいは軽減されたりすることがしばしばあるのではないでしょうか。
私が小さい時に、ええそんなことあるのといった話を祖母から聞きました。それは某大会社の社長の息子さんは戦争には行かなかったということです。確かにこの世においては不条理と思える不公平はあるのです。 
しかし主の教会はそのようなことがあってはいけないのです。神様にはえこひいきはないのです(ローマ書2章11節)。
またヤコブ手紙2章1、9節にも人をえこひいきすることを戒められています。
教会においては、神のみことばを通して人は公平にさばかれるべきです。実に人間のフイルターというのはあやしいものです。私たちのフイルターには、偏見、誤解、間違いといったものが往々にしてあるのです。
それは完全な人間はいないからです。不完全な人間が完全なさばきや、完璧な懲罰をすることは非常に難しいことであります。それゆえに、冤罪事件が後を絶えないのです。
しかし教会には聖書に基づいて決められた戒規があるのです。戒規のない教会は、他の教会の戒規を参考にしたり、あるいは聖書の教えに基づいて懲罰が執行されるのです。
しかし、教会の戒規を執行する目的は、主観や偏見、あるいは間違った判断から守られて、その懲罰が不公平なものにならないためなのです。

次に戒規を執行する第2の目的とは、それは、人を罰することを目的とするのではなく、戒規を通してその人が悔い改めて立ち直るのを助けるためであります(7節)。
この世において罪(犯罪)を犯した場合は、その国の法律に従って懲罰が執行されます。
それらの目的も、やはり人を罰することを第一の目的としないという考え方であります。
犯罪者に対する懲罰には、罪を犯した者が再び同じ罪を繰り返さないようにという目的があるのです。しかし残念なことに、一度罪を犯して刑を受けた人が社会に復帰することがどれだけ大変なことでしょうか。一度犯罪に手を染めた人がもう一度人生をやり直すことは決して容易なことではないのです。
しかし教会はそうであってはいけないとパウロは教えているのです。
この世において犯罪者とされたために社会復帰が難しくなるのと同じように、教会も懲罰によって、その人の悔い改めや、立ち直ること(交わりの回復)を困難なものとしてはいけないのです(参照 7節)。
むしろその人が悔い改めて、立ち返るために、つまり回復のために祈り、援助すべきなのです。 それこそがなぜ懲罰を執行するかの目的であり、理由でもあるのです。
戒規を執行するというのは(=罪なきキリストが私たちの代わりに刑罰を受けられた)、人を赦すことが難しい私たちの意思や感情を超えて、私たちが罪を犯した人を赦すという段階にまで進むためなのです(参照 10節)。

最後に戒規を執行する目的は、懲罰を行なうことによって、当事者のみならず、お互いに神様の愛を学ぶためであります(8節)。
ある注解者は『愛から出ていない戒規は、正しい戒規とは言えない。愛は律法を全うするものだからです。』と言っています。ですから戒規を作る時は、非常に慎重でなければいけないのです。
なぜなら教会において戒規を作る目的について繰り返しますが、その人を罪に定め、さばき、人々から 隔離することを目的とはせず、むしろその人を赦し、立ち直らせ、交わりの回復のチャンスを与えるためであります。
それらの背景にあるのは、神様は愛のお方だからです。
しかし、神様は愛であるからと言って罪が軽くなるわけではありません。あるいは見逃してくださるわけではありません。
私の経験ですが、これぐらいの違反なら堪忍して欲しい時に、きっちりと違反切符を切られた時は、ほんまにこの警官は融通の効かん人やなと思ったのです。このように、私たちは常に自分中心で物事を捉えがちであります。
しかし、神様の前にある罪には私情の入る余地はないのです。神様の前から罪を逃れることはだれひとりできないのです。
ですから、もし罪を犯したときは、その罪に対して悲しみ、心から悔い改めることが大切なのです。なぜなら、悔い改めた人こそ神様の赦しと愛を体験するからです。
かつて、ひとりの姉妹が未信者との結婚となりました。当時はノンクリスチャンと結婚した場合は、ごく一部ですが、ある教会では除名処分となりました。私たちの教会では除名はなく、ノンクリスチャンとの結婚の場合は、他の青年信者たちのあかしに良くないということで、教会の交わりから離れていただくという処置を取っておりました。しかしそれらの処分を喜んですることは決してないのです。
ノンクリスチャンとの結婚となったその姉妹にはそのような対応をせざるを得なかったのです。その姉妹にとっては厳しい懲罰かと思います。私はそのことを姉妹に伝えた時は涙しました。しかし彼女には私の涙の意味は分からなかったと思います。それは、教会に戻れないことよりも、彼と結婚できることが幸せであったからだと思います。
ところが、その後しばらくしてからその方から一度だけ手紙が私宛に来ました。手紙にはノンクリスチャンとの結婚には色々と苦労があることが書かれ、また後悔していることも書かれていました。しかし、今なおその姉妹に対して願っていることは、その懲罰の背後にある神様の愛に気づかれて、そして神様を信じ続けられ、イエス様の尊い十字架による罪からの救いを忘れないで欲しいのです。
最後にもうひとつ付け加えなければならないことがあります。
それは私たちの背後には、私たちを神様から目をそらさせようとする目に見えない力、あるいは私たちの間に不信感を抱かせ、人を誘惑に陥れようとするサタンや悪霊の策略(悪巧み)があることを忘れてはいけないのです(参照 11節)。
神様のことばである聖書が、人をさばくだけのものとなり、赦しがなく、罪を定めるだけのものになるならサタンの思惑通りです。この罠に私たちは注意しなければなりません。
確かに聖書は両刃の剣であります(ヘブル書4章12節)。
しかし、みことばは決して私たちの心に致命傷を与えず(サタンや悪霊はそれを願っているのですが)、むしろ悪い所を明らかにして、それを取り出し、癒し、そして再び新しいいのちをいただく者となるためであります。
教会内におけるいかなる問題も、その解決のプロセスにおいてたとえ不完全なものがあったとしても、最終ゴールには悔い改めがあり、赦しがあり、和解があり、回復があり、癒しがあって欲しいのです。
そして、問題の渦中において神様の愛を学ぶ機会となるというのが、パウロが心から願うところの真の解決法ではないでしょうか。