「山上のイエス様のお話し」マタイ5章より


      山上におけるイエスのお話し〈Ⅰ〉


            マタイ5章1-16節

               2013年3月1日 





                


         大和聖書教会牧師  岸本栄一

『山上の教え(Ⅰ)』
 ―悲しむものは幸いです―
  マタイ5章1―4節  
        09.9.6
  私はこの聖書箇所から説教の準備をする中で、気付かされたことがあります。それは聖書を読むことと、それを理解することとは別物であるということであります。そして理解するということについても、それは決して簡単(容易)ではないという事であります。
  たとえば「心の貧しい者」と読むことは読めても、一体それはどういう意味なのかと考えると、やはり難しいものがあるのです。もしここで主が、「貧しい者」と言われたなら読むだけでも意味が分かるのですが、「心」という一字がついたためにその理解が難しくなったのです。つまり聖書の解釈の問題であります。
  聖書を解釈するというのは、決して容易なことではなく、やはりそれは、聖書を専門に学んでいる聖書解釈者に委ねなければならないのです。自分勝手に聖書を解釈するというのは、様々な危険が伴なうのです。しかも聖書解釈者によって様々な解釈があるとなると、一体どの聖書注解書を選べば良いのかとなってしまうのです。
  私はかつて「いのちのことば社」で働いておりましたが、この会社が出版している注解書はまず安心できると思います。もちろん他社にもすばらしい注解書はあります。とはいえ信徒の皆さんが色々な注解書(10冊使っています)を買うというのは難しいことです。それゆえに牧師が説教で聖書の解釈をさせて頂くということであります。
  そして聖書を学ぶに当って、大切な事は、解釈することが第一義的なことではなく、生活の中で聖書の教えが生かされるために、みことばの適用が大切なのです。そのためには正しく解釈されてこそ正しく適用されるということになります。
  この山上の教えを学ぶにあたり心の準備についての前置きはこれぐらいにして、数ヶ月か?にわたってご一緒に学んで行きましょう。
  Ⅰ まず3節の『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』から学びましょう。
  『心の貧しい者』とはどういう意味でしょうか。だれであれ貧しいという言葉はあまり歓迎出来ないものであります。なぜなら貧しさには、厳しさがあり、悲しみがあり、悩みがあり、苦労があり、辛さがあるのです。
  しかし、主はそのような人に向けてメッセージをされたのではないのです
  では、ここでの心の貧しさとは何でしょうか。ある聖書注解者によれば、「自分が全く無力であることを知り、ただひたすら神様により頼んで生きようとする人。」と解釈しているのです。
  つまり「心の貧しい人」とは、私は神様が必要な存在であり、神様の助けなければ実に弱い存在であるという自覚を持った人のことであります。
  『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』
  つまり、天の御国を自分のものとしている人とは、自分がどれだけ立派なことをしたのかといった功績や評価に拠り頼む者ではなく、自分の無力さを知って、神様に拠り頼んで生きる者であります。
  それは神様に救われるための条件という理解ではなく、というのは救いの条件とは、イエス・キリストによる十字架による救いのみことばの信仰によるのです。しかし、この3節は心貧しい者が救われる〈天の御国がその人のものになる〉という理解ではなく、神様に救われている人の特性の一つとして語られたものであります。
  神様を信じていても、自分の力を過信し、自分の価値を自分が築いて来た財産や、あるいは社会的な身分や地位によって見出すこともあるのではないでしょうか。もちろんそれらが悪いというのではありません。良い評価を受けるべき立派なことでもあります。
  しかし神様は全く別の見方をされるのです。その人が何をしたとか、何ができるとかではなく、あくまでも神様を恐れ、神様により頼み、心のへりくだった謙遜な人を幸いな人であると語られたのです。
  たとえ神様に救われていても、自分の力により頼む人、神様が語られたみことばよりも、この世の価値判断に重きを置く人、自己中心で我欲の強い人は、神様の目から見れば、決して喜ばれる者ではなく、幸いな人とは言えないのです。たしかに神の子どもではあるのですが、神様の目から見て、あまり喜べない子どもであるということになるのです。
  神様が喜ばれる子どもとは、心の貧しさという特性を身に付けている人のことであります。私たちは、みことば(聖書)に触れるたびに、神様の偉大さと自分の弱さを知って、神様の前にへりくだることを学んで行きましょう。それは、神様の子どもであるという特徴の一つでもあるからです。
  
  さて、Ⅱ 次に4節の『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』というみことばについて学びましょう。
  私たちが悲しむと言っても様々であります。この悲しむとは旧約聖書では、人が死んだ時の悲しみに使われている言葉であります。たとえばヤコブが、ヨセフが獣に食われて死んだと思った時に使われたのがこのことばです。その悲しみとは非常に深いものであることを表わしています。
  他にも人生における悲しみはたくさんあります。 愛する人との別れや死別、持っているものを失う悲しみ、人間関係に悩む悲しさ、孤独という悲しみ、自分は不幸だと思う悲しみ、人の不幸や災いを見て悲しむこと、失敗や敗北による悲しみ、痛みや苦しみによる悲しみなど他にもたくさんあると思います。
  誰であれ何の悲しみもない人生なんて有り得ないのです。人は様々な悲しみを経験してこそ、あるいは多くの悲しみを経験すればするほど、その人の人生に深みが生まれて来るのではないでしょうか。人の悲しみを見て、誰も何も感じないというなら何と殺伐とした世の中になることでしょうか。
  悲しみの経験をしないで、どうして人を慰めることが出来るでしょうか。悲しみの経験は必ずしもその人の人生を駄目にするものではないのです。そういう意味において悲しむ者は幸いであります。
  では4節の悲しみとはどのように理解すれば良いのでしょうか。
  それは罪から来る悲しみという理解であります。この理解は比較的多くの注解者の解釈であります。自分の罪に気付いて深く悲しむ者の幸いについて主は語られたということであります。
  多くの人は罪の行為をしながらもその罪について気付かないでいるのです。それは罪の本質について知らないゆえであります。
  かつての私もそうでありました。悪いことをして悲しみ、反省をしても、再び繰り返すのです。しかも何度も繰り返す自分の弱さに嫌気をさすのですが、罪の本質に気付かされることはなかったのです。
  実は多くの人がこのような状態にあるのではないでしょうか。 人は原罪に気付かない限り、人間の真の不幸(悲しみ)を知ることは出来ないのです。その不幸〈悲しみ〉とは、原罪による永遠の死〈魂の滅び〉であります。
  第二コリント7章10節で『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、この世の悲しみは死をもたらします。』と語られています。  
  救いに至る悔い改めとは、何か悪いことをして悔いるというのではなく、これまでこのように生きて(行なってきた)きたけれども、その生き方(行為)が間違いであることに気付いて、180度方向転換をすることが、聖書が教えている悔い改めの意味であります。
  罪を犯しやすいという自分の弱さを知り、罪を犯しために心が苦しむという悲しみの中にある人を神様は慰めてくださるのです。
  その人は幸いであります。なぜならその人は悔い改めを通して神様による罪の赦しを経験するからです。
  繰り返し罪を犯すことに悩み苦しみ続ける人が幸いではないのです。罪を犯しやすい自分を悲しむ人を神様は慰めてくださるのです。そのような人は神様よって悔い改めへと導かれるからです。
  それは、そのような罪深い者のために十字架で死んでくださった神の御子である主イエスを仰ぐときです。
  キリストの死は私たちに罪の赦しといやしをもたらしました。たしかに自分の罪に気づいて悲しむ者は幸いなのですが、罪の本質を知らないで、その罪がもたらす永遠の死という滅びの恐ろしさを知るときに、人の死は深い悲しみをもたらします。私たちクリスチャンは、神様を知らないで死を迎えられる人と、それを見送る人に対して深く悲しむのです。
  クリスチャンは神様に罪赦されて救われたという大きな心の喜びがありますが、身近な人がなおキリストを知らないという深い悲しみを常に持つ者であります。それゆえに私たちはとりなしの祈り〈救われるために〉の生活を日々送らなければなりません。
  人の永遠の死を深く悲しむというのは霊的な悲しみと言えるのです。しかしその悲しみも神様と交わることによって慰めを得ることが出来るのです。私たちの神様は『気落ちした者を慰めてくださる神』(第二コリント7章6節)だからです。
  「キリスト教信仰は罪の意識に始まる。自分の罪を深く悲しむ者、イエス・キリストに対してなした罪のわざを思って嘆き悲しむ者、十字架を見上げ、罪のもたらした滅亡に恐れおののく者、その人は幸いなのである。このような経験をした者だけが慰めを受けることが出来る。この経験を、悔い改めと呼ぶ。そして、神は砕けた悔いた心を軽しめ給わない。罪赦された喜びに至るには、砕けた心の悲しみを通らなければならない。」
  ウイリアムバークレー
  
