[『よくなりたいか』 ヨハネ5章1−9節 2013年7月7日(日)
「よくなりたいか!」
ヨハネ5章1−9節 13.7.7
神学生3年生の時に、こんなことがありました。それは、東京八王子市にある親戚を尋ね、おじさんが経営している中古車の店に行った時のことでした。展示している自動車の中で、8人乗りで中古とはいえ真新しい日産の自動車に目がとまりました。神学校卒業後、こんな自動車があればいいなと思って、冗談交じりに、「おじさんあの車いいですね。」と言ったところ、おじさんは、「乗って帰るか」という返事に、もちろん冗談と思ったのですが、そのおじさんもすでに天国に行かれて、そのときの真意は分からずじまいです。ところがその後に、この中古車の話をおばさんにしたところ、「お父さんは、本気で自動車をプレゼントしょうと思っていたかもね?」という返事でした。
確かにこのおじさんは気前が良かったのですが、中古車とはいえ130万円近くしていたものを、いくらなんでも、ただでいただくというのは、私にとってはありえないことでした。
けさの聖書箇所に登場する病人も同じではなかったのかと思うのです。38年間も病に伏していた人が、イエス様からいきなり、「良くなりたいか」と言われても、どう返事をすればいいのか、全く見当がつかなかったのではないかと思います。
ということでけさは、イエス様のことばに戸惑っていたこの病人を、イエス様はどのようにしていやされていくのかを学びましょう。
さて、今からおよそ2000年前の時代において、多くの人々が病気(当時は、たいていの病気が不治の病になるのです)で苦しんでいたことでしょう。
事実ベテスダという池の周りには多くの病人が集まっていたのです。その池に集まって来た理由は、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かしたあとで、最初に池に入った病人がいやされるという不思議な出来事があったからです(7節の出来事に対してイエス様が否定されていないゆえに、今日の私たちも信仰を持ってこの不思議な出来事を受け入れたいものです)。
ユダヤの祭りの時に、イエス様がベテスダの池を通られた時に、38年間も病にかかっている人を見つけられたのです。それは偶然ではなかったはずです。
イエス様は人々の心の中のすべてを知っておられるのです。また人々ががどんな状況の中にいるかもすべて知っておられたのです(前回のサマリヤの女に関しても同様でした)。
それは今日も変わらない真実であります。私たちが今何に悩み、苦しみ、悲しみ、辛い思いをしているかもすべてご存知なのがイエス様なのです。
楽しい時や喜んでいる時に慰めや励ましはあまり必要としないでしょう。しかしその人が悲しい時や苦しい時に、そのことを知ってくださるお方がおられるというのは、どれだけの慰めであり、励ましでしょうか。
使徒パウロは、第2コリント1章4節で『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。』と言っています。
私たちは悲しい時や苦しい時は、神様はどこにおられるのかと疑いやすいものですが、やはり神様のみことばの約束をいつでも、どんなときでも信じましょう。
ヘブル書13章5節には『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』と約束しておられるのです。
ということで、たくさんの病人がいた中で、たまたまこの病人に遭遇したと考えるよりも、すべてのことをご存知の主は、特別にこの病人に目を留めてくださったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
もしかすると、今ベテスダの池にいる多くの病人たちの中で最も不幸と思われる人物であったのかも知れません。
このところで教えられる一つ目のことは、神様は私たち一人ひとりに目を留めておられるということです。(5,6節)
それは詩篇の記者も語っているのです。『主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から、地に住むすべての者に目を注がれる。』(詩篇33篇13,14節)
さて、当時イエス様は33歳と思われます。ということは、この病人はイエス様がこの世においでになる前から,ベテスダの池で病に臥せていたのです。
38年もの間、どのようにして、一体だれが彼に日々の食事を与えていたのかよく分かりません。家族のものでしょうか?あるいは、エルサレムの神殿に礼拝に来る人々にあわれみ深い人がいたのかも知れません。
それにしても来る日も来る日も、病に臥して身動きの取れない状態がどのようなものであったのかは本人にしかわ分からないことでありますが、その彼がいつしか悲しみから絶望へ、そして、やがてあきらめという心境の変化があったのではないかと思われます。
