『山上におけるイエス様のお話し(Ⅱ)』 マタイ5章17-58節

『イエス様と律法』
   マタイ5章17―20節
         10.2.7
  しばしばアメリカはキリスト教国家と言われます。では日本はどうでしょうか?私の家の宗教は仏教ですという人が多いということでは仏教国と言えるのかも分かりませんが、やはり日本は神道国家ではないかと思います。
というのは、神道こそが日本古来からの国家宗教であるからです。共産主義国家以外のほとんどは、その国には何らかの中心的な宗教が存在しているのです。
 たとえばこの聖書に馴染み深いイスラエルの代表的な宗教と言えばユダヤ教であります。イスラエルにおいては、キリスト教は少数派であります。またイスラエルでは、金曜日はイスラム教の休日となり、イスラム寺院にたくさんの人々が集まり礼拝が行なわれ、土曜日はユダヤ教の休日となり、多くの人々が会堂に集まり礼拝が行なわれ、そして日曜日はキリスト教の休日となり、教会で礼拝が行なわれるのです。
 首都エルサレムはこれら三つの宗教が混在している所です。中でも少数派のキリスト教の人々はどちらかと言えば肩身が狭いという状況があるのかも知れません。キリスト教はこのイスラエルの地から発祥したにもかかわらず、未だに少数派にとどまっているのが実に不思議であります。
 しかし、やがてイスラエルにおいてイエス・キリストを信じる人々がたくさん起こると聖書に預言されていることは皆さんもよくご存知のことであります。ということで、ユダヤ教の人たちは、旧約聖書を聖書と主張しています。彼らにとっては新約聖書を聖書として認めないのです。その大きな理由は、イエス・キリストをメシヤ(イスラエル民族の救い主)として受入れていないことにあります。
 初代のクリスチャン達は迫害によって世界(当時の周辺諸国)に散らばったために、ユダヤにとどまって宣教できなかったために、キリスト教の根をおろすことが出来なかったのです。そして旧来のユダヤ教が主流になったと思われます。そしてもう一つにはユダヤ人の頑なな心にも問題があったのではないかと思われるのです。
 それは律法の問題です。イエス様の時代においてユダヤ人にとって律法は非常に重要なものでした。それは行動の規範であり、生活の基盤でもあったのです。そしてそれらを教え指導していたのが律法学者であり、それらを実行していると自負していたのがパリサイ人でした。
 当時は律法学者になることが超エリートコースでもあったのです。今日的に言えば超一流大学に入学して、教授や学者になるようなものかも知れません。ところがそのような社会構造の中に、何の学歴もない、ナザレという田舎出身の大工の息子イエスが、忽然と現われて、群衆たちに分かりやすく、しかも威厳(権威)に満ちた話しをされたことに、群衆達は驚き、パリサイ人たちは非常に困惑したのです。
 群衆達はこれは新しい教えだと感動し、反対に律法学者達やパリサイ人たちは、イエスの教えは律法に反する教えだと主張し出したのです。このようになることを、主イエス様は前もって分かっておられたのです。それは、17―20節の主のおことばから読み取ることが出来るのです。主は17節でイスラエルの古代からある律法を廃棄して、新しい教えに変革するために来たのではないことをはっきりと主張されたのです。
 それは第一に聖書(旧約聖書のこと)の重要性を堅持されたのです。廃棄するためではなく、成就するために来たのです言われたのです。これはどういう意味でしょうか?律法学者たちはイエスの言動を見て、イエスは律法を守らず、律法を軽んじていると反論しました。それはイエス安息日に多くの人々の病気を癒されていたからです。
 彼らは安息日にはいかなるわざをもしてはならないという律法の教えを曲解していたのです。そのような彼らに対して主は、安息日に、羊が穴に落ちたら、それを助けないでしょうか。人間は羊よりも価値あるものでしょう。安息日に良い事をすることは、正しいのですと教えられたのです(マタイ12章9節〜)。
 ですからイエス様は律法を軽んじたり、破ったりされていないことを事あるごとに教えられました。ところが、律法学者達は、律法をよく学び、人々に律法を教えるのですが、ところが彼らの行動は律法の教えから外れていたのです。そのことを彼らに責められたときから(マタイ23章全体 「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らはいうことは言うが、実行しないからです。」(3節)
 彼らはイエス様を憎み、殺そうと企むようになって行きました。律法学者達は聖書の権威よりも自分たちの面子や地位を大切にしました。しかしイエス様は命がけで聖書の権威を守られたのです。そして律法を実行されたのです。つまりご自身の身を持って成就されたのです。
 私たちも旧約聖書新約聖書を同等に取り扱っているでしょうか。旧約は難しいし、馴染みが薄いので、あまり読まないという傾向はないでしょうか?旧約聖書の奥深さが新約聖書の土台となっているのです。アウグスチヌスは、「新約聖書旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書新約聖書の中に開かれてある。」言っているのです。今だ新約聖書を受入れないユダヤ教の人々は実に計り知れない宝物を見失っていると言えるのです。私たちもこの聖書をバランス良く読み、学び、生活に生かしたいものです。まず第一は聖書の重要性について学びました。
 次に18節から教えられることは、聖書の真実性についてであります。聖書は生活の規範であり行動の基準であるとよく言われています。それは、聖書はパピルス(葦)に書かれていました。そのパピルスは物を計る基準として用いられました。そこからビブロスという言葉となり、やがてバイブルやブックと言う言葉が生まれたのです。
 つまり規範や基準が間違っていては大変だということです。そうなると秩序が失われ、混乱があるのみです。今日の日本において一番の問題は、確かな生活規範や行動基準がないことが諸悪の根源ではないでしょうか。もちろん何よりも人間の罪が様々な犯罪を生じさせている大きな原因ではありますが、その罪から離れ、罪に打ち勝つための処方箋である聖書がないということが、日本の社会がますます悪くなって来ている一番の要因ではないでしょうか。
 この聖書の人生観をなくすと、何が残るのでしょうか。それはひたすら自己満足と私利私欲と欲望の世界を目指すしかないのです。もちろんそのような生き方を良しとしない人もおられることでしょう。しかし人は良い方に流れるよりも悪い方に流れる性向(傾向)があるのです。なぜなら聖書は性悪説を説いているからです。
 私自身もこの聖書によって、自分の心の中にある罪を知るに至りました。それまでは、多少なりとも人と比較していい人間かなと思うこともありました。しかしその思いは全く間違っていたのです。聖書の基準から見れば、私は神様のさばきから免れない罪人でありました。しかし私は聖書の真実性によって救われたのです。それは、イエス・キリストによる贖いの事実であります。
 私は罪を告白したから救われたのではなく、イエスを主と告白し、イエスを神の子と信じたからです。『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせて下さったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心で信じて、口で告白して救われるのです。』ローマ書10章9、10節)
