『イエスの宮清め』 2013年5月5日(日)

 『宮きよめ』  −信仰のためにという口実−
 ヨハネ2章13—22節 13.5/5
 ちなみに口実とは、言い逃れ、言い訳、責任逃れという意味があるのですが、私が神学生の時、説教学の授業において、ある先生が、「講壇に立つ時は弁解や言い訳はしないほうがいい」と教えられました。例えば、前の週がどんなに忙しくても講壇に立った時に、先週は忙しくて今日は十分に語れないかも知れませんなどと言うべきではないいうことであります。 
 たとえ、何か事情があってメッセージの準備に十分な時間をかけられずに講壇に立ったとしても、あとは神様のお働きにゆだねて語ることが大切であるということです。
 また、この口実ということについてですが、子供は本当は勉強なんかする気がなく、いやいやながらやっているという気持ちを隠して、親のために勉強してやってるんやなどと言うものなら、親はどう思うでしょうか。たいていの親はきつく叱ることでしょう。
 往々にして人は自分を守るために、言い逃れや、弁解をしやすいものではないでしょうか。何かを理由にして、何かを口実にして、本来自分がすべきことを避けて通るのです。しかしこのような生き方は、人生のなかで習得すべき大切な教訓や経験さえも逃してしまうこともあるのです。
 ですから、そのような口実を使っている人に対して正してあげるのは良いことであります。しかもやさしく、穏やかに正してあげるなら、なお良いことであります。その人のためになるなら叱ってあげるというのは愛情なのです。しかし、場合によっては、厳しく叱らなければならない時もあります。それもまた愛情表現であります。
 さて、たいていの人は、イエス様は優しいお方というイメージを持っておられるかと思います。それゆえに、けさの聖書箇所でイエス様が非常に憤慨しておられるというイメージは少し描きにくいものがあると思います。
 というのは私たちは時々、激しい感情を持って怒っている人を見るときに、大人げないとクールな目で見たり、あるいは、あんなにまで怒らなくてもいいのにと悪いイメージを持つことはないでしょうか。しかし、それはイエス様には当てはまらないというのは言うまでもないことです。
 イエス様が憤慨されたのには十分かつ正当な理由があったのです。けさはそのことについて学んで行きましょう。
 さてイスラエルには3大祭りがあります。一つは過ぎ越しの祭り、もう一つは七週の祭り(五旬節=ペンテコステ4月に小麦の収穫 ちなみに大麦の収穫は5月)、そして仮庵の祭り(オリーブ・いちじく・ぶどうの収穫 9、10月)であります。
 けさの箇所は、過ぎ越しの祭りの時期であります(13節)。イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に、神様がエジプトの民には長子の死という災いを下され、家門に動物の血を塗ったイスラエルの民は、神からの災いを逃れ、その日の夜にエジプトから脱出したのです。
 このように神様の災いが通り過ぎて、エジプトから解放されたことを記念して、今日も引き継がれている祭りが過ぎ越しの祭りであります。
 その祭りの週には、離散しているイスラエル人もエルサレムに集まって来るのです。そこで、神殿にささげる小動物や、あるいは牛や羊を遠くから運んでくることは大変であるということで、異邦人の庭にてこれらが売られていたのです。
 さらに、神殿にささげるお金についても、異国のお金を自国の通貨に両替したり、あるいは、汚れたお金の両替もできたようであります。これらのことは、神様を礼拝するために、どうしても必要であったと考えることもできるのです。
 ところが、イエス様が宮の中に来られて、これらの商売人をご覧になられた時に、烈火のごとく怒られたのです。そして細縄でむちを作られ、動物たちを追い払われ、両替人たちの台や、お金をまき散らされたのです。
 注解書では、イエス様のこのような行為を宮きよめと言われているのですが、実は宮きよめはこの時と、十字架にかかられる五日前にも同様な宮きよめをされているのです。
 ところで、先ほど私は、イエス様は烈火のごとく憤られたと表現したのですが、実は聖書のどの箇所にもそのような表現では描かれてはいないのです。先ほどの表現はあくまでも私の想像によるものです。とはいえ、イエス様は厳しい表情で、激しい口調で商売人たちを叱られたと思われるのです。
 ところが、イエス様の憤りによってこれらの人々に対して大きな危害を加えられたり、大きな損害を与えられてはいないことに注意を払うべきです。
