2013年6月16日(日) 『神の愛とさばき(Ⅱ)』−闇から光へ− ヨハネ3章18-21節

「神の愛とさばき(Ⅱ)」−闇から光へ−
   13.6.19 ヨハネ3章18—21節
 2011年3月11日に、東北に最大M9の大地震が発生し、およそ40、50分後に巨大な津波が多くの港町を襲いました。助かった人の多くは、出来る限り高台に逃げた人でした。ここまでは波は来ないだ。まさかあの防波堤を超えては来ないという人間の憶測や判断によっては、巨大な津波からだれ一人身を守ることが出来なかったのです。
 ところが、先人の教えに聞き従った人は九死に一生を得たのです。
 さて、聖書は先人の教えではなく、神様ご自身の声に聞き従うようにと、多くのところで命じられているのです。
 たとえば、民数記21章4—9節に青銅の蛇の出来事です。エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民は、シナイ半島の荒野で40年間もさまよい歩きました。
 その道中において様々な出来事がありました。このところでは、紅海の道に旅立った荒野において、民は神とモーセに逆らって、「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物(マナ)に飽き飽きした。」とつぶやいたのです。
 そこで神様は、彼らに燃える蛇を送られたので、蛇は民をかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだのです。そこで、民は神様とモーセに非難したことを詫びて、蛇を取り去ってくださるように神に祈って欲しいとモーセに頼みました。
 それで、神様はモーセに青銅の蛇を作り、それを旗竿の上に付けるように命じられたのです。そしてその旗竿の青銅の蛇を仰ぎ見た者は、蛇に咬まれても死ぬことはなかったのです。
 そしてエレミヤ7章22—24節では、『わたしは、あなたがた先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに、命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたを幸せにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。」』と記されています。
 私たちも、イスラエルの民のように人生の荒野(試練や思いがけないつらい出来事や、あるいは悩み苦しみなど)に置かれた時に、神様に感謝することができなくなり、つぶやき、不平不満を言い、反抗的な者になるということはないでしょうか。
 私たちは、悲しい状況に置かれた時や、厳しい状況になった時に、神様は私をさばかれているのではないか、あるいは私のことは忘れておられるのではないかと不信感を抱きます。しかし、それはさばかれているのではなく、また忘れてたのではないのです。信仰が試されているのです。
 このように、神様が私たちの信仰を試される理由は、アダムの前に善悪の木を置かれたのと同様なのです。それは自分の意思によって神様に聞き従うかどうかを見ておられたのですつまり神様は、心から聞き従うことを願っておられるということなのです。
 けさの聖書箇所のヨハネ3章18—21節に戻りましょう。
 まず18節です。『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』
 このみことばによると、イエス・キリストを信じるか信じないかによって、神とその人との関係が生きている時だけでなく、死後においても永遠に損なわれてしまうということであります。
 こんな逸話があります。ある観光客がその随行員の一人に案内されて、画廊を一巡した時のことです。その画廊には、永遠の美と、稀なるすぐれた才能を秘めた、値をつけられないほどの貴重な作品が幾つかあった。一巡し終わった時、その観光客は「ふん!この古びた絵はどうかと思うね。」
 そこで随行の人はもの静かに言った。「思い起こしていただきたいのは、これらの絵はもはや審判される必要はなく、審判されるのは、これらを見ている人々のほうだということです。」その人が示した反応のすべてが、彼自身の哀れな盲目さを示しているにほかならない。
 この逸話のように私たちもイエス・キリストがいかなる人で、いかなるみわざをなされ、どのようなことを教えられ、人々に何をされたかを知って、このイエスのうちに神を見出すならその人は救われるのです。