 罪を告白しないと救われないと理解している人も多いようですが、罪を告白によって起こることは神様の赦しです。救われるために大切なキーワードは「信じる」ことです。それはみことばの確かな約束を信じることです。それは信じることは良い事ですが、みことばが真実であるという前提に基づいているべきです。
 では、聖書は絶対に誤りのない書物であると言え理由とは何でしょうか?①主イエスご自身が聖書を認めておられる。②聖書に記されている預言が成就していること。③考古学の発見による。④人物(著者)の実在性と誠実性。⑤人類に与えている影響。。。等があります。私たちもますますこの聖書の真実性により頼んで行きたいものです。『教えにかなった信頼すべき御言葉を、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることが出きるためです。』(テトス1章9節)
  最後は、聖書の権威です(19、20節)。19節では、「この聖書の戒めのうち、最も小さな戒めでもないがしろにするなら、神の国では最も小さい者と呼ばれ、それを大切にする者は、神の国で偉大な者と呼ばれる」と主は教えられたのです。どんな戒めも、それが神様からのものであるなら、その戒めを守るべきです。愛国心はその国の法律を喜んで守ろうとするはずです。主イエス様も言われたのです。
『もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。』(ヨハネ14章15節)『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』(第一ヨハネ5章3節)この19節は、もしこの聖書にある律法を守るなら天国に入れるという意味も含まれているように思われます。但し一つでも戒めを破るなら天国にはいけないのです。すべての戒めを完全に守らなければ戒めの権威は保てないのです。
 聖書は次のように言っています。『律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、「木にかけられる者ははすべてのろわれた者である。」と書いてあるからです。つまり律法を成就(何の罪も犯されず)された神の御子イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなられて、私たちが守れないための律法によるのろいを十字架の上ですべて受けて下さったのです。そして信仰による救いという新しい道を開いて下さったのです。
 20節では、神の国に入るためには、私たちに全き義が要求されるということです。その義がなければだれひとり天国には行けないということです。この20節には、律法を守ることによって得るところの義による救いではなく、信仰による救いを人々に知って欲しいという主の真意があったに違いありありません。私たちはこのみことばの権威と約束への信仰によって、必ず天の御国に入ることが出来るのです。律法の時代に生きたアブラハムも信仰によって義とされたのです。権威あるみことばを軽んじることなく、恐れ、親しみ、聞き従う者となりたいものです。





『律法の精神を学ぶ(Ⅰ)』
―神の和解による人間関係―
   マタイ5章21―26節
        10.2.21
「人を殺してはならない」は出エジプト記20章13節に書かれています。皆さんもよくご存知の十戒のひとつであります。もちろん、当時のユダヤ人にとってこの戒めはごく当たり前のものだったはずです。何が当たり前かというと、次の言葉にあるように、「人を殺す者はさばきを受けなければならない。」ということであります。
  いかなる刑の中でも、殺人は最も刑が重いというのは言うまでもありません。刑が重いゆえに抑止効果があるのです。もし人を殺しても刑が軽いなら、恐らく殺人はもっと増えると思います。とはいえ殺人は誰にとっても身近というわけではありません。ほとんどの人は関りのないものであります。
  私自身も自分が人を殺すということは考えられないことであります。またそのようなことが起こっては大変なことであります。
  さて、主イエス様は群集に向って『人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのをあなたがたは聞いています。』と言われたのですが、それは人を殺してはいけないことを教えるためではなく、殺人において何ら責められることもなく、誰しもが守っている戒めであると考えている人々に対して、その戒めの奥深さを教えようとされたのが、22―26節のみことばであります。
  では律法の奥深さとは何でしょうか、それはその精神にあります。実は当時律法を人々に教え指導していた律法学者やパリサイ人たちに向って、主は、あなたがたは神様の律法を誤解し、あるいは曲解し、あるいは正しく理解していないと厳しく指摘されたのです。
  確かに彼らは、殺すなという戒めは完璧に守っている。だから自分たちは、その律法に関しては何の落度もないと自負し、満足していたのです。ところが主イエス様は、そのような律法に対する思いは、神様の律法をこの世の法律を守っているという次元に引き下げるものだと危惧し、また戒められたのです。
  使徒パウロイエス・キリストを信じる前は、自分は律法に関していは何の落度もないと考えていたのです。しかし、ローマ書7章7節において、「むさぼるなー悪い欲望」という戒めによって、むさぼることが罪であることを知ったと証ししているのです。
  また富める青年(役人)も、自分は小さいときから律法を守って来たと思っていたのです(ルカ18章18節〜、引用→マタイ19章16節)。いやそのように教えられ、また信じ込んでいたのです。ところが、イエス様が、もしあなたが完全になりたいのなら、あなたの持ち物を全部売って、貧しい人に分けてやりなさいという言葉を聞くと、その青年は非常に悲しんでイエス様のもとを去って行ったのです。彼は戒めを守っていると思っていたのですが、その戒めの根本精神については大きな誤解があり、真の理解がなされていないことを、主は実例として弟子たちに話されたのです。この若き役人は、それらは(律法の教え)小さいときからみな守っていると安易に答えたこと自体、律法の精神が分かっていないことを自ら暴露したようなものです。それは彼が非常に富んでいたために、隣人を愛するという根本的な律法の精神を実行することができなかったのです。
  このことからは「重要なのは律法の文字にあるのではなく、その精神にある。」という教訓を学ばなければないのです。
  それでは、マタイ5章22節―26節を見ましょう。まず22節ですが、ここでのみことばと、殺してはならないという戒めとどういう関係にあるのかということであります。実は殺すなという戒めには、肉体的な殺人だけでなく、私たちの心の中にある理由なしに兄弟たちに対して怒る(憤る)ことを含んでいると主は教えられているのです。
  ロイド・ジョーンズは「私たちキリスト者が、心の中に敵意を感じることは、私たちの主イエス・キリストによれば、神の目から見て、殺人罪に該当する罪を犯していることになる。憎しみ、苦々しい思い、こういった不愉快で、不親切な憤りの気持ちを理由なく他の人に対して持つのは殺人であり、神様の目から見て、殺人罪として責められるべきものである。」と言っているのです。
  それだけではありません、主は兄弟に向って、「能なし」という者もまた、殺すなという戒めの中にある精神的な部分を含むと教えられているのです。そのような者は、最高議会にかけられてさばかれるのです。さらに主は「ばか者。」という者は、燃えるゲヘナに投げ込まれますと言われたのです。
  つまり兄弟に対して軽蔑する者もまた、殺すなという戒めと同様にさばきを逃れることができないことを教えられたのです。なぜなら、さげすみやあざけりの思いは、究極的には殺人へと導く心にほかならないのです。
