神の国に入るためには?」
  ヨハネ3章1—15節 13.5.19  
 さて、けさ登場するニコデモと言う人物ですが、彼はパリサイ人(1節)であり、ユダヤ人の指導者(1節—ユダヤ議会サンへドリンの議員)で、教師(2節)でした。
 そのような人物が、夜にイエス様のところに訪問したのには、恐らく他のパリサイ人への気遣いや、気まずさがあったのではないかと思われます(ある注解書によれば、夜が律法について学ぶには良い時間であったと説明されている)。
 周りの人々からは、死について、あるいは来世について、まして永遠のいのちについては、人々に教える立場であり、決して聞く立場ではなかった彼が、イエス様のところに行ったところに、彼自身がまじめな求道者であり、人生について真剣に向き合っていた人物ではなかったかと思われるのです。
 今日的に言うなら、指導的な立場にある僧侶が、有名な教会の指導者である牧師に、自分の悩みや人生問題について相談に行くようなことかも知れません。
 何よりもニコデモは、奇跡をなされるイエス様に非常に関心を抱いていたのです。それが2節のニコデモのイエス様に対する見方なのです。
 つまりニコデモにとって、イエス様が不思議なしるしを行なわれていたとことに対して、多くのパリサイ人や律法学者たちのように妬み心を持ち、また心が頑になり不信仰になるのではなく、一体この方はどういう人物なのかが非常に気になっていたのです。
 皆さんは、どのようにしてイエス様を信じられたのでしょうか。皆さんの多くは、クリスチャンからキリスト教について聞かれたことでしょう。あるいはこの聖書や他の書物を通して、また何らかの情報によってイエス・キリストについて知られて、そしてイエス様を信じて、尊い救いにあずかられたことと思います。
 私の場合は、一人のクリスチャンを通してイエス・キリストについて聞いたのですが、とにかく神はいない一点張りで、イエス・キリストについては、立派な人物であり、優しいお方であったという印象しか持ていなかったのです。
 とにかくキリスト教だけではなく、宗教の名のつくものとは関わりたくないという思いが強くあっために、そのクリスチャンから遠ざかるようになりました。
 そして、自分の人生観(無神論者であり、共産主義思想)を曲げずに、自分の意思と努力によって自分の人生を切り開いて行こうと考えている時に、サクセスストーリの秘訣に関する十数巻の講義テープを少々高価でしたが、購入して毎晩寝る前にそのテープを聴いていたのです。そして最後のシリーズのテープを聴いていた時に、解説者が、『世界の歴史の中において、最高のセールスマンは、イエス・キリストである。』という言葉を耳にしたのです。
 私は驚きました。もうキリスト教から離れたいと思って、クリスチャンとの関係を絶ち、もう神様のことについては考えることはないと思っていた矢先に、最後のレッスンのことばを聞いた時に、私はイエス・キリストから離れることは出来ないのではないか、あるいは無視して生きることは出来ないのではないかと思ったのです。将来は中国の広州交易会を行き来して、先輩と事業を立ち上げてお金儲けをするという野心を抱いて、人生の成功術を身につけたいために買ったテープによって、私は神様を求めて生きて行こうという決心に至ったのです。
 このように人が教会に来られるには色々な背景があり、教会に来るというのは勇気のいる事であり、場合によっては本当に大変なことなのです。
 ですから、初めて教会に来られる方を心から歓迎して、その人のために精一杯配慮することは大切でことであります。
 そういった意味ではニコデモは、どのパリサイ人よりも、あるいはどの律法学者よりも勇気ある決断をしたのであり、天国に至る大きな一歩を踏み出すことができたのではないでしょうか。
 まず第1に天国(神の国)に入るためには、神様を求め、聖書を学ぶだけでなく、神様を信じなければなりません(2節)。
 ニコデモが、イエス様から『人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』(3節)と聞いた時に、彼はその言葉の意味を理解することが出来ませんでした。彼は優秀なパリサイ人であり、頭脳明晰な人物で、聖書の知識は豊富でありました。しかし信仰の世界については全く理解できなかったのです。
 私たちも同じではないでしょうか。初めて教会に来た時や、神様を求め始めた時は分からないことだらけです。そのよう中で、聖書を学ぶうちに、少しずつ信仰についての理解を深まっていくのではないでしょうか。