 しかし、もしイエスから何も見出さないなら、あるいは無関心であるなら、その人は自らの応答によって罪に定められるのです。つまり人が神様にさばかれるのは、神様を正し理解(知ろうと)しようとしない意思によるのです。(17節)。
 では次に、さばかれる根拠と理由について19—21節から見て行きましょう。
 この3節で光ということばが5回繰り返されています。もちろん光とは神様のことです。光の性質とは影がないということと、光は影を照らすのです。さらには、光はその影(心の闇)にあるものを明らかにします。
 ヨハネ4章7節から、サマリヤの女の話が書かれています。
 このサマリヤの女は、罪深い人生を送っていました。あるときに井戸に水を汲みに来たところ、イエス様の方から彼女に声をかけられました。当時のユダヤ人はサマリヤ人と交わることを避けていたために声をかけることはありませんでしたが、イエス様は彼女に近づかれて話をされたのです。
 いろいろと話された後、イエス様は彼女に、『あなたの夫を、ここに呼んできなさい。』と言われたときに、彼女は『私には夫がありません。』と答えたところ、イエス様は『あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。』と言われ、そのときに彼女は、『先生。あなたは預言者だと思います。』と答えたのです。つまりイエス様は彼女のすべてをご存知でした。
 彼女にとって、これまで5人の夫がいたということは、だれにも触れて欲しくないことでした。また知られたくなかったことでした。しかしイエス様はあえてそのことを明らかにされました。
 しかし、それによって彼女は、イエス様のうちに光を見出したのです。そして人々にイエスがキリストであることを証言したことによって、多くのサマリヤ人はイエス様がメシヤであることを信じたのです。
 彼女の過去の闇を照らされたのは、彼女の過去を暴いて、さばくためではなく、彼女がイエスのうちに光を見出すためでした。つまりイエスのうちに神を見るためでした。
 しかし人々は光よりも闇を愛したのです(19節)。それらの人々は自分の意思によって罪によるさばきを自ら選択したのです。 
 そのさばきから逃れる方法は、光を受け入れることです。つまり私の心の中をすべてをご存知であるお方を恐れるのではなく、拒むのではなく、心から喜んで受け入れることなのです。
 神様は私たちの過去に興味を持っておられるのではなく、いかなる過去であるにもかかわらず、私たち自身に興味を持っておられ、私たちを愛しておられるのです。
 どれほど愛してくださっているかは、イエス・キリストの十字架の死によって具現されたのです(ローマ5章8節)。
 ですから、私たちは決してキリストの十字架に無関心であってはいけないのです。あるいは、他人事であってはいけないのです。それは闇を愛し(19節)、光を憎む行為なのです(20節)。
 これこそが、人が神のさばきを自ら招いてしまう最大の理由であります。
 さて、私たちは神様のさばきについて正しい理解を持っているでしょうか。旧約聖書に書かれている神様の徹底したさばきを見て、神は愛であるということに疑問を抱いて、つまずく人もおられます。
 私たちのセリフはいつもこうです。『もし神様がおられるならどうして?』とうことばです。キリスト教国のアメリカがどうして大量虐殺を承知の上で原爆を日本に投下したのか。神様が愛なら、どうしてこの世の中に不公平があるのか。悪者がのさばって、いい人が報われないのか。あるいは神はどうして罪を犯すような人間を造られたのか。
 あるいは処女がどうして子供を生むことができるのか。そして死んだ人間がどうして生き返ることができるのか。
 そして究極のセリフは、もし神が愛ならどうして地獄を造られたのか。そのように言いながら闇の人生を送り、空しい毎日を送っていたのが、実は他でもない私自身でした。
 神様に頼る人生は弱い人間だというレッテルを貼って、強がって生きていた私こそが、惨めで、弱くて、何よりも罪深い人間であることを、イエス・キリストを信じたときに分かったのです。キリストに信頼して生きる(21節)ことこそが光の生き方です。
 『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』(ヨハネ8章12節)
 先人の教えに従った人々は津波から尊い命が守られました。そして神の御子イエスの教えに従うなら、神のさばきから逃れて永遠のいのちが与えられるのです。