  まさしく主イエス様は、宗教家たちに妬まれ、憎まれました。そして人々の嘲笑やさげすみの中、十字架の道を歩まれたのです。人をあやめることは重大な罪であり、深刻な罪であります。と同時に人に対して、怒り、憤り、またひどい軽蔑は、そのひとの人格に甚大な被害をもたらし、その人の心を破壊する、あるいは魂を殺してしまうほどの恐ろしい罪であることをここで主は教えられているのです。当然そのような態度は、さばきを逃れることはないことを示されたのです。「殺してはならない」という戒めは確かに守っている。しかし、その戒めの精神部分においてはどうなのかを問われているのが、22節のおことばであります。
  私自身も、このところから深く心探られるものであります。むやみに人に対して腹を立てる、人を軽蔑することに傾注したいものです(第一コリント11章28節)。
  さて次に23節から26節を見ましょう。まず23―24節です。ここでは、人に対する怒りや軽蔑という消極的な禁止だけでなく、さらに進んで主は、心の中にある人に対するわだかまりがあるなら積極的に解決するように勧めておられるのです。つまり和解の勧めです。
  私が小さい時、近所の友達と遊んでいた時に、その友達に石を投げてしまって頭に大きなけがをさせてしまいました。その時に、私のおばあちゃんは、何か箱を持ってその友達の家に行きました。後から分かったことは、その箱には卵が入っていたのです(当時卵は貴重で高価なものでした)。そうです。私のおばあちゃんは、卵を持って行って、私の代りに謝罪をしてくれていたのです。まさになざめの供え物です。しかしそれで本当の解決があるのではないのです。私自身が彼に謝り、彼の許しを受けて初めて和解となるのです。
  22節では、神様への供え物という行為によって、心の中の問題が帳消しにされると思うなら大きな間違いであるということを主は教えられているのです。
  主はどう言われたのでしょうか?「もし誰かに恨まれていることに気付いたなら、まずその人のところに行って仲直りをしなさい。それから神様への供え物をささげるように。」と言われたのです。そうでないとせっかくの神様への心からの供え物が、単なる儀式でしかないものとなることを戒められたのです。神様への供え物の行為が悪いということではありません。しかし、その行為がすべての罪を償う代用とはならないということです。
  良い行為が悪い行為の埋め合わせとはならないのです。またそうしてはいけないのです。なぜなら神様はそのようなささげ物は決して喜ばれないからです(ルカ16章15節)。
  もし私たちの内に何らかのわだかまりがあるのなら、急いで神様への行為をしなくてもいいのです。まず私たちの心の問題を解決してからでも、決して遅くはないのです。神様はそのためにはいくらでも待ってくださるのです。「人はうわべを見るが、主は心を見られる。」(第一サムエル16章7節)のです。壊れた人との関係をまず修復してこそ、神様との正しい関係を持つことが出来るということです。
  最後は25、26節であります。24節では、まずあなたの兄弟と仲直りしなさいと勧めているのですが、ここでは早く仲直りしなさいと勧めています。24節はその順序の大切さを教えられ、25節はその緊急性を教えられているのです。もし遅れるなら、あなたは裁判官に引き渡され、ついに牢に閉じ込められる破目になるからです。そしてそこから出ようとするなら、払いきれない高い保釈金を積まなければならないということであります。牢屋に入れられても、高い保釈金を積めば牢から出られる人もこの世の中にはたくさんいるのです。しかし主は、お金で牢が出られるならそれで良いとは言われていないのです。そのような犯罪人としてのレッテルを貼られることに対して、主は悲しまれる方なのです。罪を憎まれ、罪を忌み嫌われる方だからです。
  そうですここでの裁判官とは神様ご自身のことなのです。けさは、殺すなかれという戒めは、その行為のみを指しているのではなく、その精神についてまで含まれていることを学びました。聖書の律法によって私たち人間が義とされる道は何と険しい道でしょうか。いや不可能な道だと言えるのではないでしょうか。しかし神様はそのような罪人のために、まず神様の方から和解の手を差し伸べて下さったのです。それはイエス・キリストによる十字架の贖いです。このキリストを信じる時に、私たちは神様と和解が成立するのです。実に感謝なことであり、大きな恵みであります。
  そのように神様と和解し、赦されたものであるからこそ、人に対して、特に兄弟姉妹に対して怒る者、軽蔑する者でないようにと強く勧めておられるのです。
  私は人を殺すようなとは決してしません。そのような戒めはしっかりと守っていますということで、神様の前に何のためらいもなく出られるとするならその人は自分の心の醜さに気付いていないのではないでしょうか。私たちが神様の前に億することく出られるのではキリストが十字架で流された血潮によるのです。血を注ぐことなければ罪の赦しはなかったのです。今一度神様に赦されている幸いを覚えさせて頂きましょう。それゆえに、主があなたがたを赦して下さったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい(エペソ4章32節)。神様との良い関係は、人との良い関係を前提としているのです。神様のことを大切にする人は、人のことも大切にするのです。
  





『律法の精神を学ぶ(2)』
―信仰による救い―
   マタイ5章27―30節
         10.2.28
前回学びました「殺してはならない」はモーセ十戒では第6の戒めであり、けさの「姦淫してはならない」は第7の戒めであります。この第7の戒めもまた、第6の戒めと同様に、その肉体的行為だけでなく、その心的な面についても含まれていることを見逃してはいけないのです。つまり「姦淫してはならない」とは、「私はこれまでの人生において肉体的な姦淫の罪は犯していません。ですからその点においては完全であり、律法を犯していません。」というだけでなく、さらにキリストは問われるのです。ではあなた
の心の中は全く問題はないですか?と。それは、28節のみことばにあるようにです。
  さて、私たちはこのイエス様のお言葉を非常に厳しいものとして受け留めているでしょうか。しかし、ここで誤解してはいけないことがあるのです。それは、イエス様が語られたこのみことばの真意とは、あなたがたは心の中では、姦淫という罪を犯しているということを断罪する(罪に定める)ことにあるのではなく、「殺してはならない」そして「姦淫してはならない」といった律法において、大きな勘違いをしている、あるいは間違った捉え方をしていることを指摘することにあったのです。それは、律法を行為的なものだけにとどめて考えていた当時の律法学者、パリサイ人たちに対する批判であり、またそのように教えられていた人々に対して、その誤りを正すことが第一の目的であったのです。
  現在の私たちは、主イエス様の教えから律法の考え方について、正しく学ぶことは可能であります。しかし、律法の教えを正しく学ぶだけで十分であると考えることは大きな間違いであります。実は律法は学ぶことも重要でありますが、行なうことにその意義があるのです。ではどうして行なうことに意義があるのでしょうか。それは、なぜ律法が必要なのかということを考えることによって分かるのです。まず律法とは何かということでありますが、ヘブライ語では「トーラー」で、この言葉は「ヤーラー 教える、投げる」という言葉から来ています。「教え導く」「指示する」という意味があります。ですから神の律法なら、「神からの指示」「神からの教え」という意味になります。旧約聖書の中には、様々な律法の事例が出て来ます。たとえば道徳律法と呼ばれるものや、祭儀律法と呼ばれるものもあります。しかし律法について深く学ぶとするならいくら時間があっても足りません。
