[『神の愛とさばき』 ヨハネ3章16,17節 2013年6月9日(日)

    「神の愛とさばき(1)」
     13年6月9日 ヨハネ3章16—17節

 私が神学生の時に、説教学を教えていただいていた先生が、「最近、教会において神の愛は語られるのですが、神のさばき(永遠の滅び)についてのメッセージはあまり語られていないのでは」ということを言われたのです。
 人々に神様の救いについて話すときに、神の愛については語りやすいでしょう。しかし神のさばきについて語ることに躊躇するという経験はないでしょうか。
 ある時に、私の知人に神様の救いについてお話をさせていただいた時に、その人の身内ですでに亡くなられた方がおられたのです。そしてその人が言われるのには、「神を信じないで亡くなったとするなら地獄に行ったという事ですか」と聞かれた時に、その返答に困ってしまいました。
 もしイエス様を信じないで死なれたとするなら、その人は天国ではなく地獄に行くのかという話の流れになった時は、話を続けるには非常に難しい局面ではないかと思います。
 私の場合そのようなときは、亡くなられた方の魂の行方については、生きている私たちが決めることではなく、それは神様の御手にお任せしたほうがいいのではないでしょうかと語るようにしています。
 なぜなら、亡くなられた方が生前、神様のことや、イエス・キリストについての救いについて、どこかで聞かれていたかも分かりません。そして、その人がそのメッセージに対してどのように応答されのか、あるいは神様の救いを求められたかは分からないのです。
 何よりも、今生きているその人自身(あなた自身)が神様の救いにあずかることが何よりも大切であることをお伝えするようにしています。
 確かにこの日本においての伝道は難しいものがあるのですが、けさの学びによって神様の愛とさばきについての正しい理解ができればと思っています。
 さて、この3章では、神様の救いとさばきの両方が語られているのですが、決して神様のさばきが強調されているところではないのです。
 けさの16節、17節のみことばの強調点とは、神様のさばきによって滅びることにあるのではなく、神様の愛と信仰によって救われるということにあります。
 これまで実に多くの人々がヨハネ3章16節のみことばを聞かれて、神様が私たちをどれほど愛してくださっているかを知り、そしてイエス・キリストの救いにあずかられたかは測り知ることは出来ません。
 しかし、聖書は決して神のさばきを強調しているわけではないのですが、もし神様のさばきについて一言も語られていないとするなら、神様の救いを人々に語ることにそれほど切実感が起こらないように思われます。
 聖書は永遠の滅びがあることを語られているにも関わらず、クリスチャンの内にどれだけの切迫感があるでしょうか。
 ある神学校の教師陣が、神学生が伝道に熱心になるためにはどうすればいいでしょうかと、ある神学者に質問したところ、その神学者は、「もし彼らが地獄を見ることが出来るならきっと必死になって伝道するにちがいない」と答えたというのです。
 皆さんの中には、地獄に行きたくないから神様を信じたという方もおられるのではないでしょうか。
 もちろん信仰の入り方は色々あると思います。神様の愛に捉えられて神様を信じた方、あるいは自分の罪の深さを知って神様の赦しを求めて救われた方、また広大な自然を通して神の存在を認められて、まことの神様に出会われた方、あるいは、幼い時から教会に連れられて、何の疑いもなく神様を信じ受け入れた方等、信仰の導かれ方は色々なケースがあるのです。
 私自身は、生まれて初めてイエス・キリストの名によって祈った時に、神様の存在を確信したために、地獄や神のさばきと言ったことについては信じた後に知ったのです。
 確かに神様を知らない方に、いきなり神のさばきや地獄についてから話すクリスチャンはいないと思います。
 やはり神様はどれほど私たち人間を愛してくださっているかをお伝えするというのが、ごく自然なことではないでしょうか。
 とはいえ神様のさばきについて語ることなく、それを避けて通るということもできない時もあるのです。
 なぜなら、神様の愛とは何かを語ろうとするなら、どうしても神様のさばきについて語る必要が生じてくるのです。
 昨日、昼ごはんの時に、擦った山芋に醤油をかけて食べたところ味がおかしいのです。実は醤油さしと思っていたのがソース入れだったのです。妻に言われました。ちゃんとソースと書いてるのに。確かにビンにソースと書いていても間違ってしまったのです。
