『神を知る方法』 ヨハネ1章14−18節  2013年3月17日(日)

「神を知る方法」  ヨハネ1章14—18節 
                 2013年3月17日 
「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのから、被造物によって知られ、、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 (ローマ書1章19、20節)
 これらのみことばから、神を知る第一の方法とは被造物から知ることができるのです。
 たとえば、皆さんも宇宙がどのようになっているのだろうかと考えられたことがあるのではないでしょうか。私は中学生の頃、ひとりの友達と学校の運動場で、宇宙の果てはどうなっているのかと真剣に考えました。しかし、宇宙の果ての向こう側には何があるのかという疑問が残っただけでした。
 その後も空を見上げるとき、本当に宇宙はどうなっているのかと興味津々でありました。 
 これまで数々の宇宙ショー(日食・月食・流星)を見てきました。それらが数十年後あるいは数百年後、いつどこで起こるかを事前に計算されるのです。どうしてでしょうか、それは宇宙には驚くべき秩序と法則があり、それゆえに広大な宇宙が一糸乱れず均衡を保っているのです。たったひとつの法則が乱れるなら、宇宙全体の秩序が乱れてしまうのです。
 ある人は「秩序あるところには必ず精神がある。それは人間の精神ではなく、人間を超越した偉大なる精神でなければならない。」と言いました。
 私は未だに不思議に思うことは、地球は1秒間に30キロ動くようですが、どうして海の水が飛び散ることなく、また私たち人間もこの大地からはじき飛ばされることなく立っていられるのでしょうか。ほかにも不思議なことはいっぱいあるでしょう。一体この宇宙の秩序と一寸の狂いのない運行法則はどこから来るのかとだれしも考えることではないでしょうか。
 先ほど言いました.それらは偶然の産物ではなく、精神を持つだれかが意図し、計画を持って創造されたと考えるなら、宇宙の謎のカギは解明されるはずです。
 詩編19篇1—4節「天は、神様の栄光を物語る、神様の手による傑作です。そして、昼となく夜となく、神様について語り続けます。大空は音もことばもなく、静まり返っているのに、その意味するところは全世界に知られます。太陽は神様が定めた空間を回ります。」(LBより)
 古くから「天文学者無神論ではいられない」と言われているのです。天地万物を創造された神様を知る時に、宇宙の果てについての終わりのない論争にピリオドを打つことができるのです。
 このヨハネの著者も証言しているのです。「すべてものは、この方によって造られた、造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1章3節)
 確かに、私たち人間も含めた自然界や動物界を通して神様を知ることができるのです。
 京大の山中教授たちによるiPS細胞の研究がどんどん進んで来ております。やがて人類は、自分たちのあらゆる内蔵を造る出す時が来るかも知れません。しかし精神を持つ、心を持つ、あるいは個性を持つ人間を造ることは不可能です。確かにクローン動物を造れる技術を持ってすれば理論上ではクローン人間が造れるのかも知れません(造ること自体恐ろしいことです)。
 しかし心を持つ人間をどうして造ることができるでしょうか。個々に違った人格は一体どこから来るのでしょうか。
 いのちを持っている種を無から造ることは可能でしょうか。小動物が持っている自己防衛の知恵はどこから学ぶのでしょうか。
 いかに進歩した科学技術を持ってしても、季節ごとに実がなり、花を咲かせる木々や花々を育つために必要なものをすべて備えることができるでしょうか。
 人間がいくら頑張ってもこの自然界に必要な光や水をたゆみなくこの自然界に供給することは不可能であります。
 宇宙であれ、この自然界であれ、その不思議について解明されていることはまだまだほんの一部だと思います。
 ある人々は、あまりにも素晴らしい自然界を見て、その自然そのものを神格化し、それらを祭り、あがめるのです。
 使徒パウロも言っています。「彼らは神を知っていながら、その神を神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1章21—23節)
 フランスが生んだ細菌学の父と言われるパスツールの時代において、当時「この世の生物はすべて自然に発生する」という生物自然発生説が主流でした。
 それは、食べ物などが腐敗するのはその中から自然に微生物がわいてきて、その微生物が腐敗させると考えられていた。
 しかし、パスツールは密閉した肉汁が腐敗しないことを実験によって証明し、生物自然発生説を否定したのです。
 その彼は「この美しい自然と生物の研究は、私にとって自然を造りあげた全知全能の創造者の存在を知る道であった。」と語っているのです。
 すばらしい被造物を見て、その被造物をあがめ、祭るのではなく、すべてのものを造られた神様をあがめ、賛美する人は幸いです。
 次に神を知る第二の方法とは、私たちの良心を通して神様を知ることができるのです。   
 一言に良心とは何かと言っても難しいものであります。物の本によると「良心とは、自分自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、事の可否ないし善悪をはかる心の動き」と説明しています。
 性善説では、生まれながらにして人は良心を持ち、それゆえに良い事を好み、悪いことは嫌うと考え、性悪説では、そのような良心は持ち合わせていないので、教育によって良心を芽生えさせ育てる必要があると説いているのです。
 ではキリスト教では良心についてどう考えているのでしょうか。組織神学によると、良心について「人間がしばしば、もし自分にできることなら、その力から逃れたいと考えている事実からも明らかなように、これは人間が自ら好んでいるものではなく、魂の中にある神の映像なのである。」と書かれているのです。
 それゆえに、神様は善なる方であって、不義なところは一つもないということを、また違反すれば罰せられるということをだれに教えられなくても、本能的に察知することができ、また神とはそういうお方であると望んでいるのが私たち人間ではないでしょうか。
 また組織神学では、「良心とは識別し、また駆り立てる力である。良心はわれわれの行為や状態が基準と一致しているか、いないかを示し、義務として負わされるべき行動や状態を明らかにする。良心の役割は証しすることである。良心が義務として指摘したことを無視した時に起こる呵責や、刑罰への恐れは、正しくは、良心の産物ではなく感受性の産物なのである。」と説明しているのです。
 良心とはまさに、人の魂の中にある神の声と言っても良いのではないでしょうか。
 もし良心と神のみことばに照らし合わせて行動するなら、その大小に関わらず、様々な違反行為から私たちを守ってくれるはずです。  
 『ダビデは、民を数えて後、良心の咎めを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして.大きな罪を犯しました。主よ.今、あなたのしもべの咎を見逃して下さい。私ほんとうにおろかなことをしました。」』(第2サムエル24章10節)
 人口調査をすることは悪いことではないのです。しかし、ダビデは神様から命じられたのではなく、恐らく、その背後にはダビデの高慢の罪が隠されていたと思われるのです。
 ダビデのように良心の声を大切にすることは、神を恐れ、神をあがめることになるのです。
 悔い改めたダビデに、神様は将来のエルサレムの神殿の用地を示されたのです。
 神を知る第三の方法とはキリストの内に神を見るのです(18節)。
 バークレーは「イエスが来たのは、神について人間に語るためではない.彼が来たのは神がどのようなお方を人間に示すためであった。」
 それは、偉大な哲学者だけでなく、たといだれであっても十分に神を知ることができるためなのです。
 『ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください.そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください。」と言うのですか。」(ヨハネ4章8、9節)
 イエスのように生まれた人はほかにはいないのです。またイエスのように生きた人はだれもいないのです。そしてイエスのように死からよみがえられた人はだれもいないのです。 
 身近な被造物から、また私たちの心のメカニズムの精巧さから、そしてイエス・キリストの内に神を見出す人は幸いです。 その人は神から永遠のいのちを受けるからです。
「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子の内にあるということです。」 
(第一ヨハネ5章11節)