  けさは、十戒の第7の戒めである「姦淫してはならない」という代表的な律法から学んでいます。先ほどなぜ律法が必要なのかということを言いましたが、一言で言うなら、神様の前に正しく生きるためのガイドブックと考えられます。もしこのガイドブックがなければ、神様の前に正しく生きることができなくなるのです。つまり的外れな生き方になるということです。自動車免許を取る時に、法規を学ぶのは、お互いにルールを守って安全に車を運転するためであります。律法を学ぶのも、お互いの生活を守り、お互いに平和に暮らすためであるのです。今日ではその国の法律がその役割を果しているのです。しかしこの法律と律法とには、その考え方において大きな違いがあるのです。というのは、法律は守っているならその人を犯罪者にはなりません。極端な言い方をすれば、たとえ法律を犯したとしても見つからなければ犯罪者として捕まることはないのです。ところが聖書が教える律法は、イエス様が言われたように、たとえ姦淫という行為を行なっていないとしても、情欲を抱いて異性を見るならすでに姦淫の罪を犯すことになると教えられたのです。先ほど律法を学ぶこと以上に、律法を守ることに意義があると言いましたが、それがどれだけ難しいことであり、大変なことであるかをイエス様のおことばから気付かされるのです。
  前回の「殺してはならない」という律法も同様であります。第一ヨハネ3章15節に、『兄弟を憎むものはみな人殺しです。』とヨハネは語っているのです。殺人の行為のみが殺人ではなく、心の中で人を憎しみ、軽蔑することもまた、殺人と同様であると学びました。つまり律法とは、その文字に重要さがあるのではなく、その文字の裏にある精神が大切であるということです。聖書辞典では、「イエスは、律法を形式的に守ることが、神に服従していることではなく、律法の内的精神を明白にし、実行することが神に受入れられることであることを教えられた」と書かれています。律法学者やパリサイ人たちは、律法を形式的に守ることによって、自分たちは神様に従っていると自負していたことに大きな問題があったということであります。
  さて、これまで律法を学ぶこと以上に行なうことの重要性について話しましたが、しかしそれを守ることの困難さも分かって来たのです。神様はこの律法を守らなければ、私たちを違反者として定められるのです。つまり律法を破る者は神様にさばかれるのです。なぜなら神様の前に正しく生きていないからです。悪い生き方をしているからです。ローマ書3章20節「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」
  つまりいかなる律法も完全に守らなければ、神の前では義とされない、正しい者とは認められないということであります。それよりもむしろ律法について知れば知るほど、罪の意識が増すばかりであるとパウロは告白しているのです。イエス様が「姦淫していはならない」と教えられた律法の真意とは、あなたがたは、すでに心の中で罪を犯している者ですと断罪することが真意ではなく、いかなる律法もあなたがたが守ることは不可能であり、律法を守ることによって、神の義を得ようとする道は全く閉ざされていることを教えるためであったと思われます。主イエス様は私たちを断罪することを積極的に考えられているのではなりません。だから29、30節において、右の目、右の手が罪を犯させるならその目をえぐり出し、あるいはその足を切ってしまいなさいと勧められたのは、本当に捨てることを意味しているのではなく、ゲヘナ、つまり恐ろしい地獄に行って欲しくないという気持ちの現われではないでしょうか。律法によってはかえって罪意識が生じ、義とされることはない。
  では私たち人間が義とされる道があるのでしょうか。それが先ほどの、ローマ書3章21―24節にあるのです。『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエス・による贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』
  神の律法について学ぶ時に、気付かされることは、いや気付かなければならなこととは、私たちは罪人であることです。そして罪を犯したから罪人になったのではなく、生まれながらにして罪を持った罪人であることです。 パウロはエペソ2章1節で『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、、、、、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、他の人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』と語っています。しかし4節において、希望のメッセージが語られているのです。『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛ゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせてくださいました。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。』イエス様が律法について語られた時の真意とは、真の救いは律法を守ることによるのではなく、ただイエス・キリストを信じるだけで、罪が赦され、義と認められるという救いに至る道を、ご自身の十字架による死によって、その意味を分からせるためのものであったのではないでしょうか。
  私たちは罪を軽く見る傾向はないでしょうか。罪の処理を軽視する傾向はないでしょうか。人様の罪にはよく気がついても、自分の罪に対しては無頓着になってはいないでしょうか。イエス様は、律法を守れなかったという罪こそがゲヘナに入れられる元凶であると言われたのです。もしそのような罪を犯させるものがあなたの足であるなら切り捨てなさい。あるいはあなたの目であるならえぐり出して捨ててしまいなさいと言われたのです。それほど地獄は行っていけない恐ろしい所だからです。ところが残念なことには、罪を犯させるものとは、私たちの体ではなく私たちの心であることを、主が教えようとされたのがけさの所であります。繰り返しますが、私たちを断罪するためではなく、私たちをキリストご自身の尊い救いに導くためであったのです。ガラテヤ3章23、24節『信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込めらていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるたメでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。私たちが信仰
によって義と認められるためなのです。』
『目には目を、歯には歯を』
   ―自己否定の道―
   マタイ5章38―39節
          10.3.7
「目には目を、歯には歯を」という聖書のことばはあまりにも有名でありますが、では、皆さんはこのみことばをどのように解釈されているでしょうか。残念なことに、多くの人々がこの言葉を間違って解釈して使われていることが多いのです。しかもクリスチャンさえも間違って理解していることもあるのです。特に多い間違った解釈とは、もし誰かに目を打たれたなら、相手の目を打っても良いという解釈です。つまり復讐の積極的な勧めという理解であります。