  
  
  

  
『柔和なものは幸いです』
マタイ5章5節
      09.10.18
  今からおよそ2000年前に、主イエス様が語られたこの山上の教えについて、当時の人々はどれだけその真意を理解していたのでしょうか。
  今日は多くの解説書を手に入れて、その意味を詳しく調べることが出来ます。しかしその当時、主イエス様の説教を聞いている人々にそれほど学問があったわけではありません。おそらくその深い意味を知ることは出来なかったのではないかと思われるのです。
  実はこの主イエス様の説教は、7章まで続くのですが、その最後のところである7章28、29節に、主の話しを聞いていた群衆たちの感想について書かれているのです。それは、群衆たちはイエスの教えに非常に驚いたことであります。
  というのは、主の教えが当時の律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからであります。つまり教えの内容を深く理解したというのではなく、主の話しを聞いて、その教えに感動したのではないかと思われるのです。
  おそらく弟子たちによって聖書として記録された後々において、弟子たちのみならず、クリスチャンたちはその教えの深さに気付かされて行ったのではないでしょうか。
  確かにこれらの聖書箇所を準備しつつ、メッセージをすることの難しさや戸惑いを感じているのですが、けさは「柔和」という意味について学んで行きましょう。
  これは原語では「プラーユス」ということが使われており、これは「人に踏みつけられても、じっと我慢をしている」と訳されています。しかしこの訳だけでは、ここでの柔和の意味を正しく理解することは難しいのです。
  人に足を踏みつけられて、何も言えなくてじっと我慢するというのが、ここで教えている「柔和」ではないのです。
  一方、人に足を踏みつけられて、文句も言えるのですが、それを耐え忍ぶことが「柔和」であると考えることができるのですが、実はそれでもなお、説明不足であり、ここでの「柔和」の本来の意味を適切に説明しきっていないのです。
  この柔和について理解を深めるためには、前節からの関わりについて見ないといけないのです。それは、心の貧しい者と悲しむ者との関わりであります。実は柔和な者とは、心の貧しい者であり、悲しむ者であるというつながりの中での柔和な者ということであります。
  心の貧しい者―つまり自分は神様なしでは、生きて行くことの出来ない無力な存在であることを自覚し、悲しむ者―また自分は罪深い者であり、神様の憐れみがなければ生きてはいけない者であるという自覚を持った者が、真に柔和な者になることが出来るということであります。
  つまり主の教えは個々独立しているのではなく、それぞれ連結していると考えられるのです。6節の義に飢え渇いている者というのも同様であります。それについては次に触れたいと思います。
  ではこの柔和な者とは、一体どのように理解すればいいのでしょうか。
  時々世間にはクリスチャンではなくても、自分よりも柔和と思える人がおられるのではないでしょうか。しかしその柔和という意味は、この世で言う柔和さということであります。まさに足を踏まれても、にっこりと笑顔を返せる人です。言うならば心の広い持ち主であります。ちょっとしたことに動揺しない、どんなときにも寛容さがある人のことです。
  しかしイエス様がここで言われた柔和な者とは、神様を信じている人が前提となるのです。なぜならこの柔和とは、単なる性格ではなく、質的なものであるからです。
  それは、神様によって新しく造り変えられた者に表われる特性であります。つまり御霊が結ぶ実であります。
  「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。。。。。。」
         (ガラテヤ5章22節)
  結論としてここでの柔和とは、生まれつきの性質ではないということであります。
  モーセについて民数記12章3節で「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と記しています。
  モーセもまた生まれつき柔和であったのではありません。エジプト王の娘の子として育てられたのですが、自分がヘブル人と知った時に、同胞のヘブル人が苦しめられているのを見て、エジプト人を殺し、ミデヤンの地に逃れたのです。
  たとえ正義のためとはいえ、人を殺してしまうという気性の激しさを持っていたモーセでしたが、ミデヤンの地で40年間、神様との交わりを深めることによって、また羊を飼うという忍耐が求められる仕事を通して、モーセは砕かれ、彼の品性は変えられて行ったはずです。そして柔和さも身に付けて行ったと思われます。
  ある時(エジプトを脱出後の荒野にて)に兄のアロンと姉のミリヤムが、モーセの妻がクシュ人であることを非難した時に、神様はミリヤムを打たれました。そのために彼女はらい病に犯されたのです。それで兄のアロンはモーセに助けを求めたのです。
  そこでモーセは主に叫び、ミリヤムのいやしを求めたのです。民数記12章3節において、兄弟たちから激しい非難を浴びたときに、モーセはだれよりも謙遜(柔和)であったと記されていることに注目しましょう。
  おそらくモーセは兄や姉の非難に対して何の反論もしなかったと思われます。
  私は人に非難されると非常に気にするという弱さを持っています。正当な非難であれ、不当な非難であれ、非難されると心にダメージを受けやすいのです。そして我慢できなくなると相手に文句を言ってしまいます。足を踏まれて、言いたいけど初めは我慢できるのですが、何度か踏まれると我慢の限界が来てしまうというタイプであります。皆さんはどうでしょうか?
  モーセは非難に対して何も言わなかったようです。言えなかったのではなくあえて何も言わなかったと思われます。彼はやせ我慢をしていたのではなく、忍耐ができる人でした。また謙遜な人でした。
  なぜなら神様ご自身が黙っていたモーセに代わって、ミリヤムを打たれたのです。それは、アロンとミリヤムの非難が非常に激しいものだったということが想像できるのです。
  モーセは弱くて我慢していたのではなく、強くても耐えることが出来たのです。もはやそれは神様によって形成された品性と言えるのです。強い人が弱い者から仕打ちを受けたときに、仕返しをするのは普通のことです。しかし忍耐するなら普通ではないのです。
  その実例こそが、主イエス様であります。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(第一ペテロ2章22―24節)
  まさしくキリストこそ柔和な人の最高の模範であります。
  キリストは正しい人でした。それゆえに不義を行なう者を厳しく戒められました。それゆえに、そのような不義なる者の不条理な十字架刑に黙ってかかられたのです。そして十字架での悲痛な苦しみに耐えられたのです。しかしそれは不義なる者をただ赦すためであったのです。
  罪なき神の御子キリストは罪によって刑罰を受けるはずの者のために身代わりとなってその罪を背負われたのです。
  本来私たち罪人が受けるべき父なる神様からの刑罰をキリストが代わりに受けてくださったのです。
  イエス・キリストは偉大な方であり、権威を持っておられ、力を持っておられたと同時に愛と柔和とへりくだりを持っておられたのです。
  ですから主が山上で語られた柔和な人とはこういう人ですとは単純には語れないのです。そしてイエス様を模範とすればいいと口では簡単に言えても、実行するのはどれだけ難しいことでしょうか。
  しかし主イエス様は、私たち神様を信じる者たちにとって実行不可能なことを語られたのでしょうか?
  確かに生来の性質ではこの柔和さを身に付けることは不可能かも知れません。なぜなら、ロイドジョンズは、著書『山上の説教』にてこの柔和について、『柔和は、「心の貧しい」こと、「悲しんでいる」ことのすぐあとに来なければならなかった。人は心が貧しくなければ、柔和になることは決してできない。みじめな罪人である自分自身を見て悲しんでいるのでなければ、柔和になることは決してできない。心の貧しさを悟り、自分の罪深さのゆえに悲しみを経験することによって、自分自身を真実に見つめて、誇る心があってはならないということに、次第に目が開かれて行くのである。柔和な人は自分を誇らない。彼はどのような意味においても、自分を誇りに感じない。彼は自分の内には、自慢しうるようなものが何もないと感じている。また自分を前面に押し出さない。また自分自身のために何の権利も要求しない。自分の地位、特権、所有物をも要求しない。』と説明しているのです。
  その柔和さはキリストご自身の内に完全に見ることができるのです。しかしその柔和さとは何かを、正しく100%表現することは非常に難しいのです。
  繰り返しますが、それは生来の性質に宿るものではなく、聖霊様の働きによって身に付けることの出来る品性です。キリストを信じる者の内に宿られている聖霊様によってのみ付与されるものです。
  ですから、キリスト者はこの柔和さを身に付けることの出来る可能性を持っているということだけは確実に言えることであります。それを可能とされるためには、私たちが日々御霊に満たされていくことにあるのです。
  『柔和な人は幸いです。その人は地を相続するからです(柔和な人は、この世においても神の祝福受けるのです)。』
  