 たとえば、むちと言っても細縄です。また動物を追い払われても、持ち主はそれらを取り戻すことはできたのです。
 また両替人も同様です。台をひっくり返されたとしても元に戻せます。お金を地面にばらまかれても、あとで拾うことができるのです。鳩についても、箱から出すようなことはされなかったのです。ですから、ひどく憤られているように思えても、実は冷静さを失われずに対処しておられたのではないでしょうか。なかなか私たちにとっては難しい行動であり、対応ではないかと思います。
 つまりイエス様は、これらの商売人を憎んでおられたわけではなく、あるいは毛嫌いしておられたのでもないのです。それは、彼らが神様のためにという大義名分を傘にして、自分たちの欲のためにあるいはお金もうけのためだけに神の宮を利用していたことに対して怒られたのです。そのように神様の御名が汚されていたことに強い憤りを覚えられたはずです。
 また、そのような行為を黙認していた祭司長やあるいは、律法学者に対しても憤りを覚えられたに違いありません。 
 そのために、二回目の宮きよめの時には、指導者たちはイエス様を殺そうと企んでいたのです。ですからこのイエス様の宮きよめの行為は、命を狙われるという危険を承知でなされたことでした。
 しかし、イエス様は神様の前における正しくない行為や偽りに対しては、毅然とした態度を貫き通されたのです。それは、神様ためであり、何よりも神様の栄誉を守るためのものでした。
 さて私たちも、この聖書箇所から神様の前にどのように歩んでいるのかを吟味することが、けさのみことばに対する正しい応答ではないでしょか。
 まず、私たちが毎週ささげている礼拝についてはどうでしょうか。決してお金もうけや、商売の家、あるいは強盗の巣にしているということはないでしょう。
 しかし、神様を礼拝するという真の意味を見失ってはいないのか、あるいはおろそかにしていないのかを振り返りしましょう。
 確かに教会にける兄弟姉妹との交わりは大切であります。しかし、私たちは楽しい交わりだけを求めて教会に来ているとするなら、神への礼拝が大義名分ということになりかねないのです。まず教会に来る目的は神様を礼拝することであり、しばし神様に心と思いを向けて、霊とまことを持って礼拝すべきと主イエス様も教えられたことを心に留めましょう(ヨハネ4章24節)。
 次に、礼拝において心からの賛美をささげる。それは賛美の歌詞の意味を味わいつつ、その意味を心に留めて神様に賛美をささげるという思いが大切であります。
 あるいは、メッセージを聞くことにおいても、神様はけさのみことばから私に何を教えようとされているのかを謙虚に聞く姿勢は大切であります。
 そして、献金の時も非常に重要な時であります。日々の恵みに対して、またその日の礼拝に対する応答を見える形で、心から進んで、喜んで神様の前に現すものが献金であります。
 しかしながら、礼拝に来ることが精一杯という時もあると思います。前の一週間が非常に忙しく疲れている中での礼拝出席という時もあるでしょう。
 でも私たちは真実な心をもって神様の前に出るように心がけましょう。いつの間にか礼拝がマンネリ化、習慣化、心のこもらない形式的なものになることにお互いに注意を払おうではありませんか。
 礼拝だけでなく、いつしか神様のためにという口実によって、自分の都合のみを優先していたり、自分の利益のみを考えているという心を持ちながら、自分は他の人よりも信仰的だという思い違いは間違っても持たないようにしたいものです。
 では、神様の前に真実に歩むというのはどいうことでしょうか。それはたとえ信仰が人よりも弱っていても、あるいは気持が落ち込んでいても、また霊的には恵まれていない状況であっても、ありのままで神様の前に出るということなのです。
 神様の前には、だれも隠し事はできないし、すべてが裸なのです。何よりも神様が好まれるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心であります。
 さて、私たち罪深い者が神様のためにというのは本来は恐れ多いことではないでしょうか。むしろ神様が私たちのために、尊い御子イエス・キリストのいのちを犠牲にされて、私たちを贖なって下さったことを忘れてはいけないのです。
 けさは、神様のためにしていますという思いの中に、いつの間にか救われる以前の古い自分が居座ってはいないのかお互いにチェックしましょう。