 では聖書は、このみことばから復讐することを積極的に容認しているのでしょうか。そうではないのです。聖書は積極的に復讐を勧めているのではなく、「目には目を、歯には歯を」というみことばから学ぶべきことは、過度(行き過ぎた)の復讐を制限、あるいは抑止するためのものであるということです。
 つまりこの律法は、被害者を擁護するだけでなく、被害者によって、必要以上の復讐から加害者を守るというものであります。これは、同態復讐法(同害復讐法)と呼ばれるものであります(出エジプト21章23―25節、レビ24章19、20節、申命記19章1節)。
 それは被害に応じた罰や弁償が支払われるべきこと。また人種的な偏見や、同国人だからと言って、刑罰が不公平に取り扱われてはいけないためのものであります。この律法の背景には、裁判の公正さを基とした上で、行き過ぎた刑罰を制限するという考え方があるのです。
 そもそも神様がイスラエルの民に律法が与えられたのは、イスラエル人が430年という長い期間エジプトの奴隷(今からおよそ3500年前)となっていたために、彼らの道徳性や倫理性が著しく低下していたためであり、もしこのような律法が彼らになければ、この民は多くの混乱を招き、彼らの間に秩序と平和を保つことは難しかったためなのです。
 本来、律法は人々の生活に役立つものであったにもかかわらず、やがてイスラエルの国に律法学者やパリサイ人が現われてくるのですが、ところが彼らは神様が与えられた律法を正しく解釈することなく、間違って取り扱ったために、何度も学んでいますように、律法の精神よりも律法の文字に拘り、神様の意図する律法の教えから離れてしまっていたのです。
 それは残念なことに今日のイスラエル人にも当てはまることであります。その証拠に、「目には目を、歯には歯を」という御言葉を、アラブとの闘争において、アラブ人と同様に、復讐容認の意味として用いているのです。しかもその復讐は容赦のないものであります。何の制限もない過度の復讐であります。
 そのために、聖書について知識のない人々までが、「目には目を、歯には歯を」という聖書の教えを、やり過ぎではないか、残酷ではないか、あるいは厳しすぎる教えではないかと批判する人も少なくないのです。
 しかし、それは全く間違った理解をされているのです。先ほども言いましたが、その教えはあくまでも、加害者、被害者間における決まりごとであります。それは、被害者に対する過度の復讐の制限であり、そして過度の復讐から加害者が守られるためのものであります。
 しかもそのようなさばきは、個人的にするものではなく、裁判官を介してなされるものでした。個人的になると、被害者は律法を盾にして、自分のしたい放題のことをする危険性があるからです。
 というわけで、この『目には目を歯には歯を』の律法が教えている精神は、39節のイエス様の教えに反映されているのです。
 当時の律法学者の教えによれば、『目には目で、歯には歯で』を間違った解釈をしていために、だれかに右の頬を打たれた場合、その相手に二倍の償いを要求出来たようであります。
 しかし、イエス様は悪い者に手向かってはいけません。そればかりか、あなたの右の頬を打つ様な者には、左の頬も向けなさいと教えられたのです。
 では、これはいったいどういう意味でしょうか?この教えもまた間違って理解している人が案外多いのです。ある人々はこの箇所からクリスチャンの平和論を語ります。確かにクリスチャンは平和主義者であります。好戦的ではありません。ただ教派によっては、防衛のためにはやむなく参戦するところもあります。数年前のイラク戦争においても、アメリカのキリスト教会において、その戦争を賛成した群れも数多くあるのです。実はMBの群れの中にも賛成した教会があったように聞いています。
 しかしそれらは、この39節のみことばを根拠にして議論されたのではないのです。少なくとも非戦論の根拠となるみことばは、十戒の「殺してはならない」、そして申命記6章5節にあります、『自分と同じように、あなたの隣人を愛せよ』であります。
 しかし、旧約聖書の時代において、いのちにはいのちをという聖書の原則がありました。つまり人の命を奪った者は、その人の命をもって償わなければならなかったのです。これもまた同態復讐の原則であります。『いのちにはいのちを、目には目を歯には歯を』(出エジプト21章23―25節)
 ではイエス様がここで言われたおことば(39節)の真意とは何でしょうか。それは社会正義や、平和主義や平和思想や、あるいは法律的なことについて語ろうとされたのではなく、あくまでも個人の内面的なことについて語られたものであります。
 それは、霊的な問題を取り扱われているのです。ロイド・ジョーンズによりますと、「自分に対する態度において、何か害を加えられると、すぐ心に湧いてくる自己防衛の心に対する態度において、正しくなければならない。また生まれながらの自我の典型的な特徴である、復讐心、報復心と取り組まなければならない。というのが、39節のみことばの真意であり、次に、自分に加えられる不法と、社会や国家からの要求に対して、私たちの自我がどういう態度を取るべきかを述べられているのが40節、41節であり、自分の所有物に対する自我の態度が語られているのが42節であります。」と書かれています。
 つまりそれは自己の名誉心や自尊心の否定であります。そしてこの精神こそ、キリストの弟子になる唯一の道であることを暗に教えておられるのではないかと思われるのです。
 主は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てて(否定して)、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16章24節)
 実は、私はイエス様の弟子ですと簡単には言えない理由がここにあるのではないでしょうか。なぜなら名誉心や自尊心の否定はそう簡単には出来るものではないのです。
 たとえば、私も皆さんがどのようにメッセージを聞かれているかが気になります。それは私の内にも自尊心や、たとえ小さなものであったとしても名誉心も捨て切れないものがあるのです。よく言われるのですが、牧師殺す(駄目にする)のに刃物入らず、語るメッセージ批判すれば十分だといういやな言葉を、随分以前に聞いたことがあります。確かに牧師はメッセージについて何か言われる(批判的なこと)ことが一番の弱点かも知れません。
 以前に聞いたことですが、ある牧師は日曜日の夜に、けさのメッセージについての評価のファックス文が教会の信徒から送られたようです。
 私もかつて、メッセージの後に、私のメッセージの原稿を色々と訂正してくださる信徒(今はおられませんが)もいました。そのことについて、喜んでいいものか良く分からなかったのが当時の私の正直な心境でした。
 確かにある面においては厳しい現実はありますが、そこで自分の態度をいかに取るかが大事なことです。もちろん私も自尊心もあり、自負心もあります。ですから心が傷つかないといえば嘘になるかも分かりませんが、私はそのような批判を受け止めて、自分のメッセージの成長になるならと思い、私のメッセージに対するひとりの信徒の評価を受け留めました。しかし、それは1ヶ月ぐらい経過したころには、そのようなことはなくなりました。その理由は分かりません。
 私だけではなく、牧師は多かれ少なかれそのような経験はして来ておられると思うのです。もちろんそれに近い経験は、牧師だけではありありません。皆さんも社会の中で、職場の中で色々なつらい経験をされておられることでしょう。
