『見えないものはいつまでも続く』                                                                        第二コリント4章16-18節 2012年9月23日(日)

  『見えないものはいつまでも続く』          
  
     第2コリント4章16−18節  2012年9月16日
       
 聖書の学びにおいて、その書かれた時代がどのようなものであったかを知ることは、重要なポイントであります。
4章9節で『迫害されていますが』と書かれているように、当時のクリスチャンたちは迫害の中で信仰の戦いを強いられていたのです。そのような厳しい状況の中で書かれたのがパウロの手紙であります。
今日私たちは信仰の自由が与えられて、平穏な信仰生活を送らせていただいていることは、神様から与えられた大きな恵みです。しかし、いかに時代的な背景が全く違っていても、今日の私たちにとっても、パウロの手紙から多くのことが教えられるのです。
けさの箇所も、私たちにとっていかに時代的な背景が違っていたとしても、とても励まされる所ではないでしょうか。ご一緒にみことばを見て行きましょう。
まず16節の接続詞は『ですから』ですが、パウロはどういう意味で『ですから』と言っているのでしょうか。
それは、10−14節から言えることですが、パウロの復活信仰にあると思われます。では復活信仰とは何でしょうか。それは、たとえ迫害によって命を失ったとしても、キリストを信じている者は、永遠のいのちを受けるという希望を持っている信仰です。
もし私たちの信仰の土台が確かな復活信仰にあるなら、さまざまな試練や、困難や、苦しみや、また悲しみの経験の中に置かれたとしても、復活信仰のゆえに、『ですから、私たちは勇気を失いません。』とパウロと同じように告白することができるのではないかと思うのです。
もしも復活の希望がないなら、すべてのことは失望に終わってしまいます。人は失望すると気力をなくし、生きる力が弱ってしまうのではないでしょうか。
さらに失望は、悲しみから立ち直る心を臥させるのです。そして勇気が損なわれるのです。
しかし希望はその反対です。希望は生きる力を与え、悲しみを慰めに変え、臥せた心に励ましを与えてくれるのです。
とはいえ、当時の迫害によってクリスチャンたちは、肉体的にも精神的にも大きなダメージを受けていたことは確かなことであります。 
パウロ自身も肉体に苦痛を受ける迫害を何度も経験しているのです。その度に精神的に大きなダメージを受けたという証しもしているのです。
実はそのような告白をここでは、霊的な表現によって語っているのです。それが、『外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。』というみことばであります。
この内なる人、外なる人とはどう理解すればいのでしようか。
それは、人間は肉体(外なる人)だけで生きているのではなく、むしろ霊的ないのち(内なる人)によって生かされているという意味であります。
確かに迫害によって、クリスチャンたちの肉体は傷つき、痛み、衰弱して行ったのです。 
しかし、神様に生かされている魂がその弱った肉体を支え、またその人を生かしているという人間観は、この世への生に執着し過ぎることから解放されるのではないでしょうか。
次に、衰えるというのは目に見える質的なことであり、新たにされるというのは、目に見えない霊的なことであります。
私たちは老いる(明日は敬老の日)というのは避けることの出来ない現実であります。  
自分の体を見て、若いときと比べるならきっと失望するでしょう。あるいは老いて行く自分を眺めて卑下していやになるかも知れません。
しかしそのことをいくら悩んだとしても解決はないのです。ただ色々と努力をして、老化を遅らせ、何とか健康を維持させることは可能ではありますが、いつまでもというわけには行かないのです。ですから、老化は受容すべきことなのです。
しかし、パウロの16節のみことばによるなら、たとえ外なるからだが衰えたとしても、気持ちまで老いる必要はないということです。
この所でパウロは、クリスチャンはいかに体が衰えたとしても、心はますます元気であるようにと励ましているのです。
老いることは不健康でも不健全なことでもないのです。出来るなら健康的に老いることを目標にしたいものです。
健康的に老いるとは、心まで老いないことであり、霊的な祝福を神様から享受(きょうじゅ)され続けることであります。
さて、復活信仰をしっかりと確立していたパウロにとっては、患難の程度に関わらず、それらを軽いものであると言い切っているのが17節であります。
そのように言い切れる根拠とは、それは、天にある神様の栄光を受けることを待ち望んでいるからです。
パウロの患難に対する捉え方とは、受ける患難が大きければ多きいほど、天において受ける栄光も大きいものであるというものであります。
パウロが患難をそのように捉えているという背景には、それは、神様は愛なるお方(ヨハネ3章16節)であるという根拠に基づくものであり、それはみことばの約束という根拠に基づくものではないでしょうか。
『義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたよりも前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。』 (マタイ5章10−12節)
もしこのイエス様のおことばが単なる気休めであるなら、誰が激しい迫害に耐えることが出来たでしょうか。気持ちの持ち方で厳しい迫害を乗り越えることは出来ないのです。  
主のみことばが真実なゆえに、大人子供に関わらず多くのクリスチャンたちは、命を奪われてまでも困難な迫害を乗り越えることが出来たのではないでしょうか(もちろん聖霊様の助けもあったのです)。
試練の時は神様に見捨てられたのではないかと不安に包まれるのですが、しかし、それは神様の愛をどれだけ信じているのかのテストであり、神様の愛がどれだけ大きいものであるかを体験する機会でもあるのです。 
そして、神様はむやみに試練に会わせられることは決してないのです。むしろ明確な目的と理由を持たれて試練を与えられるのです。
私たちが信仰を持つということは、この世の労苦や試練や災いを取り去るという保証でも何でもないのです。
信仰は、いかなる状況にあっても生かされて行くための原動力となるのです。
信仰とは、人生が祝福されるための手段とするのではなく、信仰によって生きるなら(いかされるなら)、その人の人生を祝福されるという神様の約束に対する信頼なのです。 
そのような信仰の捉え方がなければ、耐えがたい試練を乗り越えることは到底出来ないのです。繰り返しますが、パウロは復活信仰に生きたということを心に明記しましょう。
最後は18節であります。パウロはこの所で目に見えるものがすべて悪いと言っているわけではないのです。
私たちはこの世においては目に見えるものによって生かされているものが数え切れないほどあるのです。
目に見えるもので大切にしなければいけないものもあるでしょう。しかし忘れてはいけないことがひとつだけあるのです。それは目に見えるものは一時的であるということです。 
つまり一時的なものは必ずしも悪いものではないが、永遠の問題については何の答えも持っていないということなのです。
さて永遠の問題とは、神様の存在の有無であり、永遠の世界の有無であります。
もし、あなたが一時的なものに目を奪われ過ぎるなら、永遠の祝福、つまりそれは神様が下さる祝福を受け損じてしまうのみならず、神様に出会うチャンスを失いかねないのです。 ですから、この世のものを多く持てば持つほどその可能性は高くなる故に注意が必要なのです。
ロバート・ルイス・スティヴンソンはある牛飼いの老人のことを語っています。
『ある人が彼に同情して、牛小屋の汚物の中で来る日も来る日もまあ良く働けますね、と言ったところ、老人は、「ちゃんとした見通しを持っていれば、仕事がいやになることはねえですだ。」と実に立派に答えたのです。
光を見てこれに向かってまっすぐに進んでいる者は、見えないものを見ているようにして、忍ぶことができるのです。』
『信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。』
(ヘブル11章8節) 
*下記のみことばを共に参照しましょう。
ヘブル書11章17−19節、24−27節