新年礼拝 2013年1月6日(日)『終わりの時代に生きる信仰』 ペテロ第一4章7−11節

   「終わりの時代に生きる信仰者」
       2013.1/6ペテロ第一4:7−11
1948年4月28日、国連においてひとつの国家が承認されました。イスラエル共和国建国宣言の日です。
 AD70年に当時のローマ軍によって、エルサレムは壊滅し、ユダヤ人は祖国を失い世界に離散したのです。それからおよそ1900年後祖国ユダヤ国家が再建されたのです。
 ところが、このイスラエル国家復帰は世の終わりの顕著なしるしと言われているのです。つまり世の終わりが近いということであります。
 更に、エルサレムに第三神殿(ソロモン神殿、ヘロデ神殿)が再建される時は、まさに世の終わりの最終章でもあるのです。  その後間もなく大患難時代を経て主イエスキリストの再臨の預言があります。
 ところで、イスラエルエルサレムに神殿建設を着工するためには中東和平が実現される必要があります。つまり中東和平交渉が成立する時こそ、世の終わりのカウントダウンに入るということであります。
 まさしく世の終わりは、私たちが生きている時代に起こっても不思議ではないのです。
 さて、ペテロがこの手紙を書いた目的は、迫害下にあるクリスチャンを励ますためです。彼らにとっては終末時代と思われる中で、信仰者はどう生きれば良いのかを勧めているのです。
 このことは言い変えると、すでに2000年経過し、まさに終わりの時代の中でのクリスチャンに対する勧めでもあります。
 では、信仰者は終末時代をいかに生きるべきでしょうか。
 
 まず第一は祈り続けるために自己管理の必要を勧めています。(7節)。
 クリスチャンは、たとえ世の終わりがいつ来たとしても、慌てる(動揺)必要はないのです。なぜなら、必ず世の終わりが来る事を前もって承知しているからです。
 とはいえ、一体どれだけのクリスチャンが世の終わりに備えて生きているでしょうか。
 では終わりの時代に備えて生きるとはどのようなことでしょうか。それは祈り備えることだとペテロは勧めているのです。日々神様に祈り、神様と交わり、神様と共に生きるという普段の生活を継続することこそ、いつ終わりの時代が来ても決して慌てることのない生き方であります。
 そのような祈りの継続のためにペテロは心を整え、身を慎みなさいと当時の迫害下にあるクリスチャンに 祈るための自己管理を勧めたのです。
 心を整えよとは、口語訳では「心を確かにする。」共同訳では「思慮深く振舞う。」と訳しています。それは正しい分別を持つ事を意味するのです。分別の反対語はわきまえがないということです。
 今がどのような時代か認識できない、深くとらえることが出来ない。何が大切(重要)で、大切(重要)でないかを見極められない。この世に押し流される。この世の動向(流れや動き)に左右され易い。もしそうなら、神との祈りの生活、神との交わりの生活を取り戻す必要があるのです。
 しかし、わきまえ(分別のある)のある生き方を心がけるなら、祈りの生活も守られるのです。
 続いて祈りのために、身を慎みなさいと勧めています。これは本来、酒に酔っていない。つまりしらふである、正気であるという意味があるようです。
 それは、お酒に酔ってしまって無責任な行動を取ってしまう。あるいは大変なことをしでかすのではなく、自分の人生において責任ある行動を常に心がけることを意味するのです。
 この世がいかに流れて行っても、慌てない、状況をよく見極め、責任をもって行動出来る自己管理こそ、終わりの時代において祈り続ける秘訣なのです。

 第二は、罪に打ち勝つために愛の必要を勧めています(8節)。
 イエス様が、マタイ24章12節で終わりの時代には「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」と言われたのです。だからこそペテロは、『何よりもまず。互いに熱心に愛し合いなさい!』と奨めるのです。
 それは中途半端な愛ではなく、全力疾走で、全力を注いで、競技するのと同じような熱心さを持って、愛するようにと勧めているのです。
 すぐにさめて行く愛ではなく、すぐに敗北する愛ではなく、すぐに変わる愛ではなく、愛する価値のないものを愛する、愛せる状況にも関わらず愛することの出来るアガペー(十字架の愛)の愛を持って愛し合うなら、神様が罪ある私たちをそのまま(あるがままを)愛されたように、私たちも他の人をそのまま(あるがままを)受け入れることが出来るのです。
 ペテロが復活の主に赦された時、人を生かし、解放し、回復させる愛の力と勝利を経験したのです。この愛こそ終わりの時代に必要な愛です。
 新しい年、教会がこの愛が教会に満たされるように神様に願いましょう。そして祈って行きしましょう!