 大切なこととは、いかなる時においても自我との決別が出来るかどうかがイエスの弟子となる必須課題であるということであります。まさしく山上のメッセージは、神様を知らない人に向けられたものではなく、主を信じている者に向けられたものであることが分かってくるはずです。
 『目には目を、歯には歯を』のみことばは、打たれたら打ち返しても良いのです。間違ってはいないのです。しかしその精神は、つまりその心とするものは、積極的な復讐にあらずです。それは過度に暴力が相互に拡散することのないための勧めであります。またそれは復讐心や報復心の抑止のためであります。
 しかし主イエス様は、もっと踏み込んで、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい。」と教えられたのです。それは個人的な攻撃、暴力に対して、私的な恨み、憎しみ、復讐心、敵対心を捨てなさいと言われているのです。なぜならそれらは罪に至る道だからです。
 イエス様が大祭司に平手で打たれた時に、抗議されました。それは恨みや復讐心からではなく、正義がなおざりにされないためであります。あるいは主は十字架にかかられた時に、人々のあざけりや不当な仕打ちに耐えられたのです。それだけでなく、その人たちのために、父なる神様の赦しのためのとりなしをされたのです。
 ところが、私たちはイエス様のようには生きられないというのが現実であり、私たちの感情や心の内面はもろいというのは事実ではないでしょうか。
 先週も言いましたが、たとえば普段車を運転していると自分の心が現われる思いです。狭い道、ちょっと待ってくれたら通りやすいのに、待たんとこっちに来る車に、何してんのやとその運転手に文句を言わないと気がすまないという、簡単には譲れない自分があるのです。
 そのような態度を自分の弱さや欠点と冷静に自己評価できるうちは幸いです。ところが、相手が一方的に悪いと決め付ける。あるいは許せない。相手を罵倒する。憤るところに争いや暴力と言った罪の温床があるのです。私たちは常々自己反省、正しい自己評価や自己吟味という、ある面ではいやな作業であっても、それらを怠らないようにしたいものです。そうでないと、イエス様が教えられた自己否定の道がますます遠のいてしまうからです。
 そのために私たちに必要なものとは何でしょうか。それは難行苦行といった自己鍛練の道ではなく、聖霊様の助けなのです。
 ガラテヤ5章24―26節、『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。』
 
 
 

『目には目を、歯には歯を(Ⅱ)』
―自己の権利と利己心の放棄―
   マタイ5章40―43節
        10.3.21
私の父は20年ほど前に69歳で他界(主の御国)したのですが、この年代の親父というのは、頑固な親父が多かったように思います。私の父も結構頑固な方でした。父は私たち子どもに対してはあまり干渉しないという放任主義的な面がありました。そして自分の事はあまり喋らない父親でした、そのような父が小さい時に、近所の子どもと遊んでいた時に、その子のはさみがあやまって父の目に刺さり、父は片目を失明してしまいました。小さい時に片方の目を失うというのは本人にとっても、親にとっても大変なことだった思います。おばあちゃんは「あの家のだれだれによってお父さんは片目を失ったんや」とよく私に恨みごとを言いました。でも親父の口から、目のことについては、恨みごとを聞いたことはありませんでした。ところが、母は、父が障害者手帳を貰えるのにそれを拒んでいた父にいつも、「せっかく貰えるのに、あんたは欲がないな」と言っていたことを覚えています。なぜか父は、障害者手帳の話しになると頑固に拒むのでした。その理由は全く分かりませんでした。片目でどんなにか不便だったかと思います。それでもけがをさした方とは、普通にお付き合いをしていました。父の口から一言も恨みごとがなかったことに父は偉いなと思いました。今でもそのことに関して父を尊敬しています。故意ではなく過失の障害事故でしたが、父の時代は訴訟というのはほとんどなかったと思います。しかし今日はどうでしょうか、おそらく損害賠償を要求する人も多いことでしょう。最近は気をつけないと大変です。たとえば自転車で人を怪我をさせると、数百万円の損害賠償を支払うこともあるようです。権利ゆえに訴えることが当然という世の中であります。さて、イエス様の時代においても、人を殺したり、傷つけたりした場合、故意であれ過失であれ、裁判官の仲立ちによって、双方の解決が試みられたのであります。『目には目を歯には歯を』という律法について前回学びました。この律法は、故意に犯した傷害に対するさばきであります。もし誰かに目を打たれたら、その相手の目を打っても良いという律法なのですが、その精神は復讐が目的ではなく、あくまでも行き過ぎた報復にならないための律法であることを学びました。私たちクリスチャンは、この律法を間違って理解している人たちに対して、この律法の正しい精神を伝える義務があるのです。この律法はあくまでもあわれみのあるものであることを知ってもらいたいのです。実際は、イエス様の時代においても、裁判によって相手の目や歯を打ったとは考えにくいのです。恐らく金銭的なもので相互の解決を図ったものと考えられるのです。どちらにしてもこの律法は当時の時代においては重要な役割を果していたと思われるのです。やられたらやり返してもいいと考えがちなこの律法(目には目を歯には歯を)を用いて、主は新しい教えを紹介されたのが、39―42節であります。さらに43節からも新しい教えが紹介されています。39節は前回に学びました。それは、復讐心や報復心を自制することの勧めと、自尊心が傷つけられるような状況おいても自己否定(自我に死ぬ)の道を選び取るというキリストの弟子となるための心構えについて語られたのです。けさは、40―42節にから主の新しい教えについて学びます。まず40節ですが、このみことばの背景には、出エジプト22章26節、27節『もし、隣人の着る物(上着のこと)を質に取るようなことをするのなら、日没までにそれを返さなければならない。なぜなら、それは彼のただ一つのおおい、彼の身に付ける着物であるから。彼は歩科に何を着て寝ることができよう。』と書かれているのですが、下着(普通の服)は質に取ることができたのですが、上着((オ―バー 外套のようなもの)は取ることが出来なかったようです。つまり上着を持つことは権利として認められていたのです。それを奪うことは誰も出来なかったということであります。しかし、主は『下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。』と言われたのです。ここでの主の新しい教えとは何でしょうか?それは自分の権利や法律上の権利に固執する傾向(少しの権利の侵害に耐えられない心、あるいは一歩も譲れない心)がある者に対して、権利の主張に頑なに固執するのではなく、たとえそれによって損害を被ることがあっても、譲れる心を持つ者になりなさいと教えられているのではないでしょうか。なぜなら主イエス様は、そのように行動されたからです。ピリピ2章6、7節『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることはできないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。』とパウロはイエス様が神様としての特権を放棄されて人となられたと証言しているのです。左の頬を向けるという精神も容易なことではありません。さらには、自分の権利を放棄して上着もやるという精神はそうた易くできることではないと思われるはずです。