 なおのこと、たとえば劇薬の入った瓶に、これは劇薬と赤い字で大きく書かれていないなら、もしだれかが劇薬とは気付かないで、不用意に扱ってしまうなら大変なことになるのです。
 なおのこと、私たちの心にある罪ゆえに神様のさばきを受けて、死後永遠の滅びの場所に行かなければならないという事実について、神様が明確に語られているというのは至極当然のことではないでしょうか。
 そのようなさばきがあるゆえに、神の御子キリストが、人のお姿をとってこの世界に来られて、罪なき聖いお方が罪ある私たちの身代わりとなって、私たちが罪のために受けるべき神様のさばきを、キリストご自身が十字架の上で受けてくださったのです。
 『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』
    (第2コリント5章21節)
 もし罪によってもたらされる神の永遠のさばきについて明確に語られなければ、神の御子キリストが罪人の救いのために、この世界に来られたという目的や意義をしっかりと受け止めることが難しくなるのです。
 以上が神の愛だけでなく、神のさばきについても語らなければならない第一の理由なのです。
 次に神のさばきについて語ることを避けて通れない第2の理由とは、イエス・キリストを信じた者が、明確に神のさばきの恐ろしさを知ったためなのです。
 それは決して肉の目で地獄の恐ろしさを見たわけではありません。
 ペテロ第11章8、9節のみことばです。
 『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見ていないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています.これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』と書かれています。
 信仰の結果、神を肉眼で見ることができないとしても、神様を信じた結果、心には神様によってしか得ることの出来ない喜びや平安に満たされているという神の約束のみことばであります。と同時に、神が聖書に明らかにされている永遠の滅びという恐ろしいさばきについても、信仰の結果によって悟ることが出来るということなのです。
 神を信じることなく死んで行くなら、その人は永遠の滅びに行くということを知ったゆえに、ある人は、何不自由のない生活を捨てて、遠く離れた未開の国に宣教師として赴くのです。
 また神様を信じないならどうなるかを知っているゆえに、自分の家族や友人や知人がそのような恐ろしいさばきから逃れて、救われるように祈り続けるのではないでしょうか。
 あるいはクリスチャンたちが協力しあって、有料の電波を使って神様のことを国中に、また世界中に伝えているのではないでしょうか。 
 そして一人でも多くの人が教会に来られるようにクリスチャンは祈り、そのために、教会は色々な計画を立てて、少しでも教会に人々が来やすいように努力するのではないでしょうか。
 クリスチャンの経営によるターミナルケアー施設の主なる目的は、死にゆく人々の肉体や心の痛みのケアーや、死の恐怖を和らげるためだけでなく、一人でも多くの人々が神様の救いにあずかって頂きたいという大きな目的があるはずです。
 使徒パウロは、『弱い人々には、弱い者になりました.弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました.それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みを受ける者となるためです。』(ローマ書9章22、23節)と言っています。
 パウロの救霊の熱心さは、自分が神の救いにあずかって喜んでいるだけでなく、もっと多くの人々が神様を信じて天国に行って欲しいからです。裏を返すなら、人々が永遠の滅びの場所に行って欲しくないからではないでしょうか。
 最後に神様のさばきが明らかにされなければならない理由とは、それは、神様ご自身が福音によって一人でも多くの人が救われることを心から望んでおられるという神の愛が明らかにされるためです。
 つまり神様はどれほど私たち人間を愛しているのかを知らせ、そしてわたしの愛を受けて欲しいと心から願っておられるのです。
 『私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』 (ローマ書5章8節)