  
  
  
  
『義に飢え渇く者』
―義を大切にして生きるー
マタイ5章6節
      09.10.25
  毎日のように殺人事件のニュースがあります。人の命がいとも簡単に奪われています。ふと、私も誰かに恨みや憎しみを買うようなことはしていないのかと思ったりします。もしそうならいつ命を狙われてもおかしくないのです。もちろんそんなことはないと思っているのですが、それにしても、いつどこで誰にひどい目に遭うか分からない時代になってきているのではないかなと思います。
  ですから、むやみに人に注意したり、忠告したりすることが出来なくなってきているというのも事実であります。そうなると益々不義が蔓延してしまいます。叱る人がいない、注意する人がいない、正す人がいないという風潮は、この世の中がさらに退廃していくのではないかという危惧さえ抱くのです。
  とはいえ、私一人がいくら頑張っても悪くなって行く世の中を食い止めることはできないと、誰しもがそう思うことであります。なかには、あきらめの境地という人もおられるように思います。
  かつて私が20代の頃は、社会主義こそこの世の中を良い方向に変えることが出来る唯一の方法と信じて、一生懸命活動していました。たしかに私が20代の頃はそのような若者がたくさんいたのですが、今はそのような若者はあまり見かけないのです。
  確かに時代は大きく変わりました。社会主義もすたれていきました。とはいえ自由主義も不完全なものであるというのは言うまでもありません。もはや人類はこれまで考え出してきたいかなる世の中の仕組みや制度も、不完全なものである事を認めざるを得ない状況にまで来ているのではないでしょうか?まさに憂い多い時代の中で生きているのです。
  では私たちクリスチャンは、退廃して行くこの世に対してどのように生きていけば良いのでしょうか?それは、やはり神様がくださったこのみことばから学ばなければならないのです。
さて、主イエス様は今からおよそ2000年も前に「義に飢え渇いている者は幸いです。」と教えられました。「不義のために憂い、嘆く者は幸いです。」とは言われなかったのです。主イエス様は、真の平和の道とは、真の幸いな道とは、義に飢え渇くことであると教えられたのです。
  ではここでの義とは何でしょうか?そして義に飢え渇いているとはどういうことでしょうか?英語聖書では、義という言葉を「正しさ、公正、実直」と訳されています。原語であるギリシャ語では、正しさ。不義や罪が一点もない。意思と思いと行動において、神様の意志に合致している。実生活の隅々まで、神様の正しさの原理が及んでいる等々訳すことが出来るのです。
  ある英語聖書は「偉大なる欲求とは、神が求めておられることを、なそうとすることです。そのような者は幸いである。」と訳しています。
  つまりこの義とは、神様ご自身の正しさ、神様のご意志そのものであり、そしてその義に飢え渇くとは、義であられ(正しい)聖い神様と正しい関係でいたいという強い願望であります。
  またそれは、生き方の焦点を神様に合せて生きることでもあります。つまり神様のことばである聖書にピントを合せて生きるということであります。
  ところで、神様が私たちにこの聖書をくださった大きな理由が3つあります。まず第1は、この聖書を通してまことの神様を知ることです。第2は神様の救い(罪の赦しと永遠のいのち)を受けるためです。第3は、この聖書に照らして生きて行くためであります。
  義に飢え渇くということの見方を変えれば、それは神様のご意志であるみことばに飢え渇くことです。つまり神様のみことばを慕い求めることであります。『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(第一ペテロ2章2節)
  この世の中の不正に対して義憤すること、また不義に嘆くこと、悪に悲しむことも大切なことであります。しかしその様な態度だけがこの世の中を変えるとは思えないのです。
  私は北朝鮮が核実験や、ミサイルを打つたびに、日本も核ミサイルを持たないと駄目なのかなとふとそのような考えが頭をよぎるのです(義憤?)。クリスチャンはいかなる時も平和を求め、平和を愛して止まない者であるはずです。私は感情的になったためにそのように(日本も核を持つべきでは)思ったのです。
  誰かから暴力を受けたときに、無抵抗主義だから何もしないことが真の無抵抗主義ではないはずです。当然その暴力に対して防御すべきであって、また抗議するべきです。これは聖書的な生き方なのでしょうか?
  確かにみことばを第一優先にして生きて行くというのは決して容易なことではないということが、この世において生きて行く中で感じることであります。なぜなら、マタイ5章10―12節。38―44節を見て行きますと、実に義に飢え渇いて生きて行くのは非常に難しいことではないかと考えさせられるのです。
  それほどにみことばの基準というハードルが非常に高いものであるということです。しかし、もしこのみことばがこの世になかったとするなら、この世の中はどうなっていたことでしょうか?
  生来罪深い人間が、この聖書の基準なしで生きて行くなら、大変なことになっていたはずです。どれほど悪くなるかは想像することができません。聖書の存在の大切さは言うまでもないことです。しかしながら私たちクリスチャンとはいえ、聖書の通りに生きて行くことは至難のわざといえるのです。
  それは先ほど言いましたように、正しくて聖い神様と正しい関係でいたいという強い願望なのです。ところが、ときには神様の思いから離れてしまうこともあるのです。また神様に喜ばれない状況の時もあるのです。つまり神様との関係があまり良くないときがあるのですが、いつまでも神様から離れていたり、いつまでも神様に喜ばれない状況から立ち返って、神様と正しい関係を再構築することが大切なことであります。
  さらにこの山上の教えを、律法的にとらえてはいけないのです。つまりそうでなければならないという理解の仕方は、ますます聖書に照らして生きて行くことを困難にしてしまうのです。というのも神様のご意志通りに生きられる人っているでしょうか?実はいないというのが聖書の結論でもあるのです。
  アブラハムも保身のために自分の妻を妹と偽りました。息子のイサクも父と同じ罪を犯しました。ヤコブも完全な生き方は出来ていませんでした。モーセも不信になって、神様につぶやくこともありました。ダビデも夫を殺して、その妻を自分の妻とする大きな罪を犯して生涯に渡ってその罪に悩み苦しみました。そして主の弟子たちも失敗もあり、不完全な者でありました。パウロもまた、内なる罪と戦いました。そして彼は『「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受入れるに価するものです。私はその罪人のかしらです。』と言いきりました。
  完全な人間はひとりもいないのです。神様の前に正々堂々と立てる人間はいないのです。『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ローマ書3章23節)
  確かにマタイ5章6節では、義を求めて生きなさいとみことばは勧めているのですが、私たちはイエス・キリストによる十字架の贖いのわざによって、ただ信仰によってすでに義とされているのです。何と幸いなことでしょうか!
  もう一度このみことばの意味を考えてみましょう。そのためには、3―4節のみ言葉に触れなくてはいけないのです。その意味は、こうです。自分は神様の前では実に無力な存在であり、罪深い者であるという自覚、そのような者であることに深く悲しむ者は幸いですと主は言われたのです。そして神様を信じる者が御霊の働きによって付与される柔和さを備える者は幸いですと教えられたのです。そのような者の内にこそ義に飢え渇く心が備わって来るのではないでしょうか。
  まず自分が低くされ、へりくだり、内なる聖霊様の働きがなければ、決してこの義について飢え渇くことがないのです。ですからこれらの御言葉は互いに関連して語られているということであります。それぞれが独立しているのではないのです。次のあわれみ深いものは幸いですもまた同様に理解して行くべきであります。
  私たちは神様のあわれみによって、すでに義とされている者です(義認)。その者こそが、知りうる、あるいは理解できる義を大切にして生きて行くようにと主は勧めておられるのです。
  私たちクリスチャンは、キリストの十字架による救いによって、神様と正しい関係を持つことができたのです。そしてさらに積極的に、いつも神様と正しい関係にいたいと願う思いを持つことが、義に飢え渇くことであり、義に飢え渇く者ではないでしょうか。そのような者は、満ち足りると主は言われたのです。
  心の真の満たしとは、この世の物では得られないのです。神様から受ける物こそ、私たちの心は真に満たされるのです。私たちの空しい心に聖霊様が宿ってくださって、空しさから解放してくださいました。そして日々神様のみことばをいただくことによって、私たちの魂は養われて行くのです。
  冒頭で語りましたが、義に飢え渇くの意味について原語であるギリシャ語では、正しさ、不義や罪が一点もない。意思と思いと行動において、神様の意志に合致している。実生活の隅々まで、神様の正しさの原理が及んでいるということです。まさに神様のご意志はこのみことばにあるのです。
  このみことばに焦点を合せて日々歩んで行くなら、その人の魂は大いに祝福され、すばらしい満たしを経験することが出来るのです。 それは主の約束であります。
  『義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。』
  