 第三は賜物を用いて互いに仕え合う必要を勧めています(9−11節)。
 9節を見ますと、冒頭に「つぶやかないで…….」共同訳では、「不平を言わずに…..」LBでは「気持ち良く……」と訳されていますが、ある人たちの解釈では、もてなすことができることも賜物のひとつと考えています。 
 もしそうなら、9節の「つぶやかないで」は、もてなし合うことだけでなく、10節の互いに仕え合うことにおいても、つぶやかずにしなさいと勧めているのです。
 その根拠はピリピ2章14節にあると思われるのです。パウロは「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」と言っているように、クリスチャンは信仰生活において、つぶやき、不平不満のとりこにならないように注意しないといけないのです。
 初代教会においては、旅人をもてなすこと、また巡回伝道者をもてなすことは、キリスト教会の社会貢献の一つと言われていたのです。
 しかし、それらの人々をもてなすためには、それなりの財と時間が必要です。あまり豊かではない、貧しい信徒にとっては荷が重すぎるのです。
 
 ですからどうしても、限られた信徒宅にその奉仕が求められたかも知れません。始めは気持ち良くしていた奉仕も重荷となり、また負担が多くなり、犠牲を払うことが増してくると、つぶやきも起こり、不平不満も出たことと思います。
 でも今日においては、初代教会における社会背景や、社会情勢と違います。旅人をもてなし、巡回伝道者のお世話する奉仕は皆無です。
 しかし、ノンクリスチャンを家庭に招いて交わりの機会を持ち、また信徒同士が集まって、交わるために家庭を解放することは、大切な奉仕の一つです。
 そのためには、兄姉の賜物が用いられる必要があるのです。それは、それらが持続され、継続され、つぶやきや不平不満の奉仕とならずに、祝された奉仕となるためです。
 次に10節ですが、賜物を用いて主の奉仕に仕え合うことです。それは、口語訳は「お互いのために役立てるべきです。」と訳しています。
 神様から与えられた賜物を自分のために使うなら、才能となります。それは自分の栄光のために、栄誉のために、欲望のために用います。
 しかし、賜物は神様から預かり、管理することを任されたものです。それは、その人はその賜物を自由に用いることが出来ますが、自分のためではなく、神様が喜ばれることを常に考えて用いられるものです。
 そして、それは他の人に役立ち、益がもたらされるからです。たとえば、賛美の指導の賜物が与えられる人が、奉仕されるなら、神様を賛美する人達が整えられ、よりすばらしい賛美が神様にささげられ、そして、神様が喜ばれることによって、そこにいる人々に神様の祝福が満ち溢れるものとなるからです。  決して、指導者が誉められ、賛美する人が褒められるためではなく、神様があがめられるために、賜物が用いられるのです。
 11節は言葉を通しての奉仕(説教者、教師など)、行ないを通しての奉仕(様々な奉仕)について語られています。
 語る人、行なう人のどちらの奉仕も大切です。しかし、語る人が大切というよりも、語られる神の言葉の権威が大切なのです。権威は語る人ではなく、語られた神様とその言葉にあるのです。
 また、行ないを通しての奉仕は、奉仕のためにするのではなく、その奉仕を必要とされる神様のためにすることが大切なのです。 
 ですから、ペテロはそれにふさわしく奉仕するようにと勧めているのです。そのためには、神が豊かに備えて下さる力が必要なのです。
 この備えるという「コレ−ゲオー」は、合唱隊のリーダーになる、合唱隊の組織するために人を備えるということば(コ−レゴス)から来たもので(ここと第2コリント9章10節のみに使われていることばです。)、神ご自身が奉仕の働きの、すべての指揮者で、その神の指示に従う時、調和が生まれ、必要な力が供給されて、その奉仕を通して神様があがめられるのです。
 さて、世界の終わりに主が再臨された時に、主イエス様は、どれだけ立派な会堂であるのか、あるいは、どれだけたくさんの信徒がいるのかをご覧になられるのでしょうか。
 いや主は、その教会がどれだけ互いに祈り合い、互いに愛し合い、互いに仕え合っているのかをご覧になられるのではないでしょうか。
 なぜなら、そのような教会によって、神様の栄光があらわされ、そして、『すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです(11節)。』