しかし主は、事によっては権利を主張することよりも、謙譲心を示す方が神様のしもべとしてふさわしいですと言われているのが、39節のおことばの本意ではないでしょうか。私が薬品会社に勤めていたときに、労働組合が結構力がありました。それで、賃上げや、ボーナスアップのための要求ストライキを長い時には一週間もしたこともありました。当時私はクリスチャンではありませんでしたが、とにかく労働者の権利ということで、上司はまるで敵のように思って組合活動をしていていました。しかし労働者の当然の権利だから高い賃上げ要求した結果、会社が倒産した例もあったのです。どこかで譲り合う心がなければ会社の経営は成り立たないのです。この世の中において、権利ばかりを主張してほんとうに平和を手にすることが出きるでしょうか。たとえ権利を主張した者が多くの利益を手にして、相手がそれによって多くの損害を受けたとしても、果たしてそれが幸せだと言えるのでしょうか。権利を主張することによって、相互間に真の和解を見ることができるのでしょうか。今日のイスラエルやアラブの長引く闘争は、互いの権利を主張し合っていることが、平和が訪れない大きな理由ではないでしょうか?さて、主はこの40節のみことばにおいて、「わたしの弟子とは、権利を主張する者ではなく、なすべき義務とは、あるいは果すべき責任とは、そして神様が喜ばれることとは何かをよく考え、また優先して行動する者である。」と言われているのではないでしょうか。次に41節のみことばを見ていきましょう。このみことばは40節とよく似ています。どちらもプラスαの勧めであります。ユダヤはローマの属国でありました。ですからある時にはローマ人から強制的に奉仕をさせられることがあったようであります。クレネ人シモンも、イエス様の十字架を強いられて背負わされたのです。そのような背景の中で主の新しい教えとは何でしょうか。1ミリオン行けと強いる者に対してたとえ腹立ちまぎれ、恨みつつであっても、もう2ミリオン行きなさいと言われているのではなく、もう2ミリオン行くところに主のおことばの真意があるのです。それはどういう気持ちで、あるいはどのような心の姿勢で行くのかということです。1マイルを強要したために憤りをあらわにして、もう2ミリオン行くのではなく、喜んで、気持ちよく、良い事をするつもりでもう2ミリオン行きなさいということです。バークレーは「何事をするにも二つのやり方がある。一つは、最小限度のことをしてそれ以上のことは少しもしない。傍目にも分かるほど、いやいやながらやる。最低の働きに止めて他は何もしない。もう一つの方法は、やろうという決意をもって、朗らかに、親切に、気持ちよく、しかも上手くやることである。いやいやながら、仕方なくやるのではなく、期待されている以上の事を行なうのである。」と言っています。自己の権利や主張を脇において、誰かのために奉仕する、たとえ強要されることであっても、不快な気持ちではなく、喜んでそれを行ないなさいと主はここで教えられているのです。私たちは、時々何でこんなことしないといけないのやと憤るような時もあるのです。頼まれごとが断れないという事情の時もあります。何で自分がしないといけないのかと思う時に、主はそのような心がけではなく、奉仕の心を持って、気持ちよくそれをするようにと勧めておられるのです。その教えは、ピリピ3章22、23節のパウロの勧めに通じるものなのです。『奴隷たち、すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。』その理由とは、次の24節に書かれているのです。『あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。』キリストのしもべは、天国に行けるというすばらしい主の報いが、キリストの尊い特権の放棄、自己犠牲、自己主張の放棄というへりくだりによって得られたということを知っているのです。主は私たちクリスチャンが、十字架の真の意味を知っているゆえに、1ミリオンを強いる者には、気持ちよくもう2ミリオン行くようにと勧めておられるのです。それを行なうことが、クリスチャンとはどういう者なのかを示す証しとなるのです。最後に42節を見ましょう。それは与えることと貸すことについて教えられている所であります。主はここで、「私利私欲のために、他の人の必要に目を閉じてしまう、自己本位なエゴ」について注意するようにと指摘されたのではないでしょうか。ここで大切なことばは、必要としている人であります。第一ヨハネ3章17、18節に『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、そうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。』このみことばによって、42節の真意を捉えることが出来るのです。困っている、あるいは必要に迫られているという人を、そしらぬ顔で済ますのではなく、それを知った時に、まず自分ができること何かを考えるように勧められているのが主の新しい教えであります。しかし、それは怠惰によって困窮した人や、助けることがその人にとってよくない場合は当てはまらないのです。私もかつて、借金で困窮している人に、お金を貸したことがあります。結果として、一人の方は借用証書まで交わしたのですが貸したお金は戻らず、一人の人はどこに行ったのかも分からずじまいです。貸さない方がよかった例です。繰り返しますが聖書は、「兄弟が困っているのを見て」と語っています。困窮の原因をよく吟味して、本当に助けるべき人を助けなければならないのです。主よ与えてくださいとお祈りだけをしている怠惰な人に、主はその祈りに答えらるでしょうか。42節で主は、ここでは兄弟だけに限らず、誰かが困っていて、自分は財産を持っていて、彼を助けられる立場にあるにもかかわらず、彼にあわれみの心を閉じてはいけないということです。キリストのしもべは、与えること、貸すことにおいても、神の愛は、自らを与える愛であることを決して忘れることないようにと勧められているのではないでしょうか。






『天の父の子どもとは』
   ―愛と祈り―
  マタイ5章42―48節
        10.3.28
『目には目を歯には歯を』という言葉を間違って理解している人が多いということを前回お話しました。もしあなたが誰かに目を打たれたとしたら、打った人の目を打っても良いという理解は間違ってはいないのですが、しかし、この教えは決して復讐の容認ではなく、復讐の拡散抑止(防止)がこの教えの真意であることを学びました。このように聖書の教えの真意を正しく理解することを聖書解釈と言われるものです。その聖書解釈は自己流に頼るよりも、聖書解釈者に学ぶのが無難であります。それは、間違った解釈から守られるためです。異端は間違った解釈から生まれるから要注意です。さて、43節もあたかも聖書の教えかのように思われがちですが、実は「自分の隣人を愛しなさい」というみことばはレビ記19章18節にありますが、「自分の敵を憎め」という教えは聖書のどこにもないのです。では、なぜ主がこのみことばを語られたのでしょうか。そこにはイスラエル独自の背景があったのです。それは、ユダヤ人こそが神様に選ばれた特別な民であるという強い選民意識です。ですからここでの隣人とは同胞のユダヤ人のことであり、敵とは旧約聖書に登場するカナン人、モアブ人、アモリ人、アマレク人たちであります。神様は彼らに対して徹底した裁き(カナン人に対しては根絶せよと命じられたのです)を下すようにとユダヤ人に命じられることがしばしばありました。