『憐れみ深い者の幸い』
―あなたも行って同じようにしなさい―
マタイ5章7節   
       09.11.1
  今年5月のことですが、ご高齢の教会員の方ががグランドスーパーで買い物を終えて、電話でタクシーを呼ぼうとした時に、見しらぬ人から声をかけられて、「どこまで行かれるんですか」と聞かれました。そして、宮古までその人の自動車で送ってくださったということを聞きました。その人は名を名乗らず、「ただ薬王寺に住んでいる者です」とだけ言われて帰られたということでした。
  私はこの話しを聞いた時に、その親切の裏には何かあるのではとふと考えましたが、そのような心配は無用でした。人情味が消えつつあるこの世の中で、思いがけない親切を受けたときに、何か下心があるのではと考えてしまう自分に情けなさを感じた次第です。
  確かにこの世の中がますます悪くなって来ていることは確かですが、心の優しい人もまだまだおられるのです。
  そういう私も、一昨年のことですが、塾をしていた時の帰りに、財布を落してしまいました。たいした金額は入っていなかったのですが、ただクレジットカードを悪用されると大変ですから、カード会社に電話して、そのカードを使えないようにしてから、財布をあちらこちら、思い当たるところを捜しましたが見つかりませんでした。あきらめの境地で、とにかく最寄りの警察に行ってみました。すると警察官が、その財布には何が入っていますかと聞いて来た時に、その手には私の財布がありました。ほっとしました。どなたが拾ってくださいましたかと尋ねると、拾った人は名も名乗らず行かれたそうです。ただ若い女性の方でしたよということだけが分かりました。
  世の中にはまだまだ正直な人もおられることに安堵しました。
  その一方で、私がかつて友人や心安くしていた人に貸したお金がまったく戻って来ないという経験もあります。これらのことも含めて、世の中には色々な人がいるという現実に戸惑いは隠せないのです。
  人を信用してもいいのか、あるいは信用してはいけないのか、あるいは信用すべきなのかと問われるなら、簡単には答えられないというのが現実ではないでしょうか。
  では神様を信じているクリスチャンに対してはどうでしょうか?クリスチャンとはいえ、完全な者はいないのです。罪人であり、不完全な者であります。ですから時にはクリスチャンに対しても躓くこともあり、また自分がだれかに躓きの石を置く場合もあるのです。
  しかし、もし私たちが聖書の教えに聞き従うなら、その人は回りの人から信頼される人物となり、また信用される人物となるのではないしょうか。
  ところが回りの人たちは、私たちクリスチャンは、聖書の教えをいともたやすく実行できるものと思っておられるようです。その証拠に、クリスチャンが不親切なら何を言われるか分かりません。何か悪いことをするものなら、そのことが大きくとらえられて、どれだけ悪く言われる事でしょうか。ですからクリスチャンは、いつでも罪人宣言をしておく方がいいように思うのです。とはいえ、聖書の教えを実行することは無理ですと言うことも出来ないのです。
  特に山上の教えについて、その意味を学べば学ぶほどに、その教えを実行することの難しさを感じざるを得ないのが現実ではないでしょうか。
  しかし主イエス様は、私たちに不可能なことを、教え勧められておられるのかといえば、実はそうではないようです。
  それは過去における偉大な人物と言われる中に、クリスチャンが際立って多いのには何か理由があるはずなのです。それは普通ではできないことを、やり遂げたり、実行したゆえに称賛されているその背景には、聖書の教えの実践があるのです。
  けさの聖書箇所であります『あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。』という短い一節においても、どれだけ深い教えであり、実行するには決して容易ではないということが、その意味について学んで行くなかで分かってくるのです。
  ではこの憐れみ深いとはどういう意味でしょうか。
  これは、単に悲しい状況にある人に対してあわれみの心を抱いているという意味ではないのです。つまり困っている人に対する同情や、気の毒に思うという意味ではないのです。
  それは、【他の人の心の中にまで入って、その人の立場でものを見、その人の身になって考え、その人が感じるように感じることである。そのためには、ただ気の向くままに同情するのではなく、はっきりとした心情と意志が必要である。それはいわば、外側から与える同情ではなく、真剣に相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり、感じたりすることである。
  英語のシンパシー(同情)とは、ギリシャ語のスンとパスカインの合成語で、スンとは「一緒に」で、パスカインとは「経験する」「苦しむ」という意味があるのです。つまりシンパシーとは、「他の人と一緒に苦しむ」、他の人が経験していることを、自分も同じように経験するという意味であります。】(バークレー注解より)
  さて私たちクリスチャンは、どれだけ人の心の中にまで入って行くことが出来るでしょうか?困っている人への同情心は、私は持っていると思っていても、それは表面的なものに過ぎない、高い目線でしか見ていない、その人の心の中にまで感じることはないという現実があるかも知れません。
  もし主が教えてくださったあわれみ深さがあるなら、その人は、容易に人の過ちや悪意を赦すことができるのです。あるいは、自分に対する無礼な態度や、見下げた態度にも寛容であることが出来るのです。なぜなら相手の立場に立って考えることが出来るから、なぜその人は、そのようなことをするのかを冷静に判断でき、理解できるからなのです。
  これは人に対するなかなか難しい見方であります。しかし、それらはこの「あわれみ深い」という本来の意味に含まれている見方なのです。
  フランスのことわざに、「すべて知ることは、すべてを赦すことである」というのがあります。本当の同情心は、すべてを知ったうえで、相手のことを気遣うだけでなく、相手の必要に答えることなのです。ですから相手の立場に立たなければ、あるいは相手の心の中にまで行かなければ、その人のことを知ることはできないのです。そのような状況においてあわれむ心こそが真の同情心と言えるのです。
  このことは、まさに主イエス様が教えられた「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」に通じるのであります。「自分と同じように!」です。
  では、主はどうして自分と同じようにと言われたのでしょうか?なぜならそれは、自分が一番可愛いから、あるいは一番大切だからではないでしょうか。
  そして、その愛を実践してくださったのが人となられたイエス・キリストなのです。それらのことを教えているのが、ピリピ2章3―8節ではないでしょうか。『何事でも自己中心や虚栄心からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』であります。
  このようなお方ゆえに、「あわれみ深いものは幸いです」と語ることが出来るのです。そしてあわれみ深い人の幸いとは、そのあわれみ深さによって、その人も同じようにあわれみを受けるから幸いであります。
  ルカ10章25―37節において、良きサマリヤ人のお話が書かれています。皆さんもよくご存知の物語であります(強盗・祭司・レビ人・サマリヤ人)。
  このお話で一番大切と思われるところはどこでしょうか?22節の、サマリヤ人が、強盗に襲われて、ひどい目にあわされていた人を見て、かわいそうに思ったことでしょうか。もちろんそのような思いやりも大切なことです。
  しかし先ほど出てきた同情心(シンパシー)とは、「一緒に経験をする」「一緒に苦しむ」という意味であることを学びました。これこそが主が教えられたあわれみの本来の意味であります。
  ですからこの良きサマリヤ人のお話において大切なことは、34―35節ではないでしょうか。『近寄って、介抱してあげた。もっと費用がかかったなら、私が帰りに払います』という具体的な行動であります。
  聖書は、その教えがすばらしいと感心したり、感動したりするために書かれたのではないのです。たしかに聖書は人々に多くの感動を与えてくれる書物です。その教えから学ぶことは測り知れないほどたくさんあります。
  そして、主イエス様の山上の教えを一節一節学ぶことに意義はあります。しかし大切なことを見失わないようにしましょう。
  それは、みことば(聖書)は学びだけで終わるものではなく、あるいは学びだけで満足するものではいということです。
  このみことばには、こんな意味があったのかと知っただけで十分と思ってしいまいがちなのです。知ったこと行うこととには大きな隔たりがあるのです。
では主イエス様は、サマリヤ人のたとえを話された律法の専門家に何と言われたのでしょうか?『この3人の中で、だれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか、彼は言った。その人にあわれみをかけてやった人です。するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしないさい!」』 
 主イエス様は、私たちもみことばを実行するために教えてくださったようであります。






