『死後、希望のある信仰』 第二コリント5章1-10節  2012年9月30日(日)

『死後、希望のある信仰』        
   
第2コリント5章1—10節    12.9/30(日)

 
 先週62歳を迎えました。もうそんな年になったのかという実感がないのですが、確かなことは、着実に死に向かっていることです。
さて、私が死に向き合わないといけない出来事が中学3年生の時に起こりました。それは、クラスメイトが電車にはねられて亡くなったときです。事故の当日、掃除の時間に亡くなった友人が、私に「この虹が消える時にも」という歌を教えてくれないかということで教えたのですが、その日の夕刻に亡くなったのです。その知らせは、私にとってあまりにもショックでした。その夜は本当につらい、眠れない夜となりました。翌日教室に入ると、彼の机の上には一輪の花が置いていたのです。
死とは何か?死んだ後はどうなるのか?死について説明のないまま、彼の葬儀は終わりました。
しかし、時が経つにつれて、彼の死の悲しみも徐々に薄れ、死についてはあまり考えないようになりましたが、死という漢字の一文字は、私の頭から離れることはなかったのです。
その後、22歳の時に大きな手術を受けたのですが、ある日の早朝、すごく気持ちがやすらぐ音楽が聞こえて来て目が覚めました。後々に分かりましたが、キリスト教のラジオ番組の賛美歌でした。なぜか、その賛美歌を聴いているうちに生きる希望が心に湧いて来るという不思議な体験をしたのです。
その後も相も変わらず無心論者で日々を送っていたのですが、それから4年後、私は、この教会の門を叩いたのです。そして、死は終わりではなく、死後の世界があること、そしてイエス・キリストを信じることによって、天国に行くことが出来るという救いを受けたのです。
さて、パウロがこの手紙を書いた背景には、当時コリントの教会内において、死からの復活を否定する非聖書的な者がいたのです(第1コリント1章12節)。さらに、パウロ使徒職を認めないという分派的な人々もいれば、聖書を間違って捉えている人々がいたことによって、教会は混乱や紛争や分裂といった多くの問題の渦中にあったために、パウロは手紙を通して、特に正統的な信仰に立っている者を励ましたのです。
けさの箇所でのポイントは、復活信仰にしっかりと立っている者は死生観が確立されることと、死を超えた希望をしっかりと持っているということです。
では、パウロの死生観について見て行きましょう。
まず第1に、クリスチャンにとって、地上の幕屋がこわれた(肉体の死)としても、天においては永遠の家(復活のからだ)がある(1節)。つまり死はすべての終わりではないという死生観です。
先ほど、中学生のクラスメイトが事故で亡くなったことを話しました。15歳という若さです。あまりにも早い死でありました。彼のお母さんは、彼の事故を耳にした時、裸足でその事故現場に走って行かれて、彼の死を目にした時には発狂するぐらいに泣かれたようであります。そのつらさや悲しさは当人しか分からないものであります。
死んだらおしまい。死んだら無である。死んだらその後のことはだれにも分からない。そして、天国(極楽)で安らかに過ごしてくださいと弔うというのが、多くの日本人が持っている死生観ではないでしょうか。死の問題を縁起でもないと避ける。あるいはタブー視する。そして、死について向き合うことをしない、むしろ、それが出来ない土壌にあるというのが私たちの国ではないでしょうか。
しかし、どれだけ避けたいと思っても、また、考えたくない、あるいは、望まないことであっても死は必ず来るのです。 しかし聖書によれば、死後の世界においては、もはや自分の意志によってはどうすることも出来ない神様の領域の中に入ると教えています。
『そして人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、、、、』(ヘブル9章27節9)
人は生まれることも受け身であり、死ぬことも神の御手の中で定められており、そして何よりも死後においては、罪のゆえに神からの一方的なさばきが下されるのです。
しかしパウロは、第2コリント5章2—4節において、クリスチャンにとっての死とは、死後において新しい霊のからだを神様から与えられて、それを着ることが出来るというすばらしい希望があると語っているのです。
それはイエス・キリストが死からよみがえられたように、神様を信じる者がキリストの復活のいのちにあずかるのです。
死は絶望ではないのです。イエス・キリストを信じる者にとっては、生きることは決して楽なことではないのですが、しかし、死は天国の入り口となるのです。 
第2に、神様の手付け金によってクリスチャンは死後、天国に行くことが保証されているのです(5−8節)。手付け金とは、たとえばそれは、家を購入する際に用いられるものであります。
私も今の家を買う前に、色々と探しました。十数軒見に行ったと思います。家を購入するというのはなかなか難しく、決断するには色々と躊躇したりするものであります。良いと思う家が見つかったとしても、すぐには契約できないし、でもだれかが先に契約すれば、購入をあきらめなければならない。そうなると何か損をしたような気持ちになるものです。しかし購入代金のごく一部を不動産屋に収めておけば、他の人がその物件を購入することができないという利点があるのが手付け金であります。
5節には保証金(下の注釈は手付け金)と書かれています。ここでの解釈は、本来は、神様を信じたあとも私たちは罪を持っているゆえに天国に入るにはふさわしく(かなわない)ない者ですが(6節)、そのような者が、この地上にいながらにして天国に行くことが出来るという確信をどうして持つことが出来るのでしょうか。それは、神様から天国に行くことが出来るという確かな保証を頂いたからです。
では、どのようにしてそれを頂いたのでしょうか。それは信仰によってです(7節)。また、信仰によって義とされたからです。つまり天国に入るにふさわしい罪なき者と見なされたということであります。そして、その保証とは信仰の結果によって受ける聖霊によるのです。
つまり手付け金とは御霊様(聖霊)のことです(エペソ1章13、14節)。この手付金による天国に行くことができるという仮契約は、死の瞬間において天国に行くことが出来るとう本契約に至るのです。神様の契約は翻ることは決してないのです。それは、不確実な人間のものとは全く違うものであります。
最後は、正しい死生観を持つ者の生き方とは、天国に行けるからと言っていい加減な地上生活を送るのではなく、天の報いを受けるために地上にあっても神様が喜ばれることに焦点を合わせて生きることです(9、10節)。
さて、私が献身の決心に至るきっかけとなったということがいくつかあるのですが、そのひとつに、「岸本兄を通して導かれる魂があるんですよ」という牧師の一言でした。このような者が人を救いに導けるのかと疑心暗鬼であった私にとって、この牧師の一言は献身をためらう私を後押ししてくれました。
さらに神学校在学中に、一人の神学生から、天国に行った時にどれだけの人が、私に福音を伝えてくれてありがとうと言ってもらえるのか。あるいはどれだけの人から救いに導いてくれて本当に感謝しますと言ってもらえるのかということを聞いた時に、ひとりでも多くの人をキリストの救いへと導ける者になりたいと思ったのです。
皆さんいかがでしょうか。死んでも天国に行くことが出来るというこのすばらしい救いは、自分一人に留まってはいけないというのは言うまでもないことです。
『ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。』
(ルカ15章10節)
魂が救われるために労する者の報いは決して小さいものではありません。
そして、そのような使命に立っている教会を支え、祈り、仕える者の天の報いもまた決して小さいものではないのです。 
『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。』
10節