やがてユダヤ人たちの間違った選民意識は、宗教指導者であったパリサイ人や律法学者たちによって、隣人であるユダヤ人は愛すべきであり、敵は憎むべきであることを正当化したのです。彼らは、神様がなぜユダヤ人以外の異邦人を徹底的にさばかれたかという本当の理由が分かっていないのです。それは、もちろん彼らが神様に従わなかったということもあるのですが、何よりも彼らの異教による偶像崇拝イスラエル人の中に蔓延することを危惧されたからです(事前に防ぐために)。それはイスラエル人のためだけでなく、神様の栄光に関わる問題であったからです。以上のような背景の中で、このみことばを理解すべきであります。確かにイエス様の時代において、日常的に語られていたのが43節でありました。ところが、主は44節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのです。主は隣人とはユダヤ人だけでなく、たとえ敵であっても隣人であり、自分以外のすべての人を隣人であることを示唆されたのです。主はここで私たちにとっては不可能と思えるようなことを命じられたのではなかいかと考えてしまう、あるいは他人事のように捉えてしまうということはないでしょうか。しかし主は、私たちクリスチャンができないことを命じられたのではなく、むしろクリスチャンでなければできないことを命じられたと理解するべき所であります。マタイ5章1節から学ぶ中で、共通している大切なことがあるのです。それはその教えの精神は何かということであります。つまり心の状態が神様の前においてどうなのかということであります。もっと言うならば、天のお父様の前において、その子どもであるキリスト者はどうあるべきかが問われているのです。自分の敵を愛すべき理由とは、天のお父様が罪ある者のために示された無限の愛、無条件の愛、無私の愛を知っているのがキリスト者だからです。迫害する者のために祈らなければならない理由とは、罪のないイエス様が十字架に付けられた時に、屈辱と苦しみの中で侮辱する者のために、天のお父様に、「父よ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ23章34節)と祈られたことを知っているだけでなく、そのような神様の深い憐れみの心をキリスト者は経験しているからです。敵を愛し、迫害する者のために祈る理由は天のお父様が私たち罪人に対してどのように扱ってくださったかを体験したからです。それは神様の愛を体験したクリスチャンにしかできないことであります。実にクリスチャンとは特別な存在であることを今一度心に銘記するべきであります。それは新しく生まれ変わった、つまり新生した者だからです。それは聖霊様の内住を意味するのです。聖霊様の助けがなくては、敵を愛し、迫害する者のために祈る力は私たち罪人にはないのです。しかし神様に赦された罪人にはその力が、神様によって備えられているのです。不可能を可能とされるのが神様であります。主は敵を好きになれとは言われなかったのです。好きになるというのは感情です。誰であっても、ことによっては好きになれないという感情を抱くこともあるのです。すべての人を好きになるというのは不可能なのことです。しかし主が命じられた愛しなさいとは、感情を越えた愛するという行為であります。神様は罪を愛することはできません。しかし罪人を愛されました。その主が、私たちを攻撃したり、傷つけたり、陥し入れることを憎しみ、恨むことがあっても、そのようなことをする人を愛し、また祈るようにと命じられたのです。愛せるという感情ではなく愛するという行動でなければ、この愛を実践することは不可能です。さて、主が45節で「それでこそ」と言われたのが印象的です。そこには神様のキリスト者に対する期待があるのではないでしょうか。たとえば昔、高校野球で甲子園に選手として出場した父親が、自分の息子もまた甲子園に出場した時に言う言葉が「それでこそ私の息子だ」ではないでしょうか。その父のことばの裏には期待があるのです。「それでこそ」つまり敵を憎まず愛し、迫害する者を恨まず祈るなら、天におられるあなたがたの父のこどもとなれるのです。そこには、子どもになるための条件についてではなく、そのような子どもになって欲しいという期待が込められているのです。さらに、46、47節では、主は、同じ愛でも質の違った愛について語られているのです。46節での愛は、条件付きの愛です。そして47節の愛は、有限の愛です。これこそ、神様を知らない時に抱いていた普通の愛なのです。決して間違った愛ではありません。歪んだ愛でもありません。溺愛や偏愛は間違った愛です。自分の気に入った人だけを愛するのもまた自己愛なのです。自己愛は聖書が言う愛とは全く質が違うのです。神様の愛とはアガペーです。それは、無条件の愛、無制限の愛、不変の愛(永遠の愛)であります。その実例はイエス・キリストの十字架の死にあることは言うまでもありません。『私たちが罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ書5章8節)『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(第一ヨハネ4章10節)まさに45節の『悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。』という天のお父様の、世の人々に対する憐れみこそ無条件で、無制限で、普遍(不変)の愛であります。さて、主の教えである敵を愛し、迫害する者のために祈りなさいというのは、究極のものであり、極限の愛の事例と思われます。しかし、イエス様がたとえで話された良きサマリヤ人から、隣人に対する愛について学ぶことができるのです。その愛の実践は私たちにとって決して不可能なものではないはずです。私たちの隣人とは、まさしく日常生活の中で接する親であり、兄弟であり、友であり、知人であり、また教会の兄弟姉妹という身近な人たちなのです。しかし隣人を愛することは、生まれながら(神様の愛を知らない新生していない)の人では難しいのです。このような話しがあります。埼玉件で孤児院を開いたドイツ人宣教師キュクリッヒさんの幼い頃の体験です。キュクリッヒさんが子どもの頃、家に継母を迎えました。4人のお兄ちゃんたちは、みな継母に冷たく、批判的で、対立し、家には、争いと憎しみの冷たい空気がみなぎり、平和はすっかり消え去ってしまいました。ある日のこと、用事を伝えるために妹のキュクリッヒさんが、継母を探し回った挙げ句、ふとお父さんの部屋のドアを開けたときに、そこに継母の姿を見たのです。壁にかかったイエス様のゲッセマネの祈りの絵の前で、継母は大きな机によりかかり、一人で祈っていたのです。驚いてドアを閉め、自分の部屋に戻ったキュクリッヒさんの耳に、一つの言葉が残っていました。それは、継母が涙ながらに一番上のお兄さんの名前でした。このお兄さんこそ継母に一番きつく当り散らしていたのです。しかし母の祈りによって、やがてその家に信頼と尊敬と平和が戻ってきたのです。
神の愛を受け、神の愛を知った者こそ、隣人になることができるのです。また神様はそのようになることをキリスト者に期待してくださっているのです。神様が私たちを愛するように愛し、神様が私たちを赦されたように、赦すことを学ぶときにその人は完全に達するのです。この完全とは目的を果すという意味があります。神様が何のために人を創造されたかを深く思い巡らすときに、私たちは神様の前にどう生きるのかをきっと教えてくださるはずです。それはこの聖書を通してであります。『私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。』(エペソ2章10節)