『心のきよい者の幸い』
ー神を見るとはー
   マタイ5章8節 
       09.11.22
今なお新型ウイルスは拡大しているのですかが、ウイルスは私たちの肉眼では決して見ることはできません。しかし、電子顕微鏡でその存在を見ることが出来るのです。
人間の目は実にうまく出来ているのです。もし電子顕微鏡のように見え過ぎると大変です。空気中に浮遊している細菌やウイルスまでも見えるなら、気持ち悪いものです。
しかし、目はほどよく見えるように造られているのです。もちろん目だけではありません。耳もそうです。聞こえ過ぎるとやかましくて気が狂いそうになるかも知れません。私たちの体のどの部分を見ても非常にうまく出来ているのです。人間だけではありません。実にすべての被造物は完璧に造られているのです。
創世記には、神様が天地万物を創造されたと書かれているのです。それは無から有の創造であります。つまり神様は見えないものから、見えるものを造られたということです。
ヘブル書11章3節に『信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』と書かれているのです。何もない状態((霊の世界)から、神様が『光よあれ』と言われると、光が出来たのです(創世記1章3節)。
私たちの目では見えなくても存在しているものは数え切れなくあります。ただ肉眼では見えないだけです。それらも見える世界に存在しているのです。
しかし、見えない世界に存在しているものがあるのです。それは霊の世界であります。聖書では、霊の世界における天使や悪霊の存在を明らかにしています。そして神様は、私たちの目では見ることのできない霊の世界をも造られたお方であります。それゆえに、私たちの肉眼では決して神様を見ることはできないのです。
ところがけさの聖書箇所で主イエス様は『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです』と言われたのです。いったいこの御言葉どういう意味なのでしょうか。
まず『心のきよい者』とはどういう意味があるのかを見て行きましょう。
このきよいには、三つの意味があります。一つは単に清潔であるという意味です。二つ目は、籾殻が取り除かれた穀物。三つ目は、水増ししない牛乳や、化合物のない純粋な金属という意味があります。
ですから、ここでのきよいとは、混ざりけのない、純粋なもの、あるいは全くきよいものといった意味と考えられるのです。その意味を人について言うなら、心が純粋である。罪汚れがない。と考えることが出来るのです。
とはいえ、すべての人は罪を犯したと聖書が言っているように、罪のない人間はいないのです。ではこのきよい者とはどのような人を指しているのでしょうか。その意味を知るためには3節から7節の『心の貧しい者』『悲しむ者』『柔和な者』『義に飢え渇いている者』『あわれみ深い者』のみことばの意味をもう一度振り返る必要があるのです。
なぜなら、これらのすべてのみことばはお互いに関連しているからです。
心の貧しい者とは、自分は神様の前では、罪深くて、小さい存在であることを良く知っている者です。そのことを知って悲しむ者は幸いなのです。そしてそのような者は、人に対して優しくて、忍耐強いのです。柔和とはへりくだった者と訳せることばであります。そして義に飢え渇くとは、神様の義を大切にして生きることです。以上のような人は、当然、人に対して非常にあわれみ深いという良き品性を兼ね備えているのです。そのような相互の関連の中で、心のきよい者は幸いであると言われたのです。
3節から7節にある幸いを持っている人は、心のきよい者と呼ばれるにふさわしい人なのです。と言ってもその人には罪がないという意味ではなく、罪はあるが、神様を信じることによって、その罪深い心がきよめられて行く人のことを指しているように思われるのです(それは、当時の人々や旧約聖書の時代において、神を信じている人々の心の中で起こったものと思われます。)
それは今日における私たちクリスチャンにも言えることであります。神様を信じているものがきよくなりたいという思いがあれば、神様はそのような人を喜んできよめてくださるはずです。
私たちは、神様に祝福されることをいつも願うものです。日々の生活、健康、仕事、何につけても神様が祝福してくださることを切に祈り願うものですが、きよめられることにおいても神様に祈り求めて行きましょう。なぜなら、聖書(第一テサロニケ4章3節)は、『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。』と勧めているからです。
とはいえ、神様を信じるだけで自動的にきよめられるのではないのです。
罪に背を向けて、罪から離れて毎日の生活を送って行くことが大切なことです。そのためには自分だけの力ではできないのです。聖霊様の助けが必要です。きよい歩みをするためにはどうしても神様の助けが不可欠なのです。自分の力で出来ると思うこと自体すでに傲慢の罪を犯してしまうのです。

さて、3節から8節にある幸いについて気づくことがあります。それは、すべて心の問題を取り扱っているのです。つまり主イエス様は心の在り方について語られているのです。しかもその心の在り方によって、神様を見ることが出来ると言われたと思われるのです。
聖書はこう言っているのです。ヘブル書12章14節『きよくなければ、だれも主を見ることはできない。』と。ではこの主を見るとか、神を見るとはどういう意味なのでしょうか。もちろんそれは、肉眼で神様が見えるという意味ではないことは言うまでもありません。
神を見るとは、それは神様を体験するということであります。確かに神様は生きておられるという体験であります。
神様のことを聞いて信じるということも神体験であります。しかしそれだけにとどまらずに、日々の生活の中で、神様と共に歩んでいるという体験こそが、神様を見ることであり、祈り願いが聞かれたという証しもまた、神様を見るという体験であります。
神様を切に求めて、いつも神様のことを思いつつ生きて行くなら、その人は神様を見ることができるはずです。目には見えませんが、心で神様を見ることが可能となるのです。
主イエス様はいつも心を大切にされました。心の伴なわない形式的な祈りを忌み嫌われたのです(マタイ6章5、7節)。
また主イエス様は、心の伴なわない宗教は災いであるとも言われたのです(マタイ23章全体)。6章21節で『あなたの宝あるところに、あなたの心もあるからです。』と主は言われ、続く25節の心配も心の問題であります。さらに7章1節の「さばいてはいけません」も心の在り方が問われているのです。
もちろんどんな宗教であっても心の問題を強調しています。しかし、他の宗教とキリスト教との決定的な違いとは何でしょうか。それは、その人の心が純粋で、汚れがなく、きよい者であり、その人は神を見るということではないでしょうか!
あたかも神様がいるかのように振舞うのは偽善であり、洗脳によって神様がいると信じ込んでいるなら実に悲しむべきことであります。
また、私は神体験をしましたということ耳にすることがあります。不思議な体験はいくらでもあるのです。でも信じることがすべてであるという教えは非常に危険なものです。たしかに信じることが大事であるとよく言われます。
しかしそれは良いものも悪いものも信じてしまうというリスクが伴ないます。大切なこととは、信じても良い(価値あるもの・確かなもの)ものを信じることです。
聖書にある信じる(ピストス)とは、確実なことを、間違いないもの、信頼に値するものを心に受入れることです。同意することです。それこそがアーメンという意味であります。
先ほど、どの宗教も心の問題を扱っていることを話しましたが確かにそうです。しかし聖書は私たちの心の問題をいかに扱っているでしょうか。
それは、人間の根本問題は私たちの心の中にある罪であると教えているのです。そしてすべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない(祝福を失っている)と教えているのです(ローマ3章23節)。
そのような者が、神様を見る(神様を体験する)ことができるようになった背景に何があったのでしょうか。それは人となられたキリストのご恩寵によるのです。『ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い(十字架の死)ゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ローマ書3章24節)
罪人が神様を見ることはできないのです。また許されないことであります。しかしキリストによって罪を赦された人は神様を見ることができるのです。私たちの罪の問題と神を見ることとは非常に関わりが深いのです。
イエス・キリストこそ私たちの罪を背負って十字架につけられ、私たちの罪のきよめのために十字架で死なれた方であります。十字架に付けられて激痛の中でとりなしてくださったキリストの内に神の愛を見るのです。そして主は言われたのです。『わたしを見た者は、父を見たのである。』ヨハネ14章9節
  