 しかし、どれだけ聖書を学んだとしても、それで天国について分かるのではないのです。数学の問題を解くカギは公式にあるのですが、聖書の世界について理解するカギは、聖書に書いていることをそのまま信じることなのです。
 つまり聖書の神様を信じる、あるいはイエス・キリストを信じるとことによって、神の国について知るだけでなく、神の国に入ることができるのです。
 第2に天国(神の国)に入るためには、信仰によって新しく生まれる変わらなければなりません(5—7節)。
 ニコデモもそうであったように、当時のパリサイ人や律法学者たちは、聖書を深く学び、また聖書の知識は豊富でしたが、イエス様が聖書から話されたことを全く理解できなかったのです。その要因は、聖書を生ける神のことばとして受け入れていなかったからです。つまり聖書に書かれている神様と個人的な出会いをしていなかったのです。
 もし幼子のように、素直な心になって聖書の教えを受け入れるなら、その人はまことの神様に出会い、天国について知ることが出来、そして入ることが出来るのです。それが、5、6節のイエス様のお言葉の意味なのです。
 このイエス様のお話も、ニコデモにとっては理解することが出来ずに、『どうしてそのようなことがありうるのでしょう。』と彼はなお信仰に至ることはなかったのです。
 彼の学問から得た多くの知識や、彼のすぐれた知性や理性が、皮肉にも神の真理を見えなくしていたのです。
 すでに新生している私たちクリスチャンも気をつけないといけないのです。この世の知識や情報や常識、あるいは自分の能力や経験(悪いということではなく)といったものにとらわれ過ぎて、それが信仰の妨げとなって神様を疑い、不信仰になって神様からの祝福を受け損なうこともあるのです。
 まして新生していないニコデモにとって、目の前のお方が神の国から、つまり天から降りて来られた生けるまことの神の子であるということを信じることがどれだけ難しいことだったでしょうか。このことは今日の人々にも共通しているゆえに、伝道は決して容易ではないというのは確かなことであります。
 3つ目に神の国に入るためには、イエスを神の子と信じなければなりません(11—13節)。
 多くの人は言われます。『私は神の存在を信じます、しかしイエス・キリストが神の子であるとは信じられないのです。』と。かつて、私はそのようなクリスチャンと学びをしたことがあります。毎週一回、その方の家に行って学びをしたのです。その方は主婦でした。大阪のある教会で洗礼を受けられたのですが、どうしてもイエス・キリストが神の子であることが分からないと言われるのです。ある方から、その方を導いて頂けませんかと依頼されたのです。
 そして一年間毎週一回の学びの時を取りましたが、とうとうイエス様を神の子と信じることが出来ずじまいでした。その学びの時間は私にとっては非常に苦痛なものとなりました。
 しかしその後、子供さんも教会に行かれて洗礼を受けられたと伺いました。恐らくお母さんもイエスを主と告白されるようになられたと思います。蒔かれたみことばの種が無駄にならなかったようであります。
 このお母さんの一番の問題点は、イエス・キリストの十字架の意味が自分のものとなっていなかったからではないと思っています。1
 3—15節において、一つの事実が隠れているのです。それは『人の子もまた上げられなくてはなりません。』という主の言葉です。つまりイエス・キリストは私たちの罪のために十字架で死なれて、三日目に墓よりよみがえらなければならないことを予告されていたのです。
 もちろんニコデモは、その意味を知るすべもありませんでした。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれた時に、ニコデモは、勇気を出してイエス様のご遺体の葬るために、非常に高価な没薬とアロエを持って来たのです。
 彼は主イエス様の短い生涯を見聞きしてきました。つまりイエス・キリストをずーと求道してきたのです。ですから彼にとってイエス・キリスト死は非常に悲しいものとなったはずです。
 しかし、まもなくこのニコデモも、弟子たちと同じように、主の復活を知るようになるのです。 
 聖書には書かれていませんが、ニコデモはキリストを信じ、神の国を見出したはずです。
 なかなか信仰に至らない人が身近にたくさんおられることと思います。しかしあきらめないようにしましょう。何よりも祈り続けて行きましょう。確かにこのニコデモのケースのように信じるのに時があるのです。
 『今が、主を求める時だ.』
  (ホセア書10章12節)