2013年 1月20日(日)礼拝メッセージ 『恵のわざにも富むようになってください』

『恵みのわざにも富むようになってください』
 第2コリント8章1—7節 13.1/ 20

 口酸っぱく言われると効果がないばかりか、かえって聞いている方もうんざりとなってしまう。ところがいっこうに講壇で語られないと、その意義や大切さが薄れてしまうというのが献金についての勧めではないでしょうか。
そういう意味では、時には講壇で献金について語るというのは意義のあることだと思います。そして、まさにけさのみことばは、献金について語るにはふさわしい箇所であり、良い機会であると思います。
昨今多くの教会において慢性的な財政危機状況下にあると言われていますが、それは、地方になればなるほどその厳しさが顕著に現れているというのが現状なのです。
 東京のある教会では、地方から就職で上京して来て教会員になる場合は、その信徒の聖別献金の半分を出身教会にささげるという方法をとっているとのことです。そのような方法が良い悪いは別にして、やはりそこには地方教会の苦悩が見えて来るのです。
   実は財政的逼迫は、地方だけではないのです。都会にある教会においても同じような危機感はあるのです。その大きな要因は教会の高齢化問題です。それから若い人たちが、なかなか正社員になれないために、献金においても影響を受けるという現状があるのです。また働く者の給与も上がらないこともあります。
 このように多くの教会で厳しい状況の中にある献金についてみことばから学ぶというのは大変意義深いものではないかと思います。
 さて、けさの箇所は、パウロ献金について勧めているところでありますが、どういう背景においての献金の勧めであるかと言いますと、初代教会であるエルサレム教会が経済的に非常に困窮していたのです。
 その理由として、エルサレムの信徒の多くは、社会的・経済的な不利益を受け、貧しかったのです。その困窮は、個人的な資産を売っての献金と共同生活で当座はしのげたのですが(使徒4章32—37節)、長期的には他教会の援助を必要としていたのです。そこでパウロは他教会の援助を要請していたのです(新実用聖書注解より)。
 それは決して容易なことではなかったのです。というのは、パウロは無割礼者をキリスト者と認めないユダヤ主義的キリスト者ユダヤ人)と戦っていた中での異邦人クリスチャンに向けての献金の要請は、大きなチャレンジでもあったからです。
 そういうなかにおいて、マケドニヤ(ピリピ・テサロニケ・ベレヤ)諸教会の模範的な献金状況を知らせているのですが1節の内容であります。
 そして2節を見ますと、それらの教会は決して豊かであったから、あるいは余裕があったからエルサレム教会に献金の援助をしたというのではないのです。
 まず信仰の試練を受けている只中で献金しているのです(使徒16章17章、ピリピ1章29節、第1テサロニケ2章14節)。
 マケドニヤの諸教会のクリスチャンたちが何ゆえに、迫害の中にあっても困窮している教会を助けることが出来たのでしょうか。それは喜びが彼らのうちにあったからです。
 その喜びは信仰から来るものでした。たしかに迫害は苦しみです。しかし、そのような中で彼らが支えられたのは信仰があったからです。
 パウロは「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい。」(第1テサロニケ5章16—18節)と勧めているのですが、それはイエス・キリストを信じているという信仰を土台として成し得る勧めであり、
 またそうしなければ成し得ることのできない勧めであるというのは言うまでもないことです。感情から来る喜びもあります。しかし信仰から来る喜びは、苦しみや困難や悲しみを乗り越えさせてくれるパワーを秘めているのです。
 そのような喜びの体験者であったマケドニヤのクリスチャンたちは、自分たちの困窮や苦しみを超えて、窮地に追い込まれていたエルサレム教会のクリスチャンたちを助けたのです。しかも惜しみなく献げたのです。
 あふれる喜びは、あふれる施しとなったのです。献金は余裕がなければできないというものではないようです。それはその信仰がどれだけ喜びとなっているかがカギなのです。
 そして3節を見ますと、彼らは自発的に、しかも自分たちの力量を超えて献げたのです。自発的にというのは、4節から知ることが出来るのです。
 マケドニヤのクリスチャンたちは、パウロ献金依頼を受けてではなく、自分たちから献金の恵みにあずかりたいとパウロに熱心に嘆願したのです。もちろん献金依頼を受けてささげることも素晴らしいことです。しかしその必要を知るなり、進んでささげている彼らの姿勢に学びたいものです。
 ここで注意すべきことがあります。それは、パウロはマケドニヤのクリスチャンたちがどれだけささげたかを証ししているのではないということです。
 あくまでも、彼らのささげる姿勢について見習って欲しいとコリントの教会の人々に勧めているということです。
 恐らくマケドニヤのクリスチャンたちがささげた金額はそんなに多くはなかったと思われます。2節の極度の貧しさにも関わらずと記されていることからも推測できるのです。
 それはちょうど、生活費の全部であったレプタ銅貨2枚をささげたやもめと同様であります。まさしく神様は、献金はいくらささげた以上に、いかにささげているかを見られるのです。
 もし強いられてささげているなら、これだけとかいくらささげているということに思いが向きがちです。しかし自発的なささげものは、ささげる(あるいは、ささげられる)こと自体に喜び、また感謝することが出来るのです。
 そして彼らが力以上にささげた秘訣は、5節にあるのではないでしょうか。それは、まず自分自身を主にささげているということです。この自分自身ということばは強調的に使われているようであります。ある注解者は「パウロを喜ばせたのは、彼らの献金の奥にある彼らの献身であった。」と言っているのです。
 献身と献金は別物ではなく、一体であります。何も神学校に行って牧師になる、あるいは宣教師になるだけが献身ではないというのは言うまでもないことです。
 主のために生きることは献身なのです。主とともに生きることも献身なのです。その生き方が献金として表われて来たのがマケドニヤのクリスチャンたちだったのです。
 その献金のわざは、テトスの指導のもとで進められていたようですが、中断していたので、再度パウロがその奉仕を完了するようにと勧めているのが6節であります。
 そして7節においてパウロは、コリントの教会の人々の信仰の良き点を褒めて、その上で恵みのわざに富むようにと、つまり献金の奉仕も祝福されるようにと勧めているのです。
 パウロは実に配慮に富む人物であります。献金というある面ではデリケートな問題を慎重にかつ大胆にも取り扱っているのです。
 けさはお金の話をしたのではないのです。あくまでも献金の勧めであります。
 最後にパウロは恵みのわざに富むようになって下さいと言いました。そのわざに富む者とは、まさにマケドニヤのクリスチャンのように献金が喜びとなっている者であります。