それゆえに、イエス様の『よくなりたいか』というおことばに対して、『はい』と素直に応答することが出来なかったのでしょう(7節)。
彼にしては無理もないことですが、二つ目にこのところで教えられることは、あきらめや固定観念は不信仰の種になるということです。
彼や家族の者たちは、恐らく初めは神様に癒されるように祈り願っていたことでしょう。しかしあまりにも長い年月の病の中で、いつしか祈ることにさえ空しさを覚え、彼にとって、あるいは家族の者にとっても、神様は遠い存在となってしまったのではないでしょうか。
とはいえ、38年間も続く病の中で神様を求め続け、信じ続けると言うのはだれであれ容易なことではありません。ところが、イエス様は彼の信仰姿勢について何も問われていません。あるいは38年間どのように生きてきたのかも問われていません。また彼は神様を求めることに挫折し、あきらめと絶望の中で、神様を恨むこともあったかも知れません。
しかしイエス様は、たとえ彼が罪に苦しむ暗い過去を持っていたとしても、また神様を恨むようなことがあったとしても、何も問われなかったのです。
彼はすでに長い病によって、十分すぎるほど罪から来る重荷を背負って来たのです。信仰を持ち続けるにはあまりにも過酷な状態であったことも、イエス様はそれらすべて承知の上で、『よくなりたいか』と聞かれたのではないでしょうか。
それは今日の私たちにとっては、神様から『救われたいか』と聞かれているのと同じことなのです。もし私たちが、これまでずっと祈ってきたけど何も聞かれていないためにあきらめてしまい、祈らなくなった。
あるいは私のような者が神様に祈っても聞かれないといったあきらめや固定観念が私たちを不信仰に追いやるものなのです。
あきらめや固定観念は信仰の妨げとなることを覚えましょう。家族の者が神様を信じて救われることをあきらめるのは禁物です。あるいは今の子どもたちやご主人を見て、神様を信じるとは思えないといった固定権念を持つことは禁物で。
マタイ19章23−26節のなかで、イエス様は弟子たちに、『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』と言われたのです。
今日において、旧約聖書の出来事や使徒の時代にあった不思議な奇跡やしるしを見ることはできないかも知れません。しかし、今日の奇跡とは、人がイエス・キリストを信じて救われ、神の子どもとされ、天国の約束をいただき、そしてその人の人生が新しく造り変えられることなのです。
その奇跡の体験は、みことばを聞いて、それを信じることによって体験出来るのです。それが今日の奇跡であり、しるしと言えるでしょう。もちろん必要なら病の癒しも起こることでしょう。
将来のことはよく分かりませんが、少なくとも現在においては、それらが第1ではないと言うことは確かなことであります。ですから、人々の救いについては、不可能を可能とされる神様の約束をしっかりと信じましょう。
使徒パウロとシラスの、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』(使徒16章31節)のおことばを聞いて信じた看守もその家族も救われたのです。
今日も主イエス様は、主権を持って、私たちに『よくなりたいか』つまり『救われたいか』と聞かれているのです。『はい!』と素直に応答できるなら何かが起こるはずです。
最後に8と9節で教えられることは、キリストのおことばに従う幸いであります。
この病人にとって、38年間も病に臥せている間において使っていた床を取り上げることは彼にとっては実に大きなチャレンジだったはずです。なぜなら彼にとってその床はなくてはならないもの、そして生活の一部となっていた大切なものだったからです。つらい病の中にあって枕する所があったというのは、彼にとってはしばしの安息の時であったに違いないからです。
それでも、キリストのおことばに従う。つまり私たちにとって、この神のことばである聖書に聞き従うことは、この世において身に付いた価値観や習慣や多くの経験といったものをしっかりと握り締めている手を放さなければならないこともあるということなのです。
これだけは手放せない、あるいはこれだけはやめることは出来ないといったことで永遠のいのちという救いのチャンスを逃したと言う人がどれだけ多くおられたことでしょうか。あるいはおられることでしょうか。
病に冒された人々がたくさんいるべテスタという池において、病のいやしと罪の赦しと永遠のいのちという素晴らしい神の祝福を手に入れたのは、この池において38年間も癒されるチャンスを逃していた、最もあわれと思われる一人の男でした。
それは、イエス様の『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』というおことばに従ったからです。
彼は床を取り上げて歩き出し、体だけでなく、38年間も病に苦しむといった絶望的な中で、ゆがんでしまったであろう心も癒されて、新しい人生を一歩踏み出したのです!