『主の祈り(Ⅰ)』
  ―祈りの基本―
   マタイ5章9,10節   
       10.5/16
  何かを身に付けるときに大事なことがあります。それは基本を大切にすることです。私がスキーを始めた時に、一緒にスキーを行った人に教えてもらいましたが、その人も初心者であったために、見よう見まねで練習しました。その後何度かスキーに行きましたが、どうも上手くならないのです。そこである時に、スキー教室に入りました。するとその教室の指導者が私を見て、残念ながら基本が駄目。変なくせが身に付いてどうにもできないと言われショックを受けました。いくら滑っても上手くならないはずです。我流がいけなかったのです。その反対に、基本をしっかり身に付けて良かったことも経験しました。それは中国語の発音でした(自分で言うのはおかしいのですが)。これは最初に教えてもらった人の指導が良かったからです。スポーツ・学問・芸術やその他なんでも基本は大切にしなければなりません。
  さて、けさは祈りの基本について学びます。何年もいや何10年も祈ってきたのに今さら基本を学ぶ必要はないでしょうと思われるかも分かりません。もちろんこの主の祈りについては何度も学びましたという方もおありかと思いますが、繰り返して学ぶ価値は十分にあると思います。なぜなら、みことばの学びにおいては常に新しい発見があるからです。
 さて、この主の祈りの全体を大きく二つに区分出来るのです。一つは9、10節の神様に関わる願いと、もう一つは11―18節の私たちに関わる願いであります。まずこの区分が祈りの構成の基本であります。そしてその区分だけでなく、その順序が大切であります。
 けさは9節と10節から学びましょう。
 今その順序が大切でありますと言いましたが、私たちが祈り始めるときに、自分のことから祈りやすいものですが、もし私たちがいきなり自分の願いから祈り始めるなら、それは神様を恐れ敬う態度ではなく、神様を自分の必要や自分の都合に答えてもらうための道具にしてしまうのです。
 ですから、祈りにおいて重要なことは、祈る人にあるのではなく、祈っているお方がどういう方なのかということです。もちろん神様は私たちの祈りに答えてくださる方でありますが、神様は私たちの祈りに答えることにその存在価値をもっておられるのではなく、存在そのものに価値を持っておられるということを把握する必要があるのです。それは祈りについて誤解しないためです。
 たとえ、私たちの祈り願い通りに答えられなかったとしても、神様は偉大なお方であり、恐れ敬うべきお方であります。というわけで、第一の神様に関する祈り願いとは、御名があがめられることです。
 イエス様は、『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』(9節)と祈るように教えられたのです。この「あがめる」とは、聖別する。崇拝する。神聖に保つという意味があります。そして御名とは、神様ご自身を指しているのです。つまり神様ご自身がほめたたえられるようにという神様に対する熱い願いであります。
 ですから、私たちの祈りおいて、まず神様を礼拝するという姿勢が重要なのです。出エジプト記20章7節で『主の御名をみだりに唱えてはならない』と戒められています。私たちの祈りが、いつのまにか習慣化してしまって、心の伴なわない神への祈り(礼拝)になっていないかを常に注意しなければいけないのです。
 たとえば、礼拝における主の祈りの唱和が言葉だけのものとなってはいないでしょうか。心の伴わない祈りにおいて、主の御名をみだりに唱えるという危険性が潜んでいるのです。習慣的に祈っているときに、神様をほめたたえることがおろそかになったり、安易に神様の前に出てしまったり、無意識で心の伴わない言葉だけの祈りであったりすることに注意が必要なのです。
 さて、御名をあがめる理由とは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、父なる神様の御前に祈れる者としてくださったのです。私たちが価値あるから神様の御前にはばかることができるのではなく、キリストの尊い価値ある十字架の死という犠牲によって、父なる神様の前に出ることが許されたのです。それゆえに、神様をまずあがめることから祈りが始まるのです。
 私たちは祈るたびに、神様を恐れ敬うことが心の最高位を占め、最大の求めとなっていることが、祈るときにまず求められるのです。
  次に10節を見ましょう。第二の神様に関する願いとは、「御国が来ますように」という願いであります。
  第一の御名があがめられるというのは、神様の存在に対する畏敬の念であります。そして次の御国が来ますようにとは、神様のご支配がこの世界に及ぶことの期待であります。まず神様様とは偉大なお方であることを認識して、そしてその神様に地上のご支配を願うのです。まず神様への礼拝があり、そして次に神様に関する祈りがあるというその順序が大切なのです。
  では御国が来ますようにとはどのような意味を持っているのでしょうか。それは神様の義がこの世界を支配することであります。私たちの願いはここにあるべきです。それは不正がまかり通る世界に、正しいことが正しいとされる真実な世界が来ることです。また真の平和が来ることです。そして悪がこの地上から滅び去ることです。
  しかしながら世界の現状は矛盾や不条理なことが多くあるのです。神様の義はどこにあるのかと疑う人々も少なくないのです。たしかに人々は平和を求めているのですが、一向に平和が来る気配がないのです。それどころか世界のどこかで戦争や紛争があるのです。
  では主が祈れと言われた『御国が来ますように』という祈りは空しいものとなるのでしょうか。そうではないのです。主イエス様がこの世界来られたこと自体が、すでに御国の到来でありました。『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』(ルカ11章20節)もう一つの御国は、マタイ3章2節にあります。『悔い改めなさい。天の御国は近づいたから』英訳ではもうすでにあなたの手の中にあると訳されているのです。悔い改めとは、心を入れ替えて神様を信じることです。そして神様を信じた時に、天国はその人のものとなるのです。
  つまりその人の所に天国が到来したのです。それがマタイ5章3節であります。『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』神様を信じた時に御国が来るのです。
  ですから御国が来るようにという祈りは、キリストの地上の完全支配という期待だけでなく、この世界において一人でもまことの神様を信じて救われる人が起こされるようにとの、とりなし(宣教の祈り)の祈りでもあるのです。ですから、私たちの礼拝における主の祈りにおいて、御国が来ますようにと祈る時に、一人でも多くの方がイエス・キリストを信じますようにとの思いが伴っていることを心に留めて唱和しましょう。
  キリストの地上支配と言っても、なおこの世界はサタンの支配下にあり、罪の力によって、私たちは翻弄させられるのですが、神の御子を信じた者は、サタンの支配からキリストの御霊の支配を受ける者とされ、しかも世に打ち勝つ者とされたのです。罪の奴隷から解放され、キリストに仕える者(キリストの奴隷)とされたのです。
  つまり神様を信じる者には、御国がすでに到来しているのです。そしてこの御国が来ますようにとの祈り願いとは、キリストの再臨を願うことでもあるのです。キリストの地上再臨こそ、キリストの地上支配の完成の時であります。
  たしかに、この地上においては、不公平なことがあり、不条理なことがあり、どうして自分だけがという不平不満もあります。納得のいかないことも多々あるのです。悲しいことや辛いことも経験します。しかしキリストの再臨の時は、神を信じている者が報われる時です。神様からの祝福を受ける時です。
  ですから、この御国が来ますようにと祈ることは、今は苦しい、あるいは厳しい状況の中にあっても、主の再臨という希望の日を待ち望む祈りでもあるのです。それは忍耐の心を持って祈ることなのです。『御国が来ますように』という祈りの意味をよく考えるなら、決して習慣的な祈りにはならないのです。
  最後に三つ目の神様に関わる願いとは、『みこころが天で行われるように地でも行われますように。』であります。 これは神様のみこころに対する全幅の信頼と神様のみこころに服従する心を表わす祈りであります。
  イエス様が、ゲッセマネにおいて十字架刑を前にして、父なる神様に祈られた祈りは、まさに神様のみこころを求める祈りの最高の模範であります。その祈りとは、『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』(ルカ22章42節)
  主イエス様も私たちと同じ肉体をお持ちであります。恐ろしい十字架刑の苦しみから逃れられるものなら逃れたいという本音が、この祈りから十分に伝わってくるのです。しかし、わたしの願いではなく、主のみこころがなるように願われたのです。ここに主の父なる神様に対する全幅的な信頼と服従心を見ることが出来るのです。
  ここでの神様のみこころとは、9節、10節にある神の御名と御国に関わるものなのです。神の御子イエスは罪人のために犠牲となられたところに神様の愛を見ることできたのです。ここに私たちが主の御名をあがめるわけがあるのです。
  さらに御国の到来(キリストの再臨)こそが完全な神のみこころの完成(成就)であります。
  私たちが神様の御心を祈るためには、この聖書から神様の深いみこころを知らなければならないのです。『みこころが天で行われるように地でも行われますように。』
  これは、ことばを祈り唱えればよいという単純な祈りではなく、聖書全体を通しての神様の深いみこころを知り、瞑想する中で唱和される祈りなのです。願わくは、さらに私たちの霊の目が開かれて、このみことばから神様のおおいなるご計画をもっともっと知ることができますように。そしてそのご計画が、私たちの思いや私たちの願いではなく、主のみこころのとおりになりますようにと祈らなければなりません。
  けさは、主の祈りの前半部分を学びました。それは祈りの初めに心がける大切なことは何かということを学びました。
  結論として、9,10節の「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」という神様に関する願いと祈りの主旨を正しく理解し、大切にするなら、神様はその人の祈りに祝福をもって答えてくださるはずです。第一ヨハネ5章14節
  
  
  
  
  
『信仰と迫害』
   マタイ5章10―12節
      09.12.6
聖書の中で最初の信仰による迫害を被った人物は、アベルではないかと思うのです。というのは、彼は兄のカインによって殺されました。そして殺された理由とは、神様がアベルの献げ物を受入れられたのですが、カインの献げ物に目を向けられなかったために、彼の激しい怒りが弟アベルに向けられた結果、アベルはカインに殺されてしまったのです。それは神様への信仰という関わりの中で生じたという意味では、信仰による最初の迫害と言えるのではないでしょうか。
  この聖書の中には信仰による迫害が数多く記録されているのです。まさにキリスト教は迫害の歴史を歩んで来た世界でも代表的な宗教と言えるでしょう。
  もれなく、私たちの属するメノナイトの群れも、かつては迫害の歴史を乗り越えてきた群れであります。ルターによる宗教改革の時代(1517年)からおよそ10年後、当時のヨーロッパは、国教制度が社会の骨組みとなっていたために、アナバプテスト(再洗礼派)の人々は、信仰の自由、国家と宗教の分離を主張した彼らの信仰運動は、国家秩序への脅威と見なされ、多くの人々が迫害され、殉教死したのです。そのアナバプテストの群れの中にメノナイトの群れの人々もいたために、彼らも迫害を免れることはできませんでした。ルター派プロテスタント)とカトリックの人々が互いに手を組んで(当時は合法的であった)、25年間も迫害し続けたために、数千人のアナバプテストの人々が虐殺されました。メノナイトの群れの人々はオランダ、ドイツ、ロシアへと逃れていきましたが、迫害は止むことはなく、とうとうアラスカを回って、カナダや北米に逃れて、さらに長い年月の中でようやく信仰の自由を勝ち取ることがで来たのです。
  その群れから第二次大戦後、日本に多くの宣教師が遣わさて、日本MB教団が生まれたのです。
  さて、歴史を振り返るなら、迫害は決してキリスト教を衰退させるものではなく、むしろ、迫害によってより力強く福音(神の救いのみことば)が前進し、キリスト教は世界に広がって行ったのです。反対に、信仰の手厚い保護と物質的な繁栄は、キリスト教にとって堕落と後退への道になり兼ねないものとなりました。
  さて、この迫害の意味は、「後を追う、敵意を持って追求する、責める」という意味があるようです。英語ではパースキュートで、それは特に異教徒に対する迫害、あるいはしいたげという意味があります。
  では、けさの聖書箇所から迫害について三つのことを考えてみたいと思います。
  まず第一は、なぜ義のために生きる者が迫害されるのか(なぜ正しく生きる者が苦しまなければならないのか)。
  第二は、なぜ、神様は愛なる方であり、義なる方であり、あわれみ深く、力ある方であるのに、迫害されている信仰者たちを守り、助けられないのか。
  そして第三は、なぜクリスチャンは迫害に甘んじ、耐え忍ぶのかということです。

  まず第一のことについて見ましょう(なぜ義のために生きる者が苦しまなければならないのか)。10節において、確認すべきことが有ります。それは、ここでの幸いな人とは、クリスチャンに落度のゆえに迫害されている人、狂信的な信仰のゆえに迫害されている人、あるいはキリスト教的な思想によって迫害されている人が幸いであるとは言われていないということは明らかであります。
  主イエス様は、義のために迫害されている者は幸いであると言われたのです。もっと言うならば、その信仰深い生き方のゆえに迫害されている者は幸いであると言われたのです。先ほどのアベルとカインの物語もしかりです。アベルは義のために(信仰深い生き方ゆえに)迫害されたのです。
  バビロンに連れられたダニエルもまた、異教世界において、唯一真の神への信仰を守り通したゆえに、檻に入れられ、ライオンの餌食とされそうになったのです。他にノア、モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった預言者たちも迫害を受けたのは、彼らの人間性に問題があって迫害されたのではなく、彼らの信仰のゆえに、義のために生きたために迫害されたのです。
  何よりも主イエス様がその実例であります。当時の王や、宗教の指導者たちが、イエス様を迫害したのは、主イエス様の生き方において、何か落度や、不正や、罪があったからではなく、むしろその生き方において、完全であり、何の偽りもなく、罪を犯されなかったにもかかわらず、主は犯罪者にされ、十字架刑で殺されたのです。
  なぜ義のために生きる者が迫害されるのか?それは、義のために生きることによって、それ以外の生き方の人を罪に定めるからです。つまり主イエス様の生き方こそが、すべての人を罪に定める宣告でもあったのです。主イエス様が義のために生きられることは、当時の宗教家たちを罪に定めるものであったのです。なぜなら彼らは口では信心深いのですが、行ないは不義であったからです。彼らの内心は、主イエスの存在が面白くないのです。また都合が悪いのです。しかし人々は、自分たちよりも主イエスの教えに耳を傾けることによって、主イエスを妬み、憎しみが深くなって行ったのです。
  ひとりの義人を煙たがり、多くの同罪者を見て安心するというのが、私たち人間が持ち合わせている罪性ではないでしょうか。第二テモテ3章12節『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きよう(信心深く生きようとする者は Godly―神を敬う・信仰深いー life 口語訳)と願うものはみな、迫害を受けます。』と語っているのです。
  次に、なぜ神様は迫害されている者を守り助けられないのかということです。そのヒントは、10節の天の御国はその人のものだからです。12節の天においてあなたの報いは大きいのだからというみことばにあるのです。イエス様の時代のユダヤの人々の間には、地上の王国の樹立という希望と期待があったのです。『主よ、今こそイスラエルのために国を再興して下さるのですか。』という彼らの期待に反して、主は『いつとか、どんなときとかということは、あなたがたは知らなくてよいのです。父がご自分の権威をもってお定めになっています。』と言われたのです。
  また主イエス様がこの地上に来られた目的は、ヨハネ3章17節『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。』第一テモテ1章15節『「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受入れるに価するものです。』にあるのです。
  つまり主は、やがては朽ちていく命よりも、罪によって失われた永遠のいのちを与えることを最優先されたのです。主のみこころは、迫害にあるクリスチャンを守り助ける力強い神様に目を向けさせることにあるのではなく、ゴルゴダの十字架に釘付けされた主イエス様の贖いのみわざに、信仰の目を向けさせ、その神の愛を知ることによって、一人でも多くの人が救われることにあるのではないでしょうか。そして、義なる者を迫害した悔い改めない罪人に対するさばきは、後の時代(キリストのさばきの座)に定められているのです。
  ところで、10―12節のみことばは、義のために(信仰深く生きる)生きる者は、迫害は避けられないことを前提として主は語られているということです。しかしその幸いは、天の御国の約束とそこでの報いの大きさにあるのです。
  最後になぜクリスチャン(信仰者)は、迫害に甘んじ、耐え忍ぶのかということです。それは恐らく、神様と神様のみことばに対する信頼と信仰によると思われるのです。と同時に迫害の中にあっても、耐え忍ぶ者を強め守られるという事実にあるからではないでしょうか。
  そして何よりも、それはキリストが教えられた愛の実践ではないでしょうか。マタイ5章44節『わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるのです。』
  人に対する神の愛の実践こそが、人々は、その迫害に対する矛盾に気付き、人の罪深さに気付かせ、人々に神様が存在されるという確信を与えることが出来るのです。
  かつてテルトウリアヌスは「殉教の血は、教会の種」と言いました。神様は教会の祝福のために、何よりもさらに多く人が救われるために、迫害という試練さえもお用いになられるのです。そしてそのような試練は、クリスチャンがキリストにあって敬虔に生きようとするなら起こる得るということであります。
  信仰深い生き方ゆえに困難、誤解、無理解、敵対心、非難、嘲り、ののしり、反対、そして孤独を経験することがあります。しかし恐れることはないのです。そのような者のためにこそ語られた主のみことばが10―12節ではないでしょうか。






『天の父があがめられるように(1)』
―あなたがたは地の塩―
   マタイ5章13―16節
        10.1.17
  私が22歳の時に、十二指腸潰瘍で手術したときのことです。術後の食事は重湯からおかゆ、そしてご飯という具合に柔らかい物から徐々に固い物が出されました。しかも最初の頃の重湯とおかゆには全く塩気がありませんでした。それでもなぜかおいしかったことを今でも覚えています。ところが元気になってくると、塩気のない食事は実に味気のないものでありました。ある旅館の宣伝でしたが、一匹9800円もする高級あわびを料理している番組がありました。皆さんの中にもあわびが好きな方もおられるかと思いますが、私もあわびは好きですが高くてなかなか手が届きません。
  さて、その料理を見ている時に思ったことは、どんなにおいしいと思うあわびであっても、実はバターで炒めることによっておいしくなるのです。あわびだけではむしろ味もなく、それほどおいしくはないのです。刺し身も同じです。どんなにぴちぴちしているおいしそうに見える刺し身であっても、醤油がないと、あるいはワサビが無いとあまりおいしくないのです。言いたいことは塩気です。適度な塩気があってこそ、海の幸をよりおいしく頂くことが出来るのです。もちろん他の料理にも塩気は大切なものであります。塩それは実に身近な物であります。毎日体感している物であります。
  けさの聖書箇所でイエス様が塩について語られました。そしてもう一つは、光であります。この光もまた私たち生き物にとっては実に身近で、貴重なものであります。もしこの地上から塩がなくなり、また光がなくなるならどうでしょうか?この世から味気がなくなり、そして世界がやみの中に包まれるのです。もちろんなくなれば困る物は他にもたくさんあります。しかしその中でも私たちにとってより身近な塩と光を用いて、イエス様は私たちクリスチャンがどうあるべきかを教えられたのです。
  けさは塩(光については次週となります)のお話から私たちクリスチャンはどうあるべきかを学びましょう。
 まず13節で、『あなたがたは地の塩です。』と言われたのです。それは塩の存在が大切であるように、クリスチャンの存在も大切であることを教えられているのではないでしょうか。長年連れ添ってきた夫婦というものは、お互いの存在の深さに気付きにくいものであります。それは、二人はいつも一緒が当たり前という感覚にあるからです。ところが、やがてどちらかに先立たれると、その時にその伴侶の存在の大切さに気付くということをしばしば耳にするのです。これは失った時に始めてその大切さに気付くというよくある事例であります。
 もちろん私たちクリスチャン夫婦は、常日頃お互いの存在の大切さを忘れないようにしたいものです。大切なことはその存在に価値があることであります。むしろいない方がいいと思われる、あるいは言われるようではいけないのです。
 では塩の存在の価値とは何でしょうか、それは主が言われたように、塩気があることです。実は、塩気を無くした塩なんて聞いたことも味わったこともないのです。塩は塩です。しかし主は、ここで塩が塩気を無くしたら、役たたずで、無用な物になると言われたのです。もしこの世からキリスト教がなくなればどうでしょうか。さらにこの聖書がなくなればどうでしょうか。もしイエス・キリストによる魂の救いがないなら、この世はどういうものとなるのかということです。
 言うまでもなく、それは私たちが神様を信じる前の時の心がどのようなものであり、この世が私たちの心(魂)に与えてくれるものがどのようなものであったかを考えるなら自ずと分かってくるのではないでしょうか。
 私自身の例を挙げてみたいと思います。神様を信じていなかった頃の私の心は、一言で言うと味気がなかったということです。何を食べても飲んでも、一時的には満足があるのですが、いつまでも続くことはなかったのです。つまり心がすぐに飢え。また渇くのです。ここで食べるとか、飲むというのは言うまでもなく、心が満たされるために、あれこれとこの世のものを求めて生きることであります。結論的には何をしても、心の空しさは消えることがなかったということであります。
 しかしイエス様を信じ心に迎え入れた時に、私の心が神様の平安で満たされたのです。かつての空しさから全く解放されました。『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」』(ヨハネ6章35節)『わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。』(ヨハネ14章27節)
 神様の約束の通りに、私の心は味付(霊的な)けられたのです。神様の平安を頂いて、心に真の喜びを持って生きるクリスチャンの存在が、砂漠のように渇いているこの世には必要としているのではないでしょうか。
 イエス様はここで、クリスチャンは、広大な砂漠の中でオアシスの役割を果すようにと勧められているのではないでしょうか。
  さて塩のもう一つの大切な役割とは何でしょうか。それは言うまでもなく腐敗を防ぐことです。つまり主は、私たちクリスチャンはこの世において防腐剤の役目を果しなさいと勧められているのではないでしょうか。
  この世の中が益々堕落することがないように。邪悪な世の中にならないように。罪に満ちた世界にならないために、クリスチャンの存在が重要だと主が教えられたと思われるのです。『あなたがたは地の塩です。』と言われた中には、塩気だけなく、腐敗を防ぐことも意味しているはずです。ですから塩気を無くした塩は何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
  この「だけ」という言葉は重要でしょう。それはそのものの本来の役割を果せず、意味のない存在となったことの強調であります。私たちクリスチャンはこの「だけ」にはならないように注意しないといけないのではないでしょうか。役に立たないために、捨てられるだけ、踏みつけられるだけという存在となってはいけないのです。
  クリスチャンは、ますます堕落して行く罪の世界において、防腐剤の役割という責任が担わされているのです。いや神様がそのことのために私たちを選んで下さったと言えるでしょう。元々は私たちも神様を知る前は、罪の中にあり、神様の永遠の滅びという裁きを待つ「だけ」の者であったのです。そのような者のために、イエス・キリストが私たちの罪からの救いのために十字架で身代わりとなって死なれたのです。神様はすべての人々の救いのためにイエス・キリストをこの世界に遣わされたのです。どのようなものでも役に立たなくなると「だけ」になるのです。
  しかし神様はそのような者のために愛を実践されたのです。私たち人間が無用(無益)な存在にならないように、そして私たちが有用(有益)な存在となるために、神様はご自身の愛を私たちに示されたのです。
  では防腐剤の役目とは何でしょうか。それは抑止力であります。腐敗を防ぎ、その進行を遅らせることです。堕落して行くこの世において、クリスチャンの存在が必要です。私たちが客観的に見る限り、この世自身に自浄能力はないのです。人々は常に自己の欲望を追い求め、自己満足の世界を求め、罪を悔い改めることなく、罪に支配されて、不道徳や不正や不義が蔓延り、ますます堕落して行くのがこの世なのです。そのような社会において、煙たがられる存在が必要です。義を行なう存在が必要なのです。
  ノアの時代において、ノアの家族は神様に従う唯一の存在でした。当時の人々の目から見て彼らの生き方は、非常に馬鹿げたものに写りました。しかし、ノアが120年もかかった箱舟造りこそ、神様のさばきの猶予期間でありました。つまりノアの行為は諸悪の抑止力となっていたのです。
  私たちも神様のみことばに従う生き方こそ、この世が悪に染まる中での抑止力となりうるのです。そして、私たちが神様に従って生きていること自体が、この世の堕落による神様のさばきから少しでも遅らせているものであることをご存知でしょうか。
  マタイ24章14節に『この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。』この福音とは、その内容がすべての国民に伝えられるだけでなく、その内容にふさわしく生きて行くクリスチャンの証しも含まれているのではないでしょうか。『ただキリストの福音にふさわしく生活(御国の民の生活を)しなさい。』(ピリピ1章27節)と勧められています。
  どれだけたくさんの人々に福音のすばらしい内容(イエス・キリストによる贖い)が伝えられても、私たちの内にその実がないなら、あるいは見えないなら、その福音は力を失うのです。私たちはこの世にあって防腐剤の役目を託されているのです。『もし塩が塩気をなくしたら、何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。』
  ある人たちが、何か下品な話題を話し合っていたとします。そこへキリスト者が仲間に加わると、彼の存在が直ちに効果を現わす。彼は一言も言わない。けれども人々は口を慎み始める。そのとき彼は、すでに塩として行動しているのである(ロイド・ジョーンズの山上の説教より)。
  主イエス様は、『あなたがたは、地の塩です。』と言われました。塩気のないこの世において、塩味の効いた存在となりたいものです。それは決して難しいことをするのではないのです。主のおことばに聞き従う生活をすることにあるのです。まさにその生き方こそ天